手
朝、門へ向かう前に、陽は火のそばで指を折った。ネハ、ルヒ、エナ、トヌ。それから火を指して、「イゼ」。木の幹を叩いて、「ロイ」。ツグミは袋の紐を指でいじりながら、横目でそれを見て、何も言わずに頷いた。紐には、ゆうべ見せられた葉が、輪の隣に結んだままになっていた。何の葉なのか、陽にはやはり分からない。分からないまま、陽は「行ってきます」と言って立ち上がった。ツグミは紐から目を上げずに、片手だけひらりと上げた。
門はいつものように開き、石の台の槍の男はいつものように何も言わなかった。
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鍛冶場の戸口に立ったとき、陽は、音が違うと思った。
鎚の音はしていた。けれど、いつもの間ではない。一つ打って、間があって、もう一つ。その間が毎朝聞いてきたものより少し長く、打つ音も少し軽かった。硬いものを硬いもので打つ音には違いないのに、どこか浅いところで止まってしまう。
道の突き当たりの、間口の広い家の前まで来ても、その浅い音は変わらなかった。中に入ると、炉の前で鎚を振っているのはコウだった。鍛冶の男は台の脇に立ち、火箸で鉄を押さえながら、コウの鎚が落ちるたびに、落ちたところを見ている。いつもなら男が立っている場所に、コウが立っていた。
男の右の手に、布が巻いてあった。指の付け根から手首の手前まで、掌をぐるりと覆うように何重にも巻いてあって、白っぽい布の、掌の真ん中のあたりだけが茶色く滲んでいる。男はその手で火箸を持っている。持っているというより、指の先で挟んでいるだけだ。
陽は戸口で頭を下げた。男は顔を上げず、コウが一度だけ陽を見て、また鉄に目を戻す。陽は壁際の、いつもの場所へ行った。棒の束はもうほとんど片づいていて、残りは数本しかない。縄を手に取りながら、陽は男の手を見ていた。
鐘が鳴ったのは、そのときだった。遠くで一つ、しばらくおいて、もう一つ。コウは顔を上げなかった。鎚は、さっきまでと同じ間で鉄の上に落ち、同じ浅い音を立てた。陽は縄を持ったまま、コウの横顔を見ていた。鐘の音が消えても、コウの目は鉄の上から動かなかった。
鉄が冷めると、男は火箸でそれを炉へ戻した。コウが鞴を押して、火が明るくなる。鉄が赤くなるのを待つあいだに、男は台の上に置いてあった自分の鎚へ、右手を伸ばした。
布を巻いた指が柄に掛かり、掛かったところで止まった。握り込もうとして、指が途中で震える。男は一度手を離し、もう一度、今度は少しだけ深く柄を握った。手の甲の筋が浮いて、それから指が開き、鎚の柄が台の上で転がって小さな音を立てた。
男は何も言わずに、左手で鎚を取って台の上に置き直す。それから赤くなった炉の中の鉄を見て、顎でコウに示した。コウが鞴から手を離して、台の前に立つ。
陽は縄を持ったまま、手を止めていた。
「……昨日」
コウが、鉄を台に載せながら言った。陽のほうは見ていない。
「鉄を落として。拾おうとして、切った」
それだけ言って、コウは鎚を振り上げる。浅い音が一つ、鍛冶場に響いた。
昨日、と陽は頭の中で繰り返した。それ以上は、コウは言わなかったし、陽も訊かなかった。いつ、どうやって、というのを聞いても、手の布がほどけるわけではない。分かっているのは、いま男の掌に布が巻かれていて、それが茶色く滲んでいて、その手では鎚が握れないということだけだった。
陽は、男の手を見ていた。
見ないでおくことはできた。ここは陽の仕事場ではないし、あの手は陽の手ではない。黙って棒を束ねていれば、昼になり、夕方になる。男は左手で火箸を持ち、コウが打つ。浅い音のまま、一日が終わる。それで誰かが困るのかどうかも、陽には分からない。
陽は縄を置いて、立ち上がった。
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台の脇まで行くと、男が陽を見た。コウも鎚を下ろして、陽を見ている。
