市
三日目の朝、鍛冶場の炉に火が入ってしばらくすると、鍛冶の男が炭の山を見て、若い男に言った。
「炭。塩」
炭の山は、昨日より目に見えて低くなっている。若い男は黙って前掛けを外して釘に掛け、棚の上の小さな壺から何かを掴み出して、腰の袋に入れた。銭の鳴る音がする。それから壁際の大きな籠を二つ取って、一つを自分の背に負い、もう一つを手に提げて、戸口へ向かった。
鍛冶の男が、鎚を持ったまま、顎を陽のほうへしゃくった。それから若い男の提げた籠を、顎で指す。
持て、ということらしかった。
陽は棒の束を置いて立ち上がり、若い男の手から籠を受け取った。若い男は陽を一度だけ見て、何も言わずに戸口を出ていく。陽は籠を背負いながら、その後を追った。
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若い男は、陽の半歩前を歩いた。陽が並びかけると、ほんの少しだけ足を速める。陽はそれ以上並ぼうとせず、背中の空の籠を揺らしながら、半歩後ろを歩くことにした。
「炭って、どこで買うんです?」
「市」
「市。そっか。塩も?」
若い男は頷いた。それで会話は終わった。陽は、鍛冶の男と話すときと同じだな、と思った。一つ訊けば一つ返ってくる。二つ目は返ってこない。似ている、と思いかけて、どこが似ているのかと考えるのはやめた。道の脇の家の軒先には、今日も茶色の服が干してある。
市は、鍛冶場から道を三つ曲がった先の、広場にあった。広場いっぱいに屋台が並び、屋台と屋台のあいだを人が縫うように歩いている。行き交う頭のなかに、ときどき、頭の上まで耳の伸びた頭が混じる。布を張っただけの屋台もあれば、板で囲って屋根を掛けたものもある。籠に盛った芋や豆、吊るした干し肉、壺、縄、布、鍋。どの屋台の前でも誰かが何かを言い合っていて、その声が重なって、広場の上で一つの大きなざわめきになっていた。塀の内側で一番音が多いのは、たぶんここだ、と陽は思った。
若い男は人のあいだを迷わず進んだ。陽は籠を人にぶつけないように、肩をすぼめて後に続いた。
「コウ、今日は炭か」
屋台の一つから、太った男が声を掛けた。若い男は足を止めずに頷いた。太った男は笑って、陽の背中の空の籠を顎で指し、「人手を連れてきたか」と言う。若い男は答えない。
コウ、という音が、陽の耳にひっかかった。ほかの言葉の並びから一つだけ浮いて聞こえる。ヨリやセキやカジと同じだ。名前だ、と陽は思った。この若い男の名前が、コウなのだ。二日一緒の鍛冶場にいて、陽は初めてそれを聞いた。鍛冶の男は一度も呼ばなかった。
炭の屋台は広場の奥にあった。黒い塊を積み上げた後ろで、顔じゅう煤けた女が座っている。コウは積まれた炭の塊を一つ手に取って、割れ口を見て、指で弾いた。乾いた音がした。
「いくら」
女が何か数を言った。コウは首を横に振って、別の数を言った。女が笑って、また別の数を言う。コウは炭を置いて、隣の塊を手に取った。そうやって三つ四つ言い合ううちに、女が大きく肩をすくめて、コウが頷く。それで決まったらしい。陽には、最初の数と最後の数がどれだけ違ったのか、聞いていてもよく分からなかった。
コウと女が籠に炭を詰めているあいだ、陽は籠を支えて立っていた。炭の粉が舞い上がって、コウが片目を擦る。
詰め終わると、コウは腰の袋から銭を数枚出して、陽の手のひらに載せた。
「塩。あそこの」
コウが顎で示した先に、白いものを盛った壺を並べた屋台があった。
「え、俺が?」
「言われた値で買うなよ」
それだけ言って、コウはもう一つの籠を背負い直し、炭の女と何か話しはじめた。
陽は手のひらの銭を見た。くすんだ色の、小さな金属が四枚。これで塩がどれだけ買えるのか、陽には見当もつかない。陽は銭を握って、塩の屋台へ行った。
