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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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23/36

鞴

五日目の朝、陽が鍛冶場の戸口をくぐったとき、コウはいなかった。炭の籠が一つ、壁際から消えている。二日前に市で買った炭は、もう半分ほどに減っていた。


鍛冶の男は一人で炉の前に立ち、片手で鞴の柄を押しながら、もう片方の手の火箸で、炉の中の鉄の向きを変えていた。鎚は台の上に置いたままになっている。鞴と鉄を一人で両方見るのは、どう見ても手が足りない。陽は頭を下げて、壁際の、自分の場所になりつつある棒の束の前にしゃがんだ。昨日のうちに束ね残した棒が、まだ十本ほどある。縄を取って、長さを揃えはじめた。


背中では、鞴の音がしていた。押すと、ふう、と長い息が出て、炉の火が明るくなる。引くと革の袋が膨らんで、また押す。鍛冶場に来た最初の日から、その音はずっと鎚の音の下で鳴っていて、陽はもう、それを音として聞いていなかった。雨の日の雨音のように、ただそこにあるものになっていた。


その音が、変わった。


押しても、ふう、と鳴らない。代わりに、ぶしゅ、と濁った音がして、息が途中で抜ける。炉の火は明るくならなかった。鍛冶の男がもう一度押しても、ぶしゅ、と鳴るだけで、火は赤いまま、少しも白くならない。


陽が顔を上げると、鍛冶の男は鞴の柄から手を離して、袋の横腹を見下ろしていた。それから、舌を短く鳴らした。鍛冶場に来てから、男の舌打ちを聞くのは初めてだ。男は戸口のほうを見たが、そこには誰もいない。コウは、まだ戻っていなかった。男はもう一度舌を鳴らして、火箸で炉の中の鉄を奥へ押しやった。


陽は縄を置いて、立ち上がった。


「あの。ちょっと、見てもいいですか」


男は陽を見て、何も言わなかった。けれど、鞴の前から半歩退いた。


陽は鞴の脇にしゃがみ込んだ。近くで見ると、鞴は思っていたより大きかった。二枚の厚い板のあいだに、革を袋のように張り渡してある。板の片方に長い柄が付いていて、それを押すと板と板が近づき、袋の中の空気が、先の細い筒から炉へ押し出される。引くと板が開いて、どこか別の口から空気を吸い込む。仕組みは、見ればすぐに分かった。子どものころに見た、浮き輪を膨らませる足踏みのポンプと、同じことをしている。


革の、板に近い折れ目のところが、裂けていた。指二本分ほどの長さで、裂け目の縁が白く毛羽立っている。何度も同じところで折れて、擦れて、薄くなって、とうとう破れたのだろう。押すたびに、ここから空気が逃げていたのだ。陽は裂け目に指を当てた。革は硬く分厚いが、縫えない厚さではない。


「針、ありますか。太いの。あと、紐。細くて丈夫なやつ」


男は答えずに棚の前へ行き、小さな木の箱を取って、陽の前に置いた。蓋を開けると、中に太い針が三本と、蝋を引いたような、硬く光る細い紐の束が入っていた。陽は一番太い針を取って、紐を通した。


縫いはじめる前に、陽は裂け目の両側を、指で何度か押して揃えた。革は硬くて、すぐに元の形に戻ろうとする。陽は左手の指で裂け目を押さえたまま、右手の針を、裂け目から指の幅ひとつ離れたところに当てた。


針は、すぐには通らなかった。力を入れて押すと、革の中で針が止まり、指の腹に針の尻が食い込む。陽が顔をしかめたとき、目の前に、何か小さなものが差し出された。鍛冶の男の手だった。指の先ほどの、平たく丸い鉄のかけらを摘まんでいる。陽はそれを受け取って、針の尻に当て、押した。針は革の中をぷつりと抜けた。反対側から引き出して、紐を引くと、革がきしむ。男はもう炉のほうを向いていた。


陽の指は、この手順を知っていた。


どこで覚えたのかは、はっきりしない。会社の倉庫で、裂けた書類ケースの持ち手を縫い直したことがあった。サーバーラックの裏で、ばらけたケーブルを結束バンドの代わりに紐で括ったこともある。自分の部屋の網戸の破れを、釣り糸で塞いだこともあった。どれも誰かに習ったわけではなく、どれも本職の仕事ではなかった。見よう見まねで、何となく、そこそこに。それでも、手は覚えていた。針を斜めに入れると抜けやすいこと。一目ごとに紐を引いて締めないと、あとで緩むこと。端は二重にかがって、結び目を内側に隠すこと。


一目ずつ、陽は裂け目の端から端まで細かく縫い進めた。縫い目が、裂け目の上に小さな梯子のように並んでいく。背中で、鍛冶の男が陽の手元を見ている気配がしたが、何も言わない。炉の中では、火がゆっくり暗くなっていく。半分まで縫ったところで針が滑り、陽は指先を少し突いた。血は出なかった。陽は指を一度舐めて、続きを縫った。


最後の一目を通して、陽は紐を二重に巻き、革の内側で結んだ。結び目を引いて締め、余った紐を歯で噛み切る。縫い目を指でなぞっても、膨らみも隙間も無かった。借りた鉄のかけらを箱に戻して、陽は立ち上がり、鞴の柄を両手で掴んだ。


押した。


ふう、と長い息が出た。


炉の火が明るくなって、赤かった炭の奥が、黄色く、白く光った。引いて、また押す。ふう。火が鳴った。低い、腹の底に響くような音で、炉の中の空気がうなり、熱が陽の顔にまともに当たる。


