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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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24/36

実のなる木

扉が閉まる音がして、ヨウの背中が見えなくなった。


ツグミはそれを聞いてから、ようやく門のほうへ顔を戻した。扉はもう閉じていて、石の台の男が欠伸をしている。ヨウはまた一日、あの中で喋っているのだろう。何を喋っているのかは知らない。昨日の夕方は、両手を合わせて開いたり閉じたりしながら、ふう、ふう、と何かの真似をしていた。何の真似なのかは最後まで分からなかったが、顔が面白かったので、それでよかった。


どうせ、今日も喋ってるだけだ。


ツグミは袋を背負い直して、塀に背を向けた。木の下の火には、夜明けに土をかぶせてある。踏まれて困るものは置いていない。袋の中には、谷の村でもらった包みの、干した魚が一切れ残っていた。ツグミはそれを歩きながら齧って、尾を草むらに放った。朝日の昇るほうへ、草地を歩いていく。


塀に沿って少し行くと、草地の端が急に低くなって、そこから坂が一本、下っていた。昨日の朝、門の前から見えていた坂だ。上から見下ろすと、坂は思っていたより長く、途中で一度曲がって、その先は木の影に隠れている。


セキの東の坂を下りきって、水の音が右に聞こえたら、左に実のなる木。暑くなると赤い。食える。


ツグミは頭の中で、その言い方を一度なぞった。区切りも、言葉の順も、覚えたときのままだ。一息で言える。東の坂は、これしかない。ツグミは坂を下りはじめた。


---


坂の土は、固く踏まれていた。人の通る道ではないが、何かがよく通る。ところどころに獣の足跡があって、雨の日に流れた水の筋が、細い溝になって残っている。ツグミは溝を跨ぎ、崩れかけた縁を避けて歩いた。崩れる場所は、見れば分かる。土の色が違うし、草の生え方が違う。


坂が曲がると、塀は見えなくなった。背の高い木と低い木が混じりはじめ、下草が膝まで伸びてくる。ツグミは下草の中に黒い粒の実を見つけて、一つ摘んで口に入れ、すぐに吐き出した。渋い。舌の奥が縮む。これは食えない。唾を二度吐いてから、少し先で、今度は葉の柔らかい草を見つけた。摘んで噛むと、苦いが、食える。もう一掴み摘んで、袋の口に押し込んだ。


茂みの中で、何か小さなものが動いた。ツグミが足を止めると、茶色い背中の獣が一匹、道の真ん中へ出てきて、ツグミを見上げた。長い耳が二本、ぴんと立っている。ツグミが一歩踏み出すと、獣は跳ねて、反対側の茂みへ消えた。捕れなくはなかったが、今日は追わない。今日は、別の用がある。


坂は長かった。下りても、下りても、まだ下っている。日が少しずつ高くなって、木の葉のあいだから落ちてくる光が、だんだん短くなっていった。


やがて、足の下の傾きが、なくなった。


ツグミは立ち止まって振り返った。坂が上へ延びて、木の影の中に消えている。前を見ると、平らな地面が、低い木の茂みのあいだを縫って続いている。下りきった。ツグミは息を止めて、耳を澄ました。


鳥の声がした。どこかで虫が鳴き、風が木の葉を擦っている。そのどれとも違う音が、少し遅れて、耳に入ってきた。低く、途切れずに、一つのところから流れてくる音だ。


水の音が、右から聞こえた。


言い方どおりだ、と思った。足が勝手に速くなって、袋が背中で弾み、紐に通した輪が袋の布に当たって小さく鳴った。水の音が右に聞こえたら、左に実のなる木。ツグミは左を見ながら歩いた。低い茂み。石。また茂み。倒れた枝。水の音はだんだん大きくなって、右の茂みの切れ目から、光る水面がちらりと見えた。細い流れだ。


茂みが切れて、左が開けた。


そこに、切り株があった。


---


大きかった。ツグミが両腕を広げても抱えきれないほどの、平たい切り株だった。切り口は灰色に乾いてひび割れ、縁のほうから苔が這い上がっている。切られてから、ずいぶん経っている。ただ、木があって、それが無くなった。


ツグミは切り株の前に立って、上を見た。見上げても、空があるだけだった。暑くなると赤くなるはずの実も、実をつけるはずの枝も、枝を張るはずの幹も、全部、切り株の上の空の中に消えている。


切り株の脇に、細い木が一本生えていた。ツグミの背丈くらいの若い木で、幹は手首ほどの太さしかなく、枝はまだ横に張るほどの力がない。葉は細長くて、縁が細かく波打っていて、裏が白っぽい。


ツグミは、切り株の縁に落ちていた、乾いて丸まった古い葉を拾った。広げてみると、細長くて、縁が細かく波打っていて、裏が白っぽかった。同じ葉だ。若木には、実は一つもついていなかった。花も無い。実をつけるには、まだ若すぎる。


ツグミは、笑った。


声が出た。自分でも少し驚くくらいの声で、切り株の前で、一人で笑った。坂も、水の音も、左も、全部合っていたのに、肝心の木が無い。外れた。古い言い方だ。


ツグミは古い葉を放って、切り株の周りを一周歩いた。縁を踏んで、足の裏で数える。二十と少し。もう一周、今度は逆向きに歩くと、二十と少しより一つ多かった。どっちでもいい。大きいことは、足が知っている。