陽は口を開いた。何か軽いことを言うつもりだった。いつもなら、ここで何か出てくる。大丈夫っすか、とか、痛そうっすね、とか、実は俺、回復魔法とか使えちゃうんですよ、とか。重くなりかけた空気の上に、何か一枚。
探しても、何も出てこなかった。出てこないまま、声が出た。
「治していいですか」
男は陽の顔を見ていた。表情は変わらない。鍛冶場の中では炉の火だけが鳴っていて、コウは鎚を下げたまま動かなかった。
男は陽を見たまま、右の手を前に出した。布を巻いた手を、掌を上に向けて、陽の前に差し出す。何も言わなかった。
陽は布の端を探して、結び目をほどいた。巻きを一つずつ外していくと、外すたびに布の内側の茶色が濃くなる。最後の一巻きは傷に張りついていて、陽はそこだけ、ゆっくり剥がした。男の指が、わずかに動いた。
掌の真ん中を、斜めに一本、傷が走っていた。親指の付け根から、小指の下のほうへ。深くはないが短くもなく、縁が少し腫れて赤く、まだ乾ききっていない。焼けた鉄の角で切ったのか、傷の片側だけが黒く焼けていた。
陽はその傷の上に、自分の指を当てた。
「塞がれ」
男の掌が、陽の指の下で熱くなった。
傷の縁の赤みが、じわりと引いていく。乾ききっていなかったところが乾き、縁と縁が、見ているうちに寄っていった。黒く焼けていた片側も、縁から少しずつ色が戻っていく。熱は陽の指の下で続いていて、陽は指を離さなかった。熱がゆっくりと引いてから、陽は指を離した。
掌には、赤い線が一本残っているだけだ。
男は掌を見下ろして、開いて、閉じた。もう一度開いて、指を一本ずつ曲げる。それから何も言わずに、台の上の鎚に手を伸ばした。柄を握り、握り込む。手の甲の筋が浮いて、今度は指が開かなかった。
男が炉から鉄を出して台に載せると、コウが脇へ退く。男が鎚を振り上げて、落とした。
音が、戻った。
硬いものを硬いもので打つ、高い音。浅いところで止まらずに、鍛冶場の奥の壁まで届いて、跳ね返ってくる。一つ打って、間があって、また一つ。その間が、陽が鍛冶場に通ってきたどの朝とも同じ間だった。甕を届けた日も、金具を磨いた日も、鞴を直した日も、この間で鳴っていた。陽の耳はそれを覚えていて、覚えていたことに、陽は今、気づいた。
陽は台の脇に立ったまま、その音を聞いていた。二つ目、三つ目。鉄の色が変わるまで、男は同じ間で打ち続けた。
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男は、それからも何も言わなかった。鉄を打ち、炉に戻し、また打つ。陽のほうは一度も見ず、礼の一言も、頷きもなかった。
陽は壁際へ戻ろうとして、膝が笑っているのに気づいた。台の脇に立っていたあいだは何ともなかったのに、歩きだすと膝から下に力が入らない。息も、胸の上のほうでしか吸えなかった。
「いやあ、よかったっすね、音」
声が出ていた。自分で思ったより高い声だった。
「音、いいっすね。……痛くなかったです? 今の。痛くないか。痛くないですよね、そりゃ」
男は顔を上げない。鎚が落ちる。コウは鞴の柄を握ったまま、陽ではなく、男の右手を見ていた。
「あ、いや、なんか、すいません。急に。その、大事な手なのに、俺——」
鎚が落ちる。誰も、何も返さなかった。陽は壁際にしゃがみこんで、口を動かしたまま縄を取った。手を動かしていないと、膝の震えが指まで上がってきそうだった。
「これ、束ねちゃいますね。残り。すぐ、やるんで」
縄の端を輪にくぐらせて、引いた。引いたつもりの端は、指のあいだから抜けていた。
陽の口が、止まった。
結び目が、作れなかった。指先に、縄の感触がよく来ない。縄があることは分かるのに、縄のどこを摘まんでいるのか、どれだけ強く摘まんでいるのかが、指先からぼんやりとしか伝わってこない。厚い手袋を二枚重ねてはめているようだった。
