届け物
祭の翌朝、陽が筵の上で目を覚ますと、土間に鍬の男がしゃがんでいた。
男の前には、大きな葉を何枚も重ねた包みが二つ置いてあった。男は麻の紐で包みの口を縛っているところで、縛り終えると一つずつ持ち上げて重さを確かめ、片方の結び目をもう一度締め直した。陽が身体を起こしたのに気づくと、男は包みを両手に一つずつ持って板の間の端まで来て、陽の筵の足もとに並べて置いた。
「持っていけ」
陽は包みを見た。葉の合わせ目から、干した魚の尾が一本のぞいている。もう一つの包みは柔らかく、押すと中で粉が動く感触がした。
「え、これ、俺らに?」
「二人分だ」
男はそれだけ言って土間へ戻り、竈の前にしゃがんで火を起こしはじめた。陽は包みと男の背中を交互に見て、何か言おうとして、言葉を探しているうちに、男の背中がもう竈の火のほうへ向いたまま動かないのを見て、口を閉じた。
持っていけ、というのは、どういう意味なのだろう。祭が済んだから客はもう発つものなのか、それとも発ってくれということなのか。陽は祭の夜の男の声を思い出した。祭が済んだな、とだけ言ったあの声も、そういう意味だったのだろうか。ヨリの村を出るとき、引き止められたのを陽は覚えている。ここでは誰も引き止めていない。
追い出されたのかな、と陽は思いかけた。思いかけて、それを確かめる言葉を、陽は持っていなかった。訊けば答えは返ってくるのだろう。返ってきた答えを聞くのが、なんとなく嫌だった。陽は包みの結び目を指でなぞって、何も訊かずに、それを膝の上に引き寄せた。
陽は包みを筵の上に置いたまま、戸口の脇の桶を二つ取って、天秤の棒を肩に載せた。なぜそうしたのかは、自分でもよく分からない。ただ、朝のうちだった。裏の水路へ下りて、樋の下に桶を置き、半分まで満ちたところで引き上げて、斜面を上がる。土間の甕に空けてまた下りる。何往復かして、三つの甕が縁まで満ちたころ、肩にはまた棒の形の赤い筋がついていた。イサは竈の前で粥をかき回していて、甕のほうを一度だけ見たが、何も言わなかった。
朝の粥は、いつもより少しだけ量が多かった。板の間に四つの椀と、ツグミの前にだけ大きな椀が一つ並び、男は黙って自分の椀をすすって、子どもは椀を持ったまま陽とツグミの顔を何度も見比べた。
「もう行くの?」
子どもが訊いた。陽は、どう答えればいいのか分からずに、ツグミを見た。ツグミは粥をすすっていて、子どものほうも陽のほうも見なかった。イサが、食べな、と子どもに言い、子どもは口を尖らせて椀に口をつけた。ツグミはいつもどおり二杯食べて、二杯目の椀を置くと、椀の底を指で一度なぞってから、立ち上がった。
隣の筵に戻ったツグミは、もう袋を背負っていた。
いつ起きたのか分からない。袋の紐には輪が通してあって、昨夜着ていた青い上着は、きちんと畳まれて筵の上に置いてある。ツグミは陽の膝の上の包みを見て、それから戸口のほうを見た。行くのだ、と陽は思った。ツグミはもう決めている。祭の前から決めていたのかもしれないし、今朝決めたのかもしれない。どちらなのかは陽には分からなかった。
陽も立ち上がって青い上着を畳んだ。畳み方が分からず、何度か折り直して、結局ツグミのものの隣に、少し歪んだ形で置いた。撚りかけの縄を指に巻き、包みを一つ抱えると、もう一つをツグミが取った。
戸口の外に出ると、朝の光の中に、タツが立っていた。
タツは両腕で大きな甕を一つ抱えていた。陽の腰ほどの高さのある、口の狭い甕で、口には木の栓が詰めてあり、栓の上から布を被せて紐で縛ってある。甕の腹には縄が網のように掛けてあって、背負えるように、肩に掛ける輪が二つ作ってあった。タツはそれを戸口の脇の地面にそっと下ろし、下ろしたところで、陽の顔を見た。
「上から汲んだ水だ」
陽は甕を見た。それからタツを見た。
「セキへ行くなら、カジの家へ持っていってくれ。金床に要る」
セキ、という音が、陽の耳にひっかかった。ヨリやホカンと同じように、ほかの言葉の並びから一つだけ浮いて聞こえる。どこか別の場所の名前らしかった。カジ、というのも、人の名前なのか家の名前なのか、陽には分からない。どちらも、ほかの言葉と違って、音のまま耳に残った。
「金床に、水……ですか」
「上の水でなきゃ、だめなんだそうだ」タツは甕の縄を一度引いて、結び目を確かめた。
陽は口を開きかけた。俺はよそ者なんだろ、という言葉が喉のすぐ下まで来ていた。よそ者を上げたなと戸口で言ったのはあんたじゃないか、そのよそ者になんで、と。
陽は口を閉じた。
タツは甕の縄から手を離した。
「畦の分だ」
甕の前にしゃがみ、肩の輪に腕を通して、背負ってみた。重い。水の重さが背中に張りつくように乗ってきて、膝が一度沈んだ。陽は腿に手をついて、ゆっくり立ち上がった。立ち上がれた。水甕の桶ほどにはふらつかない。筋力、ちょっとは上がったか、と陽は思った。
ツグミが寄ってきて、陽の背中の甕を拳で軽く叩いた。こん、と鈍い音がして、中の水がわずかに揺れる。ツグミは叩いた拳を開いて甕の腹に掌を当て、冷たさを確かめるようにしばらくそのままにしていて、それから手を離した。
