二百八十
その朝、陽が目を覚ますと、木の下にツグミはいなかった。
熾には灰がかぶせてあって、手をかざすとまだ温かい。袋も、昨日の枝の串も無かった。木の根もとの草に、踏まれた跡が一筋、塀とは反対のほうへ延びている。どこへ行ったのかは分からない。陽は灰の上に手をかざしたまま、しばらく座っている。起こしてくれればいいのに、と思いかけて、起こされても付いて行けるわけではないのだと思い直した。陽は立ち上がり、塀のほうへ歩いた。門はいつものように開き、石の台の槍の男は、いつものように何も言わない。
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鍛冶場では、鍛冶の男が炉の前で、薄い鉄の板を打っていた。打ち終わった板が、台の脇に並べてある。どれも手のひらほどの大きさで、片方の端がくるりと丸められ、もう片方に穴が二つ空いている。丸めた端どうしを噛み合わせて、棒を一本通すと、二枚の板が棒を軸にして開いたり閉じたりする。戸の金具だ、と陽は思った。蝶番だ。家の戸に付いているのと、形はほとんど変わらない。
陽が戸口で頭を下げると、鍛冶の男は鎚を止めずに、顎で金具の山を指した。それから棚の端の、粗い砂の入った小さな壺と、ぼろ布を顎で指す。
磨け、ということだった。
コウは奥で、炭の塊を小さく割っていた。鉈のような刃物を炭に当てて、上から木槌で叩く。割れた炭を大きさで分けて、籠に入れる。陽が入ってきたとき、コウは一度だけ顔を上げて、また炭に目を戻した。昨日より、目が合う時間が少しだけ長かった気がした。
陽は金具を一つずつ取って、布に砂をつけて擦った。打ったばかりの金具は黒い膜をかぶっていて、擦ると膜が剥げ、下から鈍い銀色が出てくる。丸めた端の内側は布が入りにくく、陽は布を指に巻きつけて、一つずつ中まで擦った。単純な作業だった。単純な作業は、嫌いではない。擦っているあいだは、何も考えなくていい。
昼前に、鍛冶の男が最後の一枚を打ち終えた。陽の前に来て、磨いた金具を一つ取り、丸めた端の内側を覗き込み、指で撫でた。それから、ほかのものと一緒に並べ直して、数を数えた。
「コウ」
鍛冶の男がその名を口にしたのを、陽は初めて聞いた。
奥で炭を割っていたコウが顔を上げた。鍛冶の男は金具の山を顎で指し、それから戸口の外を顎で指した。
「代官所。今日だ」
コウは炭を割る手を止めて、立ち上がった。鍛冶の男はもう炉のほうへ戻っていて、炉の中には、次の鉄が入っている。
コウは棚から布袋を取って、金具を一つずつ数えながら入れはじめた。陽も手伝った。十六。袋は二つになった。コウが一つを肩に担ぎ、もう一つを陽のほうへ押しやった。
「代官所って、何?」と陽は袋を担ぎながら聞いた。
「代官の所」
「……うん。そうだよね。そうなんだけど」
コウは答えずに戸口を出た。陽は重い袋を揺すり上げて、その後を追った。
十六枚の鉄は、見た目よりずっと重かった。袋の底で金具どうしがぶつかって、歩くたびに鈍い音を立てる。コウは同じ重さの袋を片方の肩に載せたまま、市のほうへ曲がる角も、坂になった道も、歩く速さを変えなかった。陽は途中で二度、袋を反対の肩に担ぎ替えた。
「これ、代官所の戸に付けるの?」
「たぶん。戸が古いって、前に言われた」
「前に。じゃあ、ずっと待ってたのかな、向こう」
「さあ」
コウは、市の広場を斜めに突っ切った。昨日の炭の屋台の女がコウに手を上げると、コウも片手を上げて返す。陽は昨日のことを思い出して、塩の屋台のほうを見ないようにした。
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代官所は、市の広場を抜けた先の、塀の内側でも一段高くなったところにあった。石の土台の上に、木の建物が載っている。周りの家よりひと回り大きく、窓が多く、戸口の前に短い石段がある。石段の脇に槍を持った男が一人立っていて、コウを見ると、顎で中へ入れと示した。門の男と同じ顎の使い方だった。
中は薄暗く、ひんやりしていた。入ってすぐが土間で、壁際に長い腰掛けが一つ据えてある。土間の奥は一段高い板の間で、そこに低い机がいくつか並び、机の上にも床にも、紐で綴じた書付の束が山になっていた。腰掛けの端には、先に来ていたらしい年寄りの女が一人、膝の上に包みを抱えて座っていた。
板の間の手前の机にいた男が、コウを見て立ち上がった。
「鍛冶屋か」
「金具です。戸の。十六」
「そこに置け。待て」
男はそれだけ言うと、奥へ引っ込んでしまう。コウは袋を土間に下ろし、壁際の腰掛けに座った。陽も袋を下ろして、その隣に座った。
待った。
しばらくして奥から別の男が出てきて、年寄りの女を呼んだ。女は包みを抱えたまま板の間へ上がり、奥へ消えた。それきり誰も戻ってこない。陽は腰掛けの上で脚を組み、ほどき、また組んだ。
「昨日の塩さ」と陽は小声で言った。「あれ、ほんとはいくらだったの」
コウは陽を見て、指を二本立てた。
「……半分かよ。完全にぼったくられてんじゃん、俺」
コウは指を下ろした。口の端は動かなかったが、目だけが少し笑っていた。板の間の奥の、窓の近くの机で、もう一人、男が何かをしていた。陽たちが入ってきたときから、ずっと同じ姿勢で机に向かっている。背中が丸く、髪を後ろで一つに束ねていた。机の上には書付の束が二つ、左右に分けて置いてある。男は左の束から一枚取って、じっと見て、手元の別の紙に何か書き写し、それから右の束へ重ねた。また左から一枚取って、見て、写して、重ねる。