陽は手を開いて、指を見た。見た目は何も変わっていない。爪も、指の腹も、縄の擦れた跡も、朝のままだ。試しに親指と人差し指の先を合わせてみると、合わさっていることは分かるのに、その合わさった面が、自分の指なのか、薄い布を一枚挟んだ向こうなのか、よく分からなかった。
ヨリで男の手を塞いだあと、桶の縁がぼやけたことを思い出した。谷の村で水に言ったあと、泥の袋の縄が拾えなかったことも。あのときも、しばらくして戻った。今度も戻るのだろう、と陽は思った。思うしかない。陽は束ねかけの棒を膝の上に置いたまま、指を何度か握っては開いた。
鎚は同じ間で鳴りつづけていて、男はこちらを一度も見ない。胃のあたりが少し冷たくなった。怒らせたのかもしれない、と陽は思った。勝手に手に触って、勝手に何かをした。職人の手だ。自分の手のことは、自分で決めたかったのかもしれない。手を出したのは向こうだけれど、出させたのは陽だった。
昼前、コウが鞴の紐を締め直そうとして、陽を呼んだ。柄と板を繋いでいる紐の結び目が、固く締まりすぎているらしい。一度ほどいて、結び直したいのだ。
陽は結び目に指を掛けた。解けない。結び目のどこに爪を立てればいいのかが分からず、指先が結び目の上を滑るだけだった。何度か試して、陽は手を引っ込めた。
「……ごめん。ちょっと、指が」
コウは陽の手を見た。それから何も訊かずに、自分の指で結び目をほどいた。二度、三度と爪を立てて緩め、抜いて、結び直して締め、鞴を一度押す。ふう、と鳴った。コウはもう一度陽の手を見て、何か言いかけたように見えたが、言わなかった。
コウが鞴に戻ったあと、陽は膝の上の棒の束を持ち上げようとして、一本を取り落とした。拾おうとして、もう一本落とす。床の上で鉄の棒が二本、乾いた音を立て、男の鎚が一瞬止まりかけて、また落ちた。陽は床に這いつくばって、今度は指先ではなく掌で棒を押さえて、手のひらごと拾い上げた。そういうふうにすれば、拾えた。
昼に、男が包みを開けた。いつものように一枚ちぎって、陽のほうへ突き出す。受け取った平たいものの、焼けた表面のざらつきが、指先に来た。粉の一粒一粒が、ちゃんと分かる。陽は指先でそれを撫でて、それから齧った。戻っていた。
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午後は、コウが鞴を押した。男が打ち、コウが押す。陽は壁際で最後の棒を束ねた。結び目は今度は作れて、引いて確かめると、緩まなかった。
鞴を押しながら、コウは男を見ていた。鎚を振り上げ、落とす、その右手を、押す手は止めずに目だけで追っている。陽はそれを見て、自分の束に目を戻した。
日が傾くと、男は炉に灰をかぶせた。火が落ちて、鍛冶場が暗く、静かになる。男は干しておいた布を取って黒い塊を拭き、厚い布を掛けた。掛けた布の端を、右手で一つずつ引いて、形を整える。それで終わりだった。男は前掛けを外して釘に掛け、奥へ入っていった。
陽は戸口へ向かった。炉の前では、コウが火箸で灰の具合を確かめている。陽が戸口の手前まで来たとき、コウが、火箸を持ったまま言った。
「……ありがとう」
陽は振り返った。コウは陽を見ていなかった。灰の上を見ていた。
「あ、いやいや、全然。俺は別に、何も——」
「じゃ、ないんだよな、たぶん」
陽の声は、そこで切れた。コウも、そこまで言って口を閉じた。何か続けようとして息を吸い、少し間があって、灰を見たまま言った。
「……治るまでは、僕が打つつもりだった」
それだけだった。コウは吸った息を吐いて、火箸で灰を一度だけ均し、それきり、何も言わなかった。
打つつもりだった、のあとに何が続くはずだったのか、陽には分からない。訊かなかった。何も、の続きは、陽の口の中に残ったままだった。陽はコウの背中にもう一度だけ目をやって、戸口を出た。空は、まだ少し明るかった。戸口の外で、陽は自分の指先を一度だけ見た。




