金床
朝、陽が目を覚ますと、火はもう小さな熾になっていて、ツグミは木の根に背中を預けて、昨日の草の束を一本ずつ選り分けていた。
陽が身体を起こすと、ツグミは草から顔を上げずに、顎で塀のほうをしゃくった。昨日と同じしゃくり方だ。陽は「はいはい」と言って立ち上がり、腰の紐の平たい石の位置を直した。
「行ってきます」
ツグミは選り分けた草の一本を口にくわえて、もう次の一本を手に取っていた。陽は道へ出た。
門は昨日と同じように、陽が近づくと扉を動かし、人一人ぶんだけ開いて止まる。石の台の槍の男は、陽を見て、何も言わない。
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鎚の音は、今朝も道の突き当たりから聞こえていた。鍛冶場の戸口の前に立つと、中の熱が顔に当たる。奥で炉が赤く、その前の黒い塊の上で、鍛冶の男が赤くなった鉄を打っていた。若い男は炉の脇で、長い柄のついた革の袋のようなものを押しては引いている。押すたびに炉の火が明るくなる。二人とも、戸口の陽には気づいているはずだったが、どちらも顔を上げなかった。
陽は戸口の端に立ったまま、鎚の音が途切れるのを待った。途切れない。赤かった鉄が黒っぽくなると、男はそれを炉へ戻し、若い男が袋を押し、火が明るくなり、鉄がまた赤くなって、男はまた打つ。そのあいだに入る隙が、どこにも見当たらない。鉄が炉に戻った一瞬に、陽は声を出した。
「あの。昨日、甕を持ってきた者ですけど」
男は炉の中の鉄を見ていた。
「何か、手伝わせてもらえませんか。何でもいいです。邪魔なら帰ります。ほんとに、邪魔なら」
言ってから、自分でも何を頼んでいるのか分からなくなった。甕は届けた。用は済んでいる。それでも、昼のあいだ行くところが、塀の内側にはここしか思いつかなかった。
男は答えず、鉄を炉から出して、黒い塊の上に載せ、三つ打った。それから鎚を下げたまま、顎を戸口の脇の壁際へ向けた。
「おい。それ」
壁際に、細い鉄の棒が何十本も、ばらばらに立て掛けてあった。長さはまちまちで、錆の浮いたものも、打ったばかりのように黒く光るものもある。その足もとに、縄の束が一つ転がっていた。
陽はしばらく棒と縄を見比べて、それから男を見た。男はもう鉄を打っていた。
「……長さで分けて、束ねる、とか?」
返事はない。陽は棒の山の前にしゃがみ込んだ。
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長いのと短いのと、その間のと。三つに分けて並べると、錆の浮いたものが、どの長さにも混じっている。錆びたものだけ別にするべきか迷って、陽は若い男のほうを見たが、若い男は袋を押しながら、炉の火を見ているだけだった。陽は錆びたものも長さで分けることにして、縄を手に取った。
縄は、谷の村で撚りかけていたものより太く、硬い。陽は棒の束に二巻きして結び、イサが道具の束にしていたのを真似て、結び目を一度引いて確かめた。束は崩れなかった。もう一束結んで、三束目に取りかかったとき、背中で鎚の音が止んだ。
振り返ると、男が陽の結んだ束を片手で持ち上げていた。軽く振って、結び目が緩まないのを見て、何も言わずに元の場所に置いた。
陽は三束目を結んだ。さっきより少しだけ、強く締めた。
昼が近くなると、男は炉から鉄を出して、脇の水桶に突っ込んだ。水が激しく鳴って白い湯気が上がり、鍛冶場の中が一瞬見えなくなる。湯気が晴れると、男は戸口の外へ出ていくところで、若い男も袋から手を離して、額の汗を腕で拭っていた。
陽は立ち上がって腰を伸ばし、伸ばしたついでに、奥の黒い塊のそばまで行ってみた。近くで見ると、塊は陽の腰ほどの高さがある。上の面は平らで、鏡のように滑らかに光っている。角は丸く削れていて、横の面には細かい傷が数え切れないほどついていた。その傷のあいだに、一つだけ、傷ではない刻みがあった。丸の中に、短い線が三本。それだけだった。陽は手を伸ばして、上の面に掌を置いた。