それから、切り株によじ登った。


---


切り株の上は、思ったより広かった。真ん中まで歩いて、仰向けに寝転ぶと、乾いた木の匂いがする。背中の下のひびが、ちょうど背骨の形に合った。


空が眩しかった。さっきまで木の影の中を歩いていたせいだ。切り株の周りだけ木が無いので、空はそこだけ丸く抜けていて、ツグミはその丸い穴の底に寝転んでいるような気がした。雲が一つ、ゆっくり穴を横切っていく。右からは、水の音が途切れずに聞こえてくる。ツグミは腕を頭の下に組んで、雲が穴の縁から出ていくまで、そのまま見ていた。


腹が鳴った。


ツグミは起き上がって、切り株から飛び降りた。周りの草を見て回る。これは食えない。これも食えない。これは食えるが、硬い。水の近くまで行くと、流れの縁に、茎の太い草が固まって生えていた。一本抜いて皮を剥き、噛むと、少し甘くて青臭い。食える。ツグミは五本抜いて、三本をその場で噛み、二本を袋に入れた。それから流れにしゃがんで、両手で水を掬って飲んだ。冷たかった。浅い流れの底に、細い影がいくつか、流れに頭を向けて並んでいる。ツグミはしばらくそれを見ていたが、手は出さなかった。ここで捕っても、塀のところまで持って帰るうちに傷む。夕方、いつもの川でいい。


切り株のところへ戻ると、若木が、さっきと同じように立っていた。ツグミは若木の前に立って、背を比べた。若木の天辺は、ツグミの頭と同じくらいの高さにあった。ツグミが爪先で立つと、ツグミのほうが少し高くなる。


「お前、いつ赤くなる」


若木は答えなかった。風が吹いて、葉が裏返り、白いところがいっせいに見えた。ツグミは鼻で笑って、若木の前にしゃがみ、葉の一枚一枚を、指でつまんで裏返して見た。どれも同じ形をしている。その中に一枚だけ、ほかより少し小さくて、縁の波がほかより細かい葉があった。ツグミはその一枚を、枝から摘んだ。


袋を背中から下ろして、紐をほどく。紐には、前に拾った輪が通してある。濁った白の、厚みのある輪だ。その隣に、葉の付け根を巻きつけて、落ちないように結んだ。袋を持ち上げて揺らすと、輪が揺れて、葉が揺れた。


ツグミは結び目をほどいて、葉を外した。手のひらに載せて、裏の白いところを見る。それから、また紐に結んで、揺らして、外して、また結んだ。


何の役にも立たない葉だ。食えないし、何かを包むには小さすぎる。それでも、形が気に入った。


ツグミは袋を背負い直して、若木を一度振り返った。切り株の脇に、若いのが一本。それだけ覚えて、坂のほうへ歩きだした。


---


坂を上りきって、塀が見えるところまで戻ったときには、日はもう傾いていた。いつもの木の下で、ツグミは朝かぶせた土を払い、枯れ草と小枝を組んだ。小さな道具を擦り合わせると、火花が草に落ちて、細い煙が上がる。息を吹きかけると火がついた。袋から茎の太い草を出して、皮のまま火の端に並べておく。


門の扉が動く音がした。


ヨウが出てきた。いつものように少し前かがみで、道の上で左右を見て、木の下の煙を見つけて、こっちへ歩いてくる。歩きながら、もう何か喋っていた。火の向こうに腰を下ろしてからも、喋っている。ツグミには音にしか聞こえない。高くなったり低くなったり、途中で笑ったり、ため息をついたり。


やっぱり、喋ってるだけだ。


ツグミは袋を膝の上に引き寄せて、紐をヨウのほうへ向けた。輪の隣に結んだ葉を、指でつまんで持ち上げてみせる。


ヨウは喋るのをやめて、葉を見た。首を、傾げた。


何か言ったが、音だった。ツグミが葉を揺らしてみせると、ヨウはもう一度首を傾げて、葉とツグミの顔を見比べ、それから、困ったような顔で笑った。


ツグミも笑った。分からなくていい。分かるように言える話でもない。


ツグミは火の端で焼けた草を一本、ヨウのほうへ転がした。ヨウは熱そうに拾って、皮ごと齧り、顔をしかめた。皮は剥くものだ。ツグミが自分の一本の皮を歯で剥いてみせると、ヨウは口の中のものを持て余した顔で、しばらく噛み続け、それから飲み込んで、何か言った。たぶん、苦い、とか、そういうことだ。ツグミはもう一本を自分で食べて、袋を木の根に立て掛け、立ち上がった。日が沈む前に、川で魚を捕っておきたい。ヨウが後ろで何か言ったが、ツグミは振り返らずに、手を一度だけ上げた。


---


夜、火のそばで、ツグミは焼いた魚の骨をしゃぶっていた。ヨウは膝を抱えて火を見ていた。しばらく黙っていたかと思うと、急に顔を上げて、火を指さした。


「ロイ」


ツグミは骨を口から離した。ヨウは得意そうな顔をして、もう一度火を指さし、「ロイ」と言った。


ツグミは首を横に振った。


ヨウの顔が固まる。ツグミは火を指さした。


「イゼ」


それから、背中の木の幹を、掌で二度叩いた。


「ロイ」


ヨウは火と木を交互に見た。口が開いて、閉じて、また開いた。それから両手で顔を覆って、何か長い音を出した。指のあいだから「イゼ」と言い、「ロイ」と言う。木を叩いて「ロイ」。火を指して「イゼ」。


ツグミは頷いた。


ヨウは顔を覆ったまま、もう一度だけ、小さく「イゼ」と言った。


ツグミは魚の骨をくわえ直して、笑った。


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