塀
塀が見えたのは、道の上で一晩明かした次の日の、日が高くなる少し前だった。
谷の出口を抜けると、山が左右に退いて、広い平らな土地が開けた。畑が続き、その向こうに灰色の線が一本、横に長く引いてある。近づくにつれて、線は高さを持ちはじめた。石を積んだ塀だった。村の家の屋根より高く、端がどこまで続いているのか、陽の立っている道の上からは見えない。塀の上に、ところどころ四角い小屋のようなものが載っている。塀の向こうには、屋根がいくつも重なって、煙が何本も立っていた。
「……でか」と陽は言った。「街だ。ちゃんとした街だ、あれ。拠点にするなら、ああいうとこだよ」
ツグミは返事をしなかった。道の先を見たまま、包みを抱え直して歩いていく。陽は背中の甕を揺すり上げて、その後に続いた。甕の中で水が鳴った。二日背負ってきて、肩の縄の跡はもう痛みより痺れに近くなっている。
道は塀に向かってまっすぐ延び、塀に突き当たったところに、門があった。分厚い板を鉄の帯で留めた扉が二枚、閉じている。扉の脇には槍を立てた男が一人、石の台に腰を下ろしている。男は二人が近づいてくるのを見ていたが、立ち上がりはしない。
門の手前、十歩ほどのところで、ツグミが止まった。
止まって、抱えていた包みを道の端の草の上に下ろし、背中の袋もその隣に下ろす。そして門のほうではなく、塀に沿って続く草地のほうへ、少しだけ顔を向けた。陽は二、三歩行きすぎてから、振り返った。
「ツグミ?」
ツグミは陽を見た。それから、顎を門のほうへ、一度だけしゃくった。
行け、ということだった。
陽は門のほうへ向き直った。扉まではまだ数歩ある。どうやって開けてもらうのか、声を掛けるのか、叩くのか、それとも槍の男に何か言うのか、陽は何も知らなかった。知らないまま足を進めた。
扉が、内側へ動いた。
誰も押していない。槍の男は石の台に座ったまま、手を膝の上に置いている。扉は重たい音を立てて、人が一人通れるだけの幅を開けて、そこで止まった。
街の門が開きます、とアカリは言っていた。祝福を受けたらどうなるのかと訊いたときに、女神の手が届くのと、もう一つ、と。陽はそれを思い出して、そうか、と思った。それ以上のことは考えなかった。考えるより先に、開いた扉の隙間の向こうに、人の話し声と、何かを叩く音と、煮炊きの匂いがある。槍の男が、陽を見上げた。
「用は」
「あ、届け物です。これ」陽は肩越しに甕を指した。「カジの家に」
男は甕を見て、それから陽の顔を見て、顎で扉の隙間を示した。それだけで、ツグミのほうは見なかった。
陽は扉の隙間をくぐる前に、もう一度だけ振り返った。ツグミは草の上に下ろした包みの脇にしゃがんで、袋の紐をほどいている。こちらは見ていない。陽は隙間をくぐった。背中で、扉がまた動く音がした。
---
塀の内側は、音が多かった。足の下が土ではなく、平たい石になっている。その石の道の両側に、木と土でできた家が隙間なく並び、どの家の戸口も開いていた。戸口の中で誰かが何かを削っていたり、籠を編んでいたり、鍋をかき回していたりする。道には人がいて、荷を担いだ男や、子の手を引いた女や、空の荷車を引いた老人が、陽の脇をすれ違っていく。誰も陽を見ない。甕を背負った男は、ここでは珍しくないらしかった。
家々の軒先や、道を渡した縄に、服が干してあった。どれも同じ、土のような茶色をしている。まだ色の濃い上着や、腰に巻く布や、子どもの小さな服が、並んで風に揺れている。どの家の前にも、一枚か二枚はそれがある。陽は、谷の村で羽織った青い上着のことを思い出した。袖が短くて、腕を上げると肘が出た上着は、向こうに畳んで置いてきた。こちらの茶色は、あの青よりずっと地味で、そのぶん、どれも同じ日に染めたように見えた。