冷たかった。
炉のすぐ前で、さっきまで赤い鉄を載せて打たれていたのに、掌の下の面はひやりとしている。陽は思わず手を離して、もう一度置いた。やはり冷たい。水に浸けた石のような冷たさだった。
戸口のほうで、足音がした。男が戻ってきていた。手に、何か包みを持っている。陽は塊から手を離した。
「すみません。あの、これ。これ、何でできてるんです」
男は陽を見て、それから塊を見た。
「知らん」
「え」
「割れん」
それだけ言うと、男は包みを台の上に置いて、中から薄く焼いた平たいものを出し、立ったまま齧った。
割れない、と陽は思った。何でできているか知らないが、割れない。それで困らないのだ、この人は。陽は塊をもう一度見た。上の面の滑らかな光と、横の面の無数の傷。ずいぶん古いものなのだろうと思った。親か、その親かが使っていた道具を、そのまま使っている。どこの家にでもある、古い道具だ。
男が包みの中の一枚をちぎって、陽のほうへ突き出した。陽は礼を言って受け取った。硬くて、少し焦げていて、塩の味がした。
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食べ終えると、男は棚の前に立って、何かを探しはじめた。棚は壁に打ちつけた板で、道具や、布や、小さな壺が雑多に載っている。その一番上の段の端だけ、他と様子が違っていた。畳んだ白い布が敷いてあって、その上に、指の先ほどの金属のかけらが、五つか六つ、並べて置いてある。どれも形が歪で、鈍い灰色をしている。布の前には小さな皿があって、何かの穀物が一つまみ盛ってあった。
陽は束ねた棒を運ぶふりをして、棚の前を通りかかり、そのかけらに目を留めた。何となく、手が伸びた。
「触るな」
男の声だった。低かったが、鎚の音より通った。陽は手を引っ込めた。
「神鉄だ」
男はそれだけ言うと、探していた鑢を棚から取って、炉の前へ戻っていった。陽は白い布の上のかけらを見た。灰色で、歪で、屑にしか見えなかった。その屑に、穀物が供えてある。陽は何も訊かなかった。訊けば答えてくれる気がしないし、答えを聞いても、分かる気もしない。陽は棒の束を抱え直して、壁際へ戻った。
午後、男は鉄を打つ前に、壁際の甕の栓を抜いた。昨日、陽が背負ってきた甕だ。男は棚から布を一枚取って、甕の口に押し当て、甕を傾けて布に水を含ませた。含ませすぎない。布の端をつまんで持ち上げ、滴が落ちなくなるまで待ってから、黒い塊の前に立った。
そして、拭いた。
上の面を、奥から手前へ。一度拭くと布を返して、また奥から手前へ。次に角。角は丸く撫でるように。横の面は、上から下へ、刻みのある面だけは刻みを避けて、刻みの周りをなぞるように。どこから始めて、どこで布を返すのか、男の手には迷いがなかった。陽は束を結ぶ手を止めて、それを見ていた。何のためにこの順なのか、陽には一つも分からない。分かるのは、この手順が、男の手の中にしかないということだけだった。棚にも壁にも、どこにも書いていない。
拭き終えると、男は布を炉の脇に広げて干し、鉄を炉に入れた。若い男が袋を押し、火が明るくなる。男が鉄を出して打つと、若い男が脇の小さな鎚で、同じ鉄の端を打つ。二つの鎚の音が、交互に鳴った。
何度目かに、男が自分の鎚を止めた。若い男の鎚が、宙で止まった。男は何も言わずに、鉄を炉へ戻した。若い男も何も言わない。
陽には、止まる前の音と、その前の音の違いが分からなかった。どれも同じ、硬いものを硬いもので打つ音にしか聞こえない。けれど男には、何かが聞こえたらしかった。
鐘が鳴ったのは、その少し後だった。遠くで一つ。しばらくおいて、もう一つ。若い男の顔が、昨日と同じ方角へ向いた。鎚を持った手が下がった。
「炭」と男が言った。
若い男は動かなかった。鐘の音が消えるまで、同じ方角を向いていた。消えてから、男のほうを見た。
「行くって言った」
「炭」