屋台の後ろには、茶色の袖をまくった、腕の太い年寄りが座っていた。陽が壺の前に立つと、年寄りは陽の顔を見て、それから陽の握った手を見た。
「塩を。あの、これで買えるだけ」
年寄りは、ひと掴みの量と、数を言った。
陽は頷きかけて、コウの言葉を思い出した。言われた値で買うなよ。つまり、ここから言い合うのだ。さっきの炭の女とコウのように。陽は口を開いた。
「それは、あの、ちょっと高くないですか」
「高くない」
「……そうですか」
年寄りは黙って陽を見ていた。陽も黙って年寄りを見た。広場のざわめきの中で、二人のあいだだけ妙に静かだった。何か言わなければと思ったが、何を言えばいいのか分からない。さっきの数より低い数を言えばいいのだと、頭では分かっていた。けれど、その数がいくつなら失礼でないのか、陽には分からなかった。四十四年生きてきて、値切った覚えがほとんど無い。値札の付いたものを、値札のとおりに買ってきた。
陽は銭を四枚とも、年寄りの前に置いた。
年寄りは銭を数えもせずに掻き寄せ、壺から白い塩を掬って布に包み、陽に渡した。包みは、思っていたより小さい。
振り返ると、コウがこっちを見ていた。炭の屋台の前で、籠を背負ったまま、陽の手の塩の包みと、空になった陽の手のひらを見ている。
それから、コウは笑った。
声は出さない。口の端が上がって、鼻から短く息が抜けて、肩が一度だけ揺れる。それだけの笑い方で、陽が鍛冶場で見たどの顔とも違っていた。
「……いや、言ったよ? 高くないですかって、言ったんだよ?」
陽が塩の包みを振りながら戻ると、コウは笑ったまま首を横に振った。
「言っただけだろ」
「言っただけって。言うのが大事でしょ、ああいうのは。第一歩でしょ」
コウは返事をせずに、陽の手から塩の包みを取って重さを確かめ、自分の籠に入れた。口の端は、まだ少し上がっていた。
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子どもの泣き声がしたのは、広場を出ようとしたときだった。
魚を並べた屋台の前に、人が集まりはじめていた。人の輪の真ん中で、陽の腰ほどの背の男の子が、喉を両手で押さえて泣いている。泣いているというより、泣こうとして声が出ず、咳き込んではまた泣こうとして、顔を真っ赤にしていた。そばで母親らしい女が、子の背中を叩いていた。叩いても、子は喉を押さえたままだった。
「骨だ」と誰かが言った。「焼いたのを食わせて、骨が引っかかった」
母親は子の口を開けさせて中を覗き込み、指を入れかけて、やめた。それから顔を上げて、一言だけ言った。
「骨接ぎ」
言うが早いか、母親は子を抱え上げて走りだし、人の輪が割れる。陽は思わず籠を背負ったまま、その後を追った。後ろでコウが何か言ったような気がしたが、振り返らなかった。
母親が駆け込んだのは、広場の端の、戸口に布を垂らしただけの小さな家だった。陽が布の前で息を整えていると、コウが追いついてきて隣に立つ。布の隙間から、中が見えた。
中には痩せた男が一人いて、母親から子を受け取ると、膝の上に仰向けに寝かせた。子の顎を片手で押さえて口を開けさせ、もう片方の手で、棚から細い鉄の道具を取る。先が二股になった、長い箸のような道具だ。男は子の口の中を覗き込み、道具を差し入れた。子が暴れかけるのを、母親が脚を押さえて止める。
男の手は、ほとんど動かなかった。差し入れて、少し角度を変えて、引く。道具の先に、白い、細い骨が挟まっていた。
子はひとしきり咳き込んで、それから、今度はちゃんと声を出して泣いた。母親が子を抱き取り、男は骨を床に捨てて、道具を布で拭いている。母親が腰の袋から銭を出して男の前に置くと、男は頷いた。
陽は、布の前で、ようやく息を吐いた。吐いてから、口が勝手に動いた。
「こういうのって、神殿に行けば——」
言いかけて、陽は周りを見た。