陽は柄を押したまま、鍛冶の男を見た。男はもう陽を見ておらず、炉から鉄を引き出して台の上に載せ、鎚を振り上げたところだった。鎚が落ちて、高い音が一つ、鍛冶場に響く。その音の合間に、男は陽のほうを見ずに、顎を一度だけ引いた。


頷いた。


それだけだった。男は次の一打を振り下ろしている。


陽は鞴を押し続けた。押して、引いて、また押す。火が鳴り、鎚が鳴り、二つの音が、朝と同じ間で重なっていった。


認められた、と陽は思った。思ったとたん、胸の奥がふわっと浮いた。五日で鍛冶屋の親父に認められた男。次は鎚を持たせてもらえるのか。いや、いきなり弟子入りか。親方、俺にも一本打たせてください——。


いや、ないない、と陽は自分で打ち消した。破れた革を縫っただけだ。網戸の穴と同じだ。頷いたのだって、たぶん、鞴が直ったことに頷いたのであって、陽に頷いたのではない。鞴に礼を言う人間はいない。だから、鞴を直した人間にも、たぶん、あのくらいでちょうどいい。


そう思っても、浮いたものは、すぐには沈まなかった。陽は鞴を押しながら、自分の口の端が勝手に上がっていくのを、止めなかった。


---


コウが戻ってきたのは、昼に近いころだった。背中の籠いっぱいに炭を詰めて戸口から入ってきたコウは、鞴の前に陽が立っているのを見て、足を止めた。陽が押すと、ふう、と鞴が鳴る。コウは籠を下ろして鞴のそばへ来ると、陽の手元ではなく袋の横腹を見て、梯子のような縫い目を、指で一度なぞった。


「……あんたが?」


「まあ。ちょっとだけ」


コウは縫い目をもう一度見て、それから陽を見た。何か言うかと思ったが、何も言わない。コウは炭の籠のところへ戻り、炭を壁際に積みはじめた。積みながら、一度だけ鞴のほうを振り返った。


昼には、いつものように鍛冶の男が包みを開けて、薄く焼いた平たいものを齧った。男は一枚をちぎって、陽のほうへ突き出した。陽はそれを受け取ってから、思わず手の中のかけらと、男の手に残ったほうを見比べた。いつもと同じ大きさだった。心なしか、いつもより小さいくらいだった。陽は小さく笑って、それを齧った。硬くて、少し焦げていて、塩の味がするのも、いつもと同じだった。コウが、炭の粉のついた手で自分の分をちぎりながら、陽の顔を不思議そうに見ていた。


午後、陽は鞴をコウに返して、棒の束に戻った。鞴の音は、朝までと同じように鎚の音の下で鳴っていた。陽は束を結びながら、ときどき、その音のほうへ耳を向けた。抜けない。濁らない。ふう、と長い息のまま、夕方まで鳴り続けた。


---


門を出て塀沿いの道を歩きながら、陽は自分の指を何度か鼻に近づけた。革と、紐に引いてあった蝋の匂いが、まだ残っている。針を押し込んだ右の人差し指の腹には、丸い跡が一つ付いていた。痛くはない。押すと、少しだけ凹んだ感じが残っていて、陽はそれを親指で何度も撫でた。子どものころ、夏休みの工作を仕上げた日の夕方にも、似たような指をしていた気がする。何を作ったのかは、もう覚えていなかった。


門の外の木の下で、ツグミは火のそばに座って、草の茎を歯で裂いていた。陽は火の向こうに腰を下ろすなり、言った。


「今日さ、俺、直したんだよ。鞴」


ツグミは茎を裂く手を止めずに、陽を見た。


「鞴。ふいご。分かんないか。こう、火に風を送るやつ」


陽は両手を胸の前で合わせて、それを開いたり閉じたりしてみせた。開くときに息を吸い、閉じるときに、口で「ふう」と言う。開く。閉じる。ふう。


ツグミは茎を口から離して、首を少しだけ傾け、陽の手を見ている。


「で、ここが破れてて。空気が、ぶしゅって抜けて」陽は片手の指を二本揃えて、もう片方の手のひらに当てた。「それを、こう。縫って。一目、一目」


陽は見えない針を持って、見えない革に刺した。刺して、引いて、締めて、また刺す。やっているうちに、自分でも何をやっているのか分からなくなってくる。


「で、また、こう」


陽は両手を合わせて、開いて、閉じた。ふう。開いて、閉じた。ふう。できるだけ長く、腹の底から息を吐いた。


ツグミが、吹き出した。


茎を持ったまま、肩を揺らして、声を出して笑う。陽の顔と、合わせた両手を交互に見て、また笑った。何がそんなにおかしいのか、陽には分からない。通じていないことだけは分かった。鞴のことも、縫ったことも、頷いてもらったことも、何ひとつ通じていない。それでも、ツグミは笑っていた。


陽は両手を合わせたまま、もう一回だけ、ふう、とやった。ツグミはまた笑って、裂いた茎を一本、陽に投げてよこした。


---


翌朝、陽は門の前でツグミと別れた。その朝は、陽が道へ出ると、ツグミも木の下から付いてきて、門の十歩ほど手前で止まった。陽は振り返って、手を上げた。


ツグミは陽を見ていなかった。門とは違う方角、塀に沿って続く草地の、そのずっと先を見ている。朝日が昇ってくるほうに、なだらかな坂が一本、下っていくのが見える。ツグミはその坂のほうへ顔を向けて、何かを確かめるように、しばらく動かなかった。袋はもう背中に負っていた。


「行ってきます」


陽は言った。ツグミは坂のほうを向いたままで、返事もなく、片手も上がらなかった。陽は上げた手を、ゆっくり下ろした。坂の先に何があるのか、陽は知らない。ツグミがそこへ行くのかどうかも、知らない。


門の扉が、陽の背中で動く音がした。


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