若い男は、しばらく男を見ていた。男のほうは炉の中の鉄を見ている。やがて若い男は鎚を台に置き、戸口の脇の炭の山へ行って、籠に炭をすくいはじめた。鍛冶場の中には、炉の火の音と、炭をすくう音だけが残った。
「いやあ、いい音ですね、鐘」
陽は言った。束ねかけの棒を膝に載せたまま、誰にともなく、少し明るすぎる声になった。何でもよかった。重くなった空気の上に、何か軽いものを一枚置いて、流してしまえばいい。そういうのは得意で、二十年、そうやってきた。
男は炉の中の鉄を見たままだった。若い男の、炭をすくう手も止まらない。陽の声は炉の火の音の中に落ちて、どこにも当たらずに消えた。
「……ですよね。すいません」
自分で畳んで、陽は膝の上の棒に目を落とした。谷の村で、月の頭の日に、同じことをしようとしたのを思い出したのは、言ってしまった後だった。
よくある話だ、と陽は自分に言い聞かせた。親の仕事を継ぎたくない息子と、それに何も言わない親。十代の終わりか、二十歳そこそこ。会社にも、息子が家業を継がないと言い出したと、飲み会でこぼす人がいた。どこかへ行きたい年頃なのだ。四十四年生きてきた目で見れば、そういうものだった。
若い男が炭の籠を炉の脇に置き、男が鉄を炉から出す。二つの鎚の音が、また交互に鳴りはじめた。陽は縄を手に取って、次の束を結んだ。
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日が傾くと、男は炉に灰をかぶせた。火が落ちると、鍛冶場の中は急に暗く、静かになる。若い男は道具を棚に戻し、陽が束ねた棒の束を壁際に並べ直した。並べ直してから、陽の結び目を一つ、指で押して、何も言わずに離れた。
男は、炉の脇に干しておいた布を取った。もう乾いている。男はそれで、黒い塊をもう一度拭いた。昼と同じ順だった。奥から手前へ、布を返して、角、横の面、刻みの周り。拭き終えると、棚の下から、厚い、黒ずんだ布を一枚出してきて広げ、塊の上にふわりと掛けた。布の端が、塊の四つの角から垂れ下がる。男は垂れた端を一つずつ引いて、形を整えた。
それで終わりだった。男は前掛けを外して釘に掛け、若い男も前掛けを外して、隣の釘に掛ける。
陽は、布を掛けられた塊を見た。人が眠るときに、布団を掛けるみたいだ。そう思っただけで、口には出さなかった。
「じゃあ、今日は、これで」
陽は男に頭を下げた。男は頷いたのか、釘の前掛けの向きを直しただけなのか、分からなかった。陽は戸口を出た。外はまだ明るく、道の向こうの空が、赤くなりはじめている。
「なあ」
後ろから声がした。振り返ると、若い男が戸口に立っていた。前掛けを外した若い男は、鍛冶場の中で見たときより、少し細く見えた。前掛けの下は、街で見たのと同じ茶色の上着だった。
「外に、あの人がいるのか」
陽は若い男の顔を見た。あの人、というのが誰のことか、聞き返さなくても分かった。若い男は陽を見ていない。陽の肩の向こうの、道の先の、門のあるほうを見ていた。
陽は頷いた。
若い男はそれ以上何も言わなかった。門のほうをもう少しだけ見て、それから鍛冶場の暗がりへ戻っていった。
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塀の外の木の下で、ツグミは火を起こしていた。陽が火の向こうに腰を下ろすと、ツグミは立ち上がって、木の幹の前へ行った。掌で幹を二度叩くと、乾いた音がする。
「ロイ」
ツグミは陽を見て、もう一度幹を叩いた。
「ロイ」
「……ロイ」と陽は言った。
ツグミは頷いて、今度は少し離れたところに立っている、別の細い木を指さした。
「ロイ」
「ロイ。木、か。木ね」
ツグミは火のそばに戻ってきて、枝を一本くべた。陽は、木の幹を見上げた。枝が広がって、その向こうで、塀の上の灯りが一つずつ点りはじめていた。
ネハ、ルヒ、エナ、トヌ、イゼ、ロイ。陽は片手を折りきって、もう片方の手の、親指を折った。
外に、あの人がいるのか。
若い男の声を思い出しながら、陽は火の向こうを見た。ツグミは枝の先で熾をつついていて、顔を上げなかった。




