魚
朝、陽が目を覚ますと、ツグミは木の下にいなかった。熾には土がかぶせてあって、袋も無い。草の上に、川のほうへ向かう踏み跡が一筋ついている。陽はしばらく熾の上に手をかざしていて、それから立ち上がった。門はいつものように開き、石の台の槍の男は、いつものように何も言わない。
鍛冶場は、前の日と同じ音で始まった。
一つ打って、間があって、また一つ。鍛冶の男が打ち、コウが鞴を押す。陽は棚の下の段の残りの道具を、壁際で一つずつ磨いた。鑢の目の粉をほじり出し、火箸の錆を落とす。昨日の夕方のことを、誰も口にしなかった。明後日、とコウが言ったのは昨日だから、明後日は、明日になった。陽はそれを頭の中で一度だけ数えて、それ以上は数えない。
男は午前のあいだ、細長い鉄の棒を何本も打って、先を平たく伸ばしていた。何になるのかは陽には分からない。コウはその棒を、一本打ち上がるたびに水桶に沈め、引き上げて、台の脇に並べていく。並べる順は長さの順で、男は並んだ棒を見て、一本だけ順を入れ替えた。コウは何も言わずに、それを見ている。
昼に、男はいつものように包みを開けて、一枚ちぎって陽に突き出した。陽は受け取って、礼を言う。何もかも、いつもと同じだった。
昼を少し過ぎたころ、男が炭を足しに奥へ入った。戸が閉まる音がして、鍛冶場に陽とコウだけが残る。
コウが、鞴から手を離して、陽のほうへ来た。
「なあ」
陽は火箸を擦る手を止めた。
「外まで、付いてきてくれないか」
「外?」
「塀の外」
コウは戸口のほうを顎で示した。それから、奥の戸のほうを一度見て、声を少し落とした。
「前に、言ってたろ。外の人は、川で魚を捕るって。手で」
陽は、いつそれを言ったのか、すぐには思い出せなかった。市へ行った日の帰りか、代官所の帰りか。塩の値の話のついでに、外で魚ばっかり食ってる、手で捕るんだよ、手で、と、たぶん喋った。喋ったことは覚えていないが、喋りそうなことではあった。
「言った、かも。うん。捕る。すごい上手い」
「今夜の飯に、捕れたてのを出したい」
コウはそれだけ言った。市の干した魚ではなく、捕れたての川魚。焼いて、今夜、家で。陽はコウの顔を見た。コウは陽を見ていなかった。奥の戸のほうを見ていた。
「親父さんには」
「言ってない」
陽は、それ以上は訊かなかった。
「いいよ。行こう。……あ、でも、俺、あの人とは言葉がほとんど通じないからね。そこは期待しないで」
「いい。僕がやる」
コウはそう言って、前掛けを外して釘に掛けた。それから、ふと思い出したように、陽のほうを見た。
「あんた、名前は」
陽は、少し驚いた。何日も同じ鍛冶場にいて、名を訊かれたことは一度もなかった。鍛冶の男には、今も「おい」としか呼ばれていない。
「……ヨウ」
「ヨウ」
コウは一度だけ繰り返して、頷いた。それで終わりだった。
奥の戸が開いて、男が炭の籠を提げて戻ってきた。前掛けを外したコウと、戸口のそばに立っている陽を見て、男は足を止める。
「少し、出てくる」
コウが言った。男はコウを見て、それから籠を炉の脇に下ろした。何も訊かずに、顎を一度だけ引く。コウが戸口を出て、陽もその後に続くと、背中で鞴の音が鳴りはじめた。男が自分で押しているのだった。
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市の広場を抜けるとき、コウは魚の屋台の前で一度だけ足をゆるめた。板の上に、干した魚が何枚も重ねて並べてある。どれも平たく、白っぽく乾いていた。コウはそれを横目で見て、足をゆるめたまま通り過ぎた。
「あの人、どこから来たんだ」と、歩きながらコウが言った。
「知らない」と陽は答えた。「ほんとに知らない。訊いても、たぶん答えてくれないし。答えてくれても、俺には分かんないし」
コウは、そうか、とだけ言って、それ以上は訊かない。
門は、陽が近づくと開いた。石の台の槍の男は、陽を見て、隣のコウを見て、何も言わない。コウは門をくぐるとき、少しだけ足を速めた。
塀の外の木の下で、ツグミは火のそばに座っていた。
火はまだ小さく、焚き付けたばかりのように見える。火の脇の平たい石の上に、大きな葉が一枚敷いてあって、その上に魚が三匹、並べて置いてある。まだ焼いていない。鱗が濡れて光っていて、一匹は、ときどき尾を小さく跳ねさせていた。
ツグミは陽を見て、それから、陽の隣に立っているコウを見た。見たまま、動かない。袋の紐をいじっていた指だけが止まった。コウも、木の下から数歩離れたところで足を止めていた。陽は二人のあいだに立って、どちらを見ればいいのか分からなくなった。
「……ええと」と陽は言った。「こちら、コウ。鍛冶屋の、若いほう。魚を、買いたいって」
陽は魚を指さし、それからコウを指さし、それから、手のひらを上に向けて差し出すような仕草をした。自分でも、何の仕草なのかよく分からない。ツグミは陽の手を見て、眉を寄せた。
コウが、一歩前に出た。
葉の上の魚の前にしゃがみ込んで、一匹を手に取った。真ん中の、いちばん太いのだ。コウは魚の腹を親指で軽く押し、それから、鰓の蓋を指で持ち上げて、中を覗いた。鰓の奥はまだ赤く、魚がコウの手の中で一度だけ身をよじる。