布の前には、陽とコウのほかにも、市からついてきた者が何人か立っていて、その何人かが陽のほうを見ていた。責める顔でも、笑う顔でもない。何を言っているのか分からない、という顔だった。子どもに、どうして空は青いのかと訊かれたときの大人のような、答えを探す前に、問いの形のほうに戸惑っている顔だ。
陽は口を閉じた。隣で、コウが小声で言った。
「神殿は、開く手じゃない」
陽はコウを見た。コウは布の向こうの子を見ていて、それ以上は何も言わない。
開く手じゃない、と陽は頭の中で繰り返した。意味が分からない。分からないまま、陽はその言葉を、自分の知っている形に押し込んだ。神殿は遠いのだろう。この街のどこにあるのか陽は知らないが、きっと遠いのだ。それとも、神殿は高いのかもしれない。骨接ぎに払った銭は、陽が塩に払ったのと同じくらいに見えた。神殿だと、もっと要るのだろう。だから、近くて安いほうへ行く。病院に行く金がないから、薬局で済ませるみたいに。
陽はそう思って、それで納得した。納得したことにした。
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帰り道、広場の端の、汁物を売る屋台の前を通った。屋台の前の長い腰掛けに男が二人座っていて、椀を手に何か話していた。陽とコウが通りかかったとき、片方の男が、椀を置いて言った。
「行くだけ損だ。神殿はふっかけるからな」
もう一人が笑って、何か言い返す。何の話なのか、陽には分からない。二人の話はそのまま別のことへ流れていき、コウは足を止めなかった。
鍛冶場へ向かう道は、来たときより長く感じた。背中の籠に詰めた炭が重く、日はもう傾きかけている。道の両側の家から、夕餉の煙が上がりはじめていた。
角を一つ曲がったところで、コウが立ち止まった。陽も止まって、コウの見ているほうを見た。家々の屋根の向こうに、煙が一本立っていた。夕餉の煙とは違って、太く、まっすぐで、風に崩れずに高いところまで伸びている。鐘がいつも聞こえてくる方角だった。
コウは籠を背負ったまま、その煙を見上げている。陽が鍛冶場で見た、鐘のほうへ顔を向けるときと、同じ顔だった。
しばらくして、コウは黙って歩きだした。陽は何も訊かなかった。振り返ると、煙はまだ同じところに立っていた。
鍛冶場に戻ると、炉にはもう灰がかぶせてあって、黒い塊には黒ずんだ布が掛かっていた。昨日と同じ掛け方だ。コウが籠を下ろし、塩の包みを鍛冶の男に渡す。男は包みを掌に載せて、一度だけ上下させた。それから陽を見た。陽は目を逸らした。男は何も言わずに、包みを棚の壺の脇に置いた。
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門の外の木の下で、ツグミは火のそばにしゃがんで、魚を焼いていた。枝に刺した魚が三本、火の周りに斜めに立ててある。皮が焦げて脂が落ちるたびに、火が小さく鳴った。どこで獲ったのか、袋の口が濡れていた。陽が腰を下ろすと、ツグミは一本の向きを変えて、焼けていない側を火に向けた。
「今日さ」と陽は言った。「あいつが笑ったんだよ。鍛冶屋の、若いほう。コウ」
ツグミは魚を見ていた。
「俺がさ、塩をさ、こう」陽は両手で何かを差し出す真似をした。「言われたまんまの値で買っちゃって。値切りのコマンド、出てこなかったんだよ。そしたらあいつ、こう」
陽は口の端を上げて、鼻から息を抜いて、肩を一度揺らしてみせた。
ツグミは焼けた魚の一本を火から抜いて、皮をつまんで、焼け具合を見ている。陽のほうは見ていない。
「……聞いてないよね。うん。知ってた」
ツグミは魚をもう一度火に戻した。
陽は膝を抱えて、火を見た。口の端を上げて、鼻から息を抜いて、肩を一度。もう一度だけ自分でやってみたが、あまり似ていなかった。




