志願
その日は、夕方までは何も起きない一日だった。
朝、陽が木の下で目を覚ますと、ツグミはもう起きていて、火の残りに枯れ枝を足していた。袋の紐には、輪と一緒に、あの葉がまだ結んである。ひと晩たって少し縁が丸まっているが、ツグミはそれを外そうとはしない。陽が起き上がると、ツグミは火のそばに置いてあった芋に似たものを一つ、灰の中から掘り出して転がしてよこした。陽はそれを手の中で冷ましながら齧り、齧り終えると、「行ってきます」と言って立ち上がった。ツグミは火を見たまま、片手を上げた。
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鍛冶場の鎚の音は、いつもの間で鳴っていた。一つ打って、間があって、また一つ。陽は戸口で頭を下げて、壁際へ行った。棒の束は昨日で片づいていて、壁際には、束ねた棒が長さごとに並んでいるだけだ。陽はその前でしばらく立っていて、することがないのに気づいた。
鍛冶の男が、鎚を止めずに顎で棚を指した。棚の下の段に、錆の浮いた鑢や火箸や小さな鏨が、布の上に雑多に積んである。その脇に、砂の壺とぼろ布が置いてあった。
磨け、ということだった。
陽は道具の山を抱えて壁際に下ろし、一つずつ取って擦りはじめた。鑢の目に詰まった黒い粉を、布の角でほじり出す。火箸の先の錆を、砂で落とす。金具を磨いたときと同じで、擦れば擦っただけ、下から鈍い色が出てくる。周回のようなもので、擦っているあいだは、何も考えなくていい。陽は黙って擦り続けた。
コウは、朝からいつもより少し早く動いていた。炭を割るのも鞴を押すのも、やることはいつもと変わらない。けれど、男が次に使う道具を、男より先に台の脇へ並べている。火箸を取ろうとした男の手の先に、もう火箸が置いてあり、鏨を探して棚を見上げた男の足もとに、もう鏨がある。男はそれを黙って取り、コウも黙って、次の道具を並べた。陽は鑢を擦りながら何度かそれを見て、それから見るのをやめた。
昼少し前に、戸口から年配の女が一人、顔を出した。手に、取っ手の折れた鍋を提げている。女は戸口の外から鍋を掲げてみせ、鍛冶の男が顎で台の脇を示すと、中へ入ってきて鍋を置いた。男は鎚を置いて鍋を取り、折れた取っ手の根元を指でなぞると、棚の脇の箱から細い鉄の板を一枚出して、炉に入れる。
女は壁際の陽に気づいて、じろじろと見た。
「新しい子かい」
コウが「手伝い」と短く答えた。女はふうん、と言って、陽の手元の火箸を見て、陽の顔をもう一度見た。陽が愛想笑いを浮かべて頭を下げると、女はそれ以上何も訊かない。
男は赤くなった鉄の板を鍋の取っ手の根元に当て、鎚で数度打って巻きつけた。水桶に突っ込むと、白い湯気が上がる。男が鍋を女に差し出すと、女は取っ手を握って何度か振ってみて、満足したように頷き、腰の袋から銭を出して台の上に置いた。
「いつも早いね、あんたのとこは」
男は何も言わなかった。女は慣れたように肩をすくめて、鍋を提げて出ていく。戸口のところで一度振り返ってコウのほうを見て、何か言いかけたように見えたが、言わずに行ってしまった。
昼に、男が包みを開けた。いつものように一枚ちぎって、陽のほうへ突き出す。陽は受け取って、礼を言って、齧った。硬くて、少し焦げていて、塩の味がする。コウは炉の脇で、自分の分を黙って齧っていた。男も立ったまま齧っていた。三人とも、何も言わない。いつもと同じだった。
午後、鐘が鳴った。遠くで一つ、しばらくおいて、もう一つ。コウの顔が、あの方角へ向いたが、鞴を押す手は止まらなかった。鐘が止むと、コウの顔はまた炉へ戻る。男は鎚を振り上げ、落とした。音の間は、変わらなかった。
しばらくすると、男は赤い鉄を台に載せたまま、小さいほうの鎚を顎で示した。コウが鞴から離れて、その鎚を取る。男が打ち、コウが同じ鉄の端を打つ。二つの鎚の音が、交互に鳴りはじめた。男が止めればコウも止め、男が炉へ戻せばコウは鞴へ戻る。どちらも、合図らしい合図はしていないように見えた。陽は鑢を擦る手を止めて、その音を聞いていた。二つの音は、一度もぶつからない。
道具の山の底から、小さな鎚が一つ出てきた。柄が短く、頭も陽の拳より小さい。柄の握りのところだけが黒く光っていて、何度も何度も同じところを握られたのが分かる。けれど、握りの幅は、陽の手でも余るくらい細かった。大人の手で握る太さではない。陽はそれを手の中で転がして、頭の錆を落とし、柄を布で拭いた。拭きながら、炉の脇で鞴を押しているコウの手を見て、また小さな鎚に目を戻した。誰の手のものだったのかは、訊かなかった。磨き終えた鎚を、陽はほかの道具と一緒に、布の上に並べた。
錆を落とした火箸を布の上に並べると、十本目だった。棚の下の段には、まだ半分ほど残っている。明日も、これをやるのだろう、と陽は思った。明日も、明後日も。
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日が傾くと、男は炉に灰をかぶせた。火が落ちると、鍛冶場の中は急に暗く、静かになる。コウは道具を棚に戻し、陽が磨いた火箸や鑢を、磨いていないものと分けて並べ直した。陽は布を畳み、砂の壺の蓋を閉める。