陽は立ち止まって、塀のほうを振り返った。塀の内側から見る塀は、外から見たときより低く見える。それでも陽の背の三つ分はあって、石の継ぎ目にところどころ草が生えている。あのくらいなら、と陽は思った。ツグミなら登る。穴から戻るとき、崩れた段を、輪を片手に持ったまま登っていくのを見た。あの塀も、どこか登りやすいところを見つけて、そのうち上から顔を出す。そういう気がした。陽はしばらく塀の上を目で追ったが、四角い小屋と、その中に立っている人影のほかには、何も動いていなかった。
陽は甕を揺すり上げて、道を歩きだした。カジの家というのがどこなのか、分からない。戸口で豆を選り分けている女に声を掛けた。女の着ている上着も、軒先に干してあったのと同じ茶色だった。
「すみません。カジの家って、どっちですか」
女は手を止めずに陽を見上げ、それから陽の背中の甕を見た。
「カジの? ああ、鎚の音のするほう。この先を右。もっと先。音で分かるよ」
言われてみれば、何かを叩く音は、門をくぐったときからずっと聞こえていた。陽は礼を言って、音のするほうへ歩いた。右へ曲がると、音は大きくなった。硬いものを硬いもので打つ、高い音。一つ打って、少し間があって、また一つ。間の長さが毎回ほとんど同じで、陽は歩きながら、いつのまにか次の一つを待っていた。音の出どころは、道の突き当たりに近い、間口の広い家だった。
戸口が大きく開け放してあって、中は暗く、奥で火が赤く見える。熱が戸口の外まで出てきていた。陽は戸口の前で立ち止まり、甕の縄を肩から外しかけて、やめて、声を出した。
「すみません。あの、カジの家は、ここで合ってますか」
音が止まった。
暗がりの中から、男が一人出てきた。陽より背は低いが、肩と腕が太く、前掛けの革が黒く焦げている。髪に白いものが混じっていた。男は片手に鎚を下げたまま、陽を上から下まで一度だけ見て、それから陽の肩の縄と、その先の甕を見た。
「どこからだ」
「上の、谷の村から、です。タツさんに頼まれて。金床に要るって」
男は何も言わずに陽の背中へ回った。陽は慌てて縄を外し、甕を下ろした。下ろすとき、腰が抜けたように膝が笑った。男は甕の口の栓を抜くと、鎚を持っていないほうの手の指を、黙って水に入れた。指を入れて、しばらくそのままにしている。それから指を抜き、濡れた指先を親指とこすり合わせて、鼻の先に近づけた。
陽は黙って待った。何を確かめているのか分からない。冷たいかどうかなのか、匂いなのか、それとも、陽には分からない何かなのか。
男は栓を戻した。
「置いとけ。そこだ」
鎚で戸口の内側の、壁際の土間を指した。陽は甕を抱えて、言われたところへ運んだ。運び込んで顔を上げると、暗さに目が慣れて、奥が見えた。
炉があって、その前に、台のような、岩のような、黒い鉄の塊が据えてある。その塊の向こうに、もう一人いた。
若い男だった。陽とそう変わらない年に見える。革の前掛けをして、手に火箸のようなものを持っているが、その手は止まっていて、顔は戸口とは違う、壁しかない方角へ向いている。陽が入ってきたことにも、甕が置かれたことにも、気づいていないように見えた。
そのとき、鐘が鳴った。低い音で、遠くのほうで一つ、しばらくおいて、もう一つ。音は壁を抜けて、炉の火の上を渡っていった。若い男の顔が向いているのは、その音のするほうだった。
陽は、戸口に戻った男のほうを見た。男は鎚を手にしたまま、若い男のほうを見ていない。見ないようにしているのか、見る必要がないのか、陽には分からない。ただ、男は若い男に何も言わなかったし、若い男も男に何も言わなかった。二人のあいだにあるのは、炉の火の音だけだった。
鐘が止むと、若い男は火箸を持ち直して、何も言わずに炉のほうへ向き直った。男が鎚を振り上げた。高い音が一つ、鍛冶場の中に響いた。それで、陽の用は済んだらしかった。
「えっと、じゃあ、確かに。お届けしました」