陽はしばらく、それを見ていた。男は一度も顔を上げない。古い帳簿の中身を、新しい帳簿へ一件ずつ写し替える。陽も昔、似たような仕事を何度かやった。やり方が変わるたびに、誰かが古いものを見て、新しいほうへ写す。退屈で、間違えられなくて、誰にも褒められない仕事だ。陽たちがそこにいることに、気づいているのかどうかも分からない。
男が一枚を取って、しばらく見ていた。それから、口の中で何かを数えるように、唇を動かした。
「治二十一年……」
独り言だった。陽たちのほうへ向けた声ではない。男は手元の紙の端を指でなぞり、また別のところを見た。
「……いまが治三百一年だから」
男は筆を取って、何か書いた。
「二百八十年前のか」
それだけ言って、男はその一枚を右の束へ重ねた。そして左の束から次の一枚を取り、また黙って見はじめる。
二百八十年前、と陽は思った。
チ、というのが何なのか、陽には分からない。年の前に付いているから、年の数え方の一つなのだろう。何かの年から数えて二十一年目と、三百一年目。その差が二百八十。
それだけだった。陽は、その数をどこかに結びつけようとは思わなかった。結びつける先を、陽は持っていない。ただ、耳には残った。
それよりも陽の気に障ったのは、言い方だった。二百八十年前のか。ため息まじりの、面倒くさそうな声だった。陽たちがここに座ってから、もうだいぶ経っている。誰も戻ってこない。奥の男は顔も上げない。そこへ、あの一言だった。二百八十年前のか。まるで陽たちの持ってきた金具が、二百八十年前に頼んだものだと言われたような気がした。遅い、と。今ごろ持ってきたのか、と。
役所ってのは、どこでもこうなんだな、と陽は思った。待たせるだけ待たせておいて、嫌味は忘れない。区役所の窓口で、番号札を握って一時間待たされた日のことを思い出した。
陽は腰掛けの上で座り直して、隣のコウを見た。
コウは、書き手の男のほうを見ていない。窓の外を見ていた。板の間の奥の窓は開いていて、そこから外が見えた。家々の屋根が段になって下っていき、その向こうに、ひときわ大きな屋根が一つある。ほかの屋根とは形が違っていて、ほかのどの屋根よりも高いところにあった。
コウは腰掛けに座ったまま、膝の上に両手を置いて、その屋根を見ていた。鍛冶場で鐘のほうを向くときと、同じ顔だった。
「……神殿か?」
陽が小声で聞くと、コウは屋根から目を離さずに言った。
「鐘が、あそこから鳴る」
それだけだった。陽はその先を待ったが、コウは何も足さない。窓の外で、どこかの家の屋根に鳥が一羽降りて、すぐに飛び立つ。コウの目は、大きな屋根から動かなかった。
陽はもう一度、書き手の男のほうを見た。男は相変わらず、左から取って、見て、写して、右へ重ねている。
奥から、さっきの年寄りの女が戻ってきた。包みはもう抱えていない。女は板の間から土間へ下りるとき、段に手をついて、ゆっくり足を下ろした。陽たちの前を通り過ぎるとき、女は腰掛けの二人を見もせずに、戸口の光のほうへまっすぐ歩いていった。うまくいったのか、いかなかったのか、その顔からは何も分からない。女の草履の音が石段を下りていって、消えた。
やがて、奥から最初の男が戻ってきた。男は袋の口を開けて、金具を一つずつ取り出して板の間に並べ、数えた。十六。一つを手に取って、丸めた端に指を入れ、開いたり閉じたりした。陽が中まで擦った端だった。男は何も言わずにそれを戻し、帳面のようなものに何か書き付けた。
「いい。帰れ」
コウが立ち上がって頭を下げ、陽も立ち上がって同じように下げた。土間を出るとき振り返ると、窓の近くの机で、書き手の男はまだ、顔を上げずに次の一枚を見ている。
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帰り道、二人とも黙って歩いた。空になった袋は軽く、陽はそれを丸めて脇に挟んだ。市の広場を抜けるとき、昨日の塩の屋台の年寄りが陽を見て、にやりと笑ったような気がした。陽は見なかったことにした。
鍛冶場の鎚の音が聞こえはじめたところで、コウが足を止めた。陽も止まる。コウは道の先の、鍛冶場の戸口のほうを見ていた。鎚の音が、一つ、また一つ、同じ間で鳴っている。朝から一度も止まっていないような、同じ間だった。
「なあ」
コウは陽を見ずに言った。
「父さんには言うな」
陽はコウの横顔を見た。父さん、と陽は頭の中で繰り返した。やっぱりそうか、と思う。鍛冶場の二人が父と息子だということを、陽は今初めて、誰かの口から聞いたのだった。
言うな、というのが何のことなのか、コウは言わない。陽は代官所の窓のことを思った。大きな屋根と、そこから鳴るという鐘。それを見ていたことを、言うなということなのだろう。たぶん。
「……言わないよ」と陽は言った。「俺、そもそも、あの人とまともに話したことないし。おい、それ、磨け、炭。全部顎だし」
コウは返事をしなかった。けれど、口の端が少しだけ動いて、それから鎚の音のするほうへ歩きだす。陽は丸めた袋を脇に挟み直して、後に続いた。