コウは魚を持ったまま、ツグミを見上げた。
「この魚、いくらだ」
ツグミは、コウの手の中の魚を見た。
それから、同じ魚を、指さした。
「ネハ」
そう言って、ツグミは指を二本、立てた。
コウは首を横に振った。魚を持っていないほうの手で、指を一本立てた。
「一つ」
ツグミは片方の眉を上げた。それから、短く何か言った。陽にはその音が、意味にならない。石が水に落ちるような、短い音の並びだった。ツグミは立てた二本の指を、コウの顔の前でもう一度振った。
「高い。市なら、干したのが三つ買える」
コウが言い、ツグミがまた何か言う。音だった。コウは魚を葉の上に戻しかけて、戻さずに、もう一度鰓を見た。ツグミが、それを見て笑った。
笑いながら、ツグミは残りの二匹を葉ごと持ち上げて、コウの胸に押しつけた。三匹全部だ。コウが慌てて葉ごと受け取ると、ツグミは空いた手を、コウの腰の袋のほうへ差し出した。手のひらを上にして、指で、ちょいちょい、と招く。
コウは、しばらくツグミの手を見ていた。それから、ため息をついて、腰の袋の口を開けた。中の銭を、全部、ツグミの手のひらに空ける。何枚あったのか、陽には数えられなかった。ツグミは手を閉じて、それを袋にしまった。
「……三匹で、それか」
コウは葉にくるんだ魚を抱えたまま、空になった袋を見下ろした。けれど、怒った顔ではなかった。口の端が、少しだけ上がっている。市で、陽が塩を言い値で買ったのを見たときと、同じ上がり方だった。負けたのは、今度はコウのほうなのに。
陽は、二人のやりとりの、コウの側だけを聞いていた。一つ。高い。三匹で、それか。どこで値が決まったのか、陽には分からなかった。分かったのは、コウが最後に袋を空けたことと、ツグミが笑っていたことだけだった。
優しいんだな、と陽は思った。市では、炭の女とあんなにきっちり言い合っていたのに。ツグミが相手だと、あっさり全部出してしまう。外の人から、値切れなかったのだ。優しいから。
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「行かないと」
コウが言った。空を見上げていた。日はもう傾きはじめていて、塀の影が、草地の上に長く伸びていた。
「飯に、間に合わない。父さんが、待ってる」
コウは魚を抱え直して、ツグミに一度だけ頭を下げた。ツグミは顎を少しだけ上げて、それに応えた。それから、コウは陽を見た。
「ヨウ。じゃあ」
コウは門のほうへ走りだした。葉にくるんだ魚を胸に抱えて、背中を丸めて、門へ向かって走っていく。門が、コウのために開いて、コウの背中が中に消えた。
陽はその背中に手を振っていて、消えてからも、しばらく振っていた。
振り返ると、ツグミは火のそばに座り直して、袋の中から銭を取り出し、手のひらの上で一枚ずつ数えていた。数え終えると、もう一度最初から数える。それから、満足そうに袋の口を縛った。魚を並べていた平たい石の上には、濡れた跡と鱗が何枚か残っていた。ツグミは草をひと掴みむしってそれを拭い、拭った草を火にくべる。草は青い煙を上げて、すぐに縮れた。ツグミは濡れた手も草で拭いて、それでも気が済まないのか、立ち上がって川のほうへ下りていった。
陽は一人で、火のそばに腰を下ろした。塀の向こうで、夕餉の煙が何本も立ちはじめている。そのどれかが、鍛冶場の奥から上がっているのだろう。捕れたての魚が三匹、焼かれている。父親は、たぶん何も言わずに食べる。コウも、何も言わずに食べる。二人とも黙って、骨をよけて、身をほぐして。陽はそこまで考えて、考えるのをやめた。陽の知らない食卓だった。
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夜になっても、ツグミは魚を焼かなかった。三匹とも、コウが持っていったからだ。ツグミは代わりに、昼に摘んだらしい茎の太い草を、何本か火の端で焼いた。陽にも二本寄越す。陽は今度は皮を剥いてから齧った。少し甘くて、青臭い。ツグミは陽が皮を剥くのを見て、鼻で短く笑った。
火が落ち着いたころ、ツグミが袋の口を開けた。
中から銭を一枚だけ取り出して、指の先で弾くように、陽のほうへ投げた。
陽が慌てて手を出すと、銭は手のひらに当たって跳ね、膝の上に落ちた。陽はそれを拾い上げて、ツグミを見た。
ツグミは、もう袋の口を縛り直している。陽のほうは見ずに、顎だけを、陽の手の中の銭のほうへしゃくった。
お前の分だ、ということらしかった。
陽は、手のひらの銭を見た。くすんだ色の、小さな金属が一枚。何もしていない。魚を捕ったのはツグミで、値を決めたのもツグミで、陽はただコウを連れてきて、手のひらを上に向けて、よく分からない仕草をしただけだ。
それでも、一枚。
「……俺、何もしてないけど」
陽が言うと、ツグミは火を見たまま、短く何か言った。音だった。返事なのか、独り言なのか、陽には分からない。ツグミはそれきり、膝に顎を載せて火を見ていた。陽は銭を返そうとして手を伸ばしかけ、伸ばしかけた手を、そのまま自分の膝に戻した。
陽は銭を握った。明日の朝、コウは門を叩く。どの門なのかを、陽はまだ知らない。
陽は銭を、腰の紐のところに、平たい石と並べて挟んだ。