返事は鎚の音だった。陽は頭を一つ下げて、戸口を出た。外の光が眩しい。背中が軽すぎて、歩きだしたとき、少しよろけた。
---
昼のあいだ、陽は街の中を歩いた。どこへ行けばいいのか分からないので、音のするほう、人の多いほうへ、ただ足を向ける。茶色の服はどこへ行っても干してあった。道の角で、子どもが三人、茶色の布の切れ端を振り回して走っていた。
何度か、塀のほうを見上げた。塀はどこから見ても同じ高さで、同じ灰色で、上には四角い小屋と人影があるだけで、草の生えた継ぎ目から誰かが顔を出すことはない。鐘がもう一度鳴って、陽は鍛冶場の、あの壁しかない方角を思い出した。
日が傾きかけたころ、陽は門へ戻った。
門の扉は、来たときと同じように、陽が近づくと内側から動いて、人が一人通れるだけの幅を開けた。槍の男は石の台に座ったまま、陽を見て、何も言わなかった。
扉の外に出ると、風の匂いが変わった。土と草の匂いがする。ツグミが包みを下ろしたところには、もう何もなかった。陽は道の上で左右を見た。塀に沿って、草地が続いている。その先、塀から少し離れたところに、枝を広げた木が一本立っていて、木の根もとから、細い煙が上がっていた。
ツグミは、木の下で火を起こしていた。
石を丸く並べた中に、小枝を組んで、その上に太い枝を渡してある。火はもう落ち着いていて、ツグミはその前にしゃがみ込み、灰の中に何か埋めている。袋と包みは木の根に立て掛けてある。袋の口から、見たことのない草の束がはみ出していた。陽が近づいていくと、ツグミは顔を上げて陽を見て、それからまた灰のほうへ目を戻した。
「……ただいま」
陽は火の向こうに腰を下ろした。ツグミは灰の中から、黒く焼けた丸いものを一つ掘り出して、陽のほうへ転がしてよこした。拾うと熱く、陽は手の中で二、三度跳ねさせた。皮を剥くと中は黄色くて、甘い匂いがする。芋に似ていた。
陽は塀のほうを見た。塀は日の沈むほうを背にして、黒く、長く、横たわっている。ツグミは登ってこなかったし、上から顔を出しもしなかった。ここで火を起こして、芋を焼いていた。陽は、どうして、と思ったが、何がどうしてなのか、自分でもうまく言えなかった。登れるはずなのに、登らなかった。その理由が、陽には分からない。ツグミの顔を見ても、ツグミは芋の皮を歯で剥いているだけだった。
「届けたよ、甕」と陽は言った。「鍛冶屋だった。水に指突っ込んで、匂い嗅いで、置いとけ、だって。愛想ゼロ。あと、奥にもう一人いてさ」
言いかけて、陽はやめた。奥の若い男が壁のほうを向いていたことを、どう話せばいいのか分からなかった。話しても、ツグミには通じない。陽は黙って芋を齧った。
---
日が落ちると、火の明かりが強くなった。ツグミは膝を抱えて火を見ていて、陽も同じ火を見ていた。枝が一本はぜて、火の粉が上がる。ツグミは手を伸ばして、火の端から燃えている小枝を一本抜き取った。先が赤く、細い煙を引いているそれを、ツグミは陽の顔の前に持ってきた。
「イゼ」
陽は小枝の赤い先を見て、それからツグミの顔を見た。
「イゼ」とツグミはもう一度言い、小枝で、火のほうを指した。
「……イゼ」と陽は言った。
ツグミは小枝を火に戻さずに、腕を上げた。赤い先が、陽の頭の上を越えて、塀のほうへ向く。陽はそちらを振り返った。
塀の上に、灯りがあった。四角い小屋のところに一つ、少し離れて、もう一つ。その向こうにも一つ。黒い塀の線の上に、小さな火が、間を置いて並んでいた。昼に見上げたときの人影が、あの中にいるのだろうと陽は思った。
「イゼ」とツグミが言った。
「イゼ」と陽も言った。塀の上の灯りを見たまま。
火だ、と陽は思った。こっちの火も、あっちの火も。
ツグミが小枝を火に戻すのを見ながら、陽は指を折った。ネハ、ルヒ、エナ、トヌ、イゼ。今度は片手が空いていて、五本とも、同じ手で折れた。
塀の上の灯りは、陽が眠るまで、一つも消えなかった。