タツは陽が立ち上がるのを見ていた。見て、何も言わずに頷き、自分の家のほうへ歩いていった。途中で一度だけ振り返って、甕の口の布を顎で示した。こぼすな、ということらしかった。
仲直りの印なのかな、と陽は思いかけた。けれど、畦の分だ、と言ったタツの声は、その言葉とうまく重ならない気がして、陽は思うのをやめた。陽はタツの背中が畦の向こうに消えるまで見ていた。背中の甕が重く、陽はそれを揺すり上げた。
家の中からイサが出てきた。手に掻き棒を一本持っていて、祭の前の夜まで拭いていたあの刃だった。イサは戸口の脇の石に腰を下ろして、布を膝に広げ、刃を拭きはじめた。陽とツグミが戸口の前に立っているのを、拭く手を止めずに見上げた。
「行くのかい」
「はい。あの、ほんとに、お世話になりました。飯も、筵も、上着も。何から何まで」陽は頭を下げた。背中の甕が傾いて、慌てて体を起こした。「あと、その、上のことも。俺、いろいろ、余計なこと言ったかもしれないけど」
イサは刃を裏返して、また拭いた。
「水は、朝のうちに汲むんだよ」
陽は顔を上げた。イサは刃を見ていて、陽のほうは見ていなかった。
「どこへ行ってもね。朝のうち」
「……はい」
イサはそれ以上何も言わなかった。刃を拭く音だけが続いていた。陽はもう一度頭を下げて、ツグミと並んで歩きだした。畑の縁まで来て振り返ると、イサはまだ石の上に座って、手を止めずに刃を拭いていた。その向こうの畑に、鍬の男が出ていた。男は鍬を振り上げたところで二人に気づいたらしく、振り上げた鍬をそのまま肩に担ぎ直して、空いたほうの手を一度だけ上げた。陽も手を上げた。上げたまま、背中の甕に引っぱられて一歩よろけ、ツグミに袖を掴まれた。男はもう鍬を振り下ろしていた。
子どもが後ろから走ってきて、陽の甕の縄を掴んで並んで歩いた。畑を抜けて、川原へ下りる斜面まで来ても、手を離さない。川原に出ると、子どもは平たい石を一つ拾って、陽の手に押しつけた。
「これ、あげる。昨日のと同じくらいのやつ」
陽は手のひらほどの平たい石を受け取った。
「次は、線から投げなよ」
「分かってるって。線からね。線から」
子どもは笑って、川原の石の上に立ち止まった。そこから先へは来なかった。陽が振り返るたびに、子どもは同じ場所に立って、手を振っていた。三度目に振り返ったとき、子どもはまだ手を振っていて、四度目には、もう斜面を駆け上がって、家のほうへ戻っていくところだった。
陽は平たい石を腰の紐のところに挟んだ。
川原の脇の道は、上から来た道とは別の方向へ延びていた。川の下流へ、谷の出口のほうへ。ツグミは道に出ると、立ち止まって、下流のほうをまっすぐ指した。
「トヌ」
陽はツグミの指の先を見た。道は川に沿って、谷の出口のほうへ下っていって、その先は山の陰になって見えない。
「トヌ」と陽は言った。
ツグミは頷いて歩きだした。歩きだしてから一度だけ振り返り、陽がついてくるのを見て、また前を向いた。あっちだということなのか、行くということなのか。陽にはどちらとも決められなかったが、どちらでも、今はあまり困らない気がした。陽は背中の甕を揺すり上げて、その後に続いた。
ネハ、ルヒ、エナ、トヌ、と陽は歩きながら口の中で数えた。四つ。指を折ろうとして、片手が甕の縄で塞がっていることに気づき、もう片方の手で折った。
しばらく歩くと、谷が狭くなって、道は川から少し高いところを通るようになった。振り返ると、村の屋根の上に灰色の壁が見え、壁の下の、あの川原はもう見えなかった。
来たときと同じ、継ぎ目の無い平らな道だった。下りなので脚は楽だったが、背中の甕が一歩ごとに腰を押し、肩の縄が食い込む。陽は何度か立ち止まって縄の位置をずらし、そのたびにツグミは少し先で待っていた。待つといっても振り返りはせず、道端の草をむしって匂いを嗅いだり、石を拾って川へ投げたりしている。陽が追いつくと、また歩きだす。日が高くなったころ、ツグミは道端の石に腰を下ろして、自分の抱えていた包みの口をほどいた。中から干した魚を一本取り出して半分に裂き、片方を陽に突き出す。陽は甕を背負ったまま石の端に尻を載せて、それを受け取った。硬くて塩辛く、噛んでいるうちに、昨夜の火の匂いを思い出した。
昼を過ぎたころ、道が川のすぐ上へ下りて、流れの中に石の柱が並んでいるのが見えた。上へ向かうときに見た、あの橋の柱だった。上には何も渡っていない。反対側から見ても、柱は同じ太さで、同じ高さで、水の中に立っていた。橋が落ちてから、と陽は思った。鍬の男が言っていた。これが落ちてから、この谷では凶作が無いのだと。上の橋だけが流されて、柱だけが残ったのだろう、と陽は柱の脇を通り過ぎながら思った。
ツグミは柱のほうを見もしなかった。
ツグミがまた立ち止まった。陽が横に並ぶと、ツグミは腕を上げて、下流の、山と山のあいだの、まだ何も見えないところを指した。