男は、炉の脇に干しておいた布を取って黒い塊の前に立ち、奥から手前へ拭きはじめた。
陽は戸口へ向かいかけて、立ち止まった。コウが、道具を並べる手を止めて、棚の前に立ったまま男の背中を見ている。男は布を返して、また奥から手前へ拭いていた。
「父さん」
コウが言った。男の手は止まらない。角を、丸く撫でるように拭いている。
「明後日の朝、門を叩く」
鍛冶場の中で、音がしなくなった。炉の火はもう落ちていて、鳴るものがない。外の道を誰かが通り過ぎる足音が、やけに遠くに聞こえた。
男は、拭くのをやめなかった。
横の面を、上から下へ。刻みのある面は刻みを避けて、刻みの周りをなぞるように。陽が初めてここへ来た日から見てきた、同じ順だった。男は最後まで拭き終えると、布を畳んで台の脇に置き、棚の下から、厚い黒ずんだ布を出した。
広げて、黒い塊の上に掛けた。
布の端が、四つの角から垂れ下がる。男はそれを一つずつ引いて、形を整えた。整え終えると、前掛けを外して釘に掛ける。何も言わなかった。コウのほうを見ず、コウの言ったことに答えないまま、男は奥の暗がりへ歩いていく。
「父さん。——聞こえてたろ」
コウの声は、さっきより大きかった。火の落ちた鍛冶場の壁に当たって、少し返ってくる。
男の背中は止まらず、振り返りもしなかった。足音が遠ざかって、どこかで戸の閉まる音がした。
コウは棚の前に立ったままでいた。しばらくそうしていて、それから自分の前掛けを外し、隣の釘に掛けた。
陽は、戸口のそばに立っていた。畳んだ布を、まだ手に持っていた。
門を叩く、とコウは言った。どの門なのかを、陽は知らない。明後日の朝に叩いて、それから何があるのかも、なぜなのかも知らない。訊かなかった。訊いても、それはたぶん、コウのもので、陽のものではない。
治るまでは、とコウは言った。治ったのは、昨日だ。
陽は、黒い塊に掛かった布を見た。掛けて、角を引いて、それで終わり。それが答えなのだと思った。もうこの話はしない、という答えだ。怒っているのだ、と陽は思った。父親というのは、ああいうふうに怒るのだろう。黙って布を掛けて、奥へ入る。話を打ち切るために。口には出さなかったし、コウにそう言うつもりもない。
コウは釘に掛けた前掛けの向きを、指で一度だけ直した。それから、戸口のほうへ歩いてきた。陽の横を通り過ぎるとき、ちらりと陽を見たが、何も言わずに戸口の外へ出て、道の先の、暗くなりかけた空を見上げた。陽も外へ出たが、コウの隣には並ばなかった。
「……じゃあ、また」
陽が言うと、コウは空を見上げたまま頷いた。
陽は門のほうへ歩きだした。市の広場を横切ると、屋台はもうほとんど畳まれていて、塩の屋台の年寄りが、最後の壺に布をかぶせているところだった。年寄りは陽を見て、いつかのようににやりとはせず、ただ顎を一度引く。陽も頭を下げた。道の両側の家々で、軒先に干してあった茶色の服を、女たちが取り込んでいた。夕餉の煙が上がりはじめ、どこかで子どもが呼ばれ、呼ばれた子どもが返事をして走っていく。いつもの夕方だった。陽はその中を、少しだけゆっくり歩いた。
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門の外の木の下で、ツグミは火のそばにしゃがんで、魚を焼いていた。枝に刺した魚が二本、火の周りに立ててある。陽が近づいていくと、ツグミは顔を上げて陽を見て、そのまま、しばらく見ていた。
陽は火の向こうに腰を下ろした。
「今日さ」
通じないのは分かっていて、陽は自分の国の言葉で喋りはじめた。
「今日さ、コウがさ。門、叩くんだって。明後日。明後日の、朝に」
ツグミは枝を回して、魚の向きを変えている。
「門って、どこの——いや、俺も知らないんだけど。叩いて、それで、どうなるのかも。知らなくて。ただ、明後日で。明後日の朝に、門を、こう——」
ツグミは焼けている一本を火から抜いて、皮の焦げ具合を見ると、何も言わずに、陽の顔の前へ突き出した。陽の言葉は、魚の手前で止まった。
陽は受け取った。熱い。
ツグミは何も訊かない。もう一本の向きを変えて、焼けていない側を火に向け、それから自分の膝に顎を載せて火を見た。陽は魚を齧った。皮がぱりぱりと鳴って、中は柔らかく、少し塩の味がする。熱くて、何度か息を吹きかけた。食べ終えても、胃のあたりの冷たいものは、そのままそこにあった。
陽は骨を火の中に放って、膝を抱え直した。
「……門をさ。明後日の」
明後日も、門も、叩くも、ツグミの言葉では言えない。身振りでやろうとして、門を叩く真似をしかけた拳を、陽は途中で下ろした。何を叩く真似なのか、自分でもうまく説明できる気がしなかった。
ツグミは、陽の下ろした拳をちらりと見て、何も言わずに、もう一本の魚を火から抜いた。自分で齧りはじめる。陽はその横顔を見て、それから、塀のほうへ目をやった。
塀の上に、灯りが一つずつ点りはじめていた。




