一日
朝、ツグミは火の跡に土をかけて、その上を足で二度踏んだ。
袋を背負っている。紐に通した輪と、葉の包みが、袋の脇で揺れていた。ゆうべ、陽が門から戻ってきたとき、ツグミは火のそばで袋の中身を全部出して、干した根や葉や、川で拾った石を、一つずつ並べ替えては詰め直していた。陽はその手つきを、火の向こうから眺めていた。詰め終えた袋は、いつもより少し丸く膨らんでいた。陽のほうは、背負うものがほとんど無い。腰の紐の石と銭、撚りかけの縄、それから鍬の男の包みが一つ。それで全部だった。
ツグミが塀とは反対へ延びる道のほうを向き、陽もそちらを向いた。ケト、と昨日の朝に言われた明日が、今朝になっている。道の先は朝靄で白く、どこまで続いているのかは見えなかった。
陽は一度だけ、塀のほうを振り返った。門の上の灯りはもう消えていて、石の台の門衛が、槍を膝に寝かせて欠伸をしているのが小さく見えた。毎朝くぐって、毎夕出てきた門だった。中には担ぎの家があって、坂があって、水路がある。もう、くぐらない。
「よし。行くか」
陽が言ったとき、背中のほうで、門の扉が動く重たい音がした。
振り返ると、扉が人ひとりの幅だけ開いていて、そこからサヨが出てくるところだった。前掛けをしたまま、髪を後ろで一つにきつく縛っている。サヨは石の台の門衛に軽く顎を引き、それから、まっすぐこちらへ歩いてくる。いつもの、荷の数を数えているときの速い足取りではない。一歩ずつ、地面を確かめるような歩き方だった。
「ヨウ」
サヨが陽をその名で呼んだのは、初めてだった。名乗ったのは最初の日の一度きりで、それからずっと、サヨは陽を旅の人と呼んできた。
「……はい」
「発つところに、悪いね」サヨは陽の背の荷を見て、ツグミの袋を見て、それから陽の顔に目を戻した。「ノキが、あんたに頼みたいことがあるって」
陽は何か言おうとして、言う言葉を探した。ノキが。頼みたいこと。昨日の夕方、路地の角に立って、門を見ていた顔が浮かんだ。
陽はツグミを見た。
ツグミは道のほうを向いたまま、顔だけをこちらへ向けていた。陽は門の脇の石を指して、手のひらを下へ動かした。夕、ここ。毎朝、この石の前でやってきた仕草だった。
ツグミは一拍、陽の顔を見ていて、それから頷いた。
サヨが、陽の手と石とツグミを順に見る。眉が少し寄って、何をしているのか分からない、という顔になった。陽が説明しようとして口を開くより先に、ツグミがサヨのほうへ向き直った。
ツグミが何か言った。
短い音がいくつか続いた。陽の耳には、いつものとおり、意味にならない音として届いた。ツグミは言いながら、陽を指し、門の中を指し、空の、日の沈むほうを指して、それから陽を指したまま手を門の外の石のほうへ戻した。最後に自分の胸を指して、その指で石の前の地面を指した。
サヨはツグミの顔を見ていた。指の動きを一つずつ目で追い、見ているうちに、寄っていた眉がほどけていく。サヨは何も言わずに、一度だけ、ゆっくり頷いた。石の台の上で、門衛が槍を膝に寝かせたまま、三人のほうを見ていた。
ツグミはそれで済んだという顔で、背の袋を石の脇に下ろした。下ろした袋の口の紐を一度締め直し、輪が袋に当たって小さく鳴った。
夕方までには戻る、と陽は思った。夕、ここ。いつもどおりなら、それで間に合う。
陽はそのやりとりを、少し離れたところから、荷を背負ったまま見ていた。自分とツグミのあいだでは、指一本と手のひら一つで済んでいたものが、サヨには届かなかった。届かなかったのを、ツグミが言い直した。何と言い直したのかは、陽には分からない。サヨの顔が変わったのだけが、分かった。
「行こうか」
サヨが言って、門のほうへ歩きだした。陽がその後に続くと、門の扉が、サヨが近づくと動き、陽が近づいても止まらずに、二人ぶんの幅で開いた。
扉の隙間を抜ける前に、陽は振り返った。
石の脇に、ツグミが立っていた。下ろした袋を足もとに置いて、門のほうを見ている。門のほうへは、一歩も近づかなかった。
陽は扉をくぐった。背中で、扉が閉まる音がする。内側から見る門は、外から見るよりも低く見えた。
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担ぎの家の土間には、まだ荷が届いていない。いつもならこの時刻には、戸口に荷車が一台は着いていて、サヨが札を弾いている。今朝は土間が広く見えた。上がり口に母親が座っていて、陽の顔を見ると、何も言わずに裏口のほうを顎で示した。
裏庭に、ノキが立っていた。
しゃがんでいなかった。塀の下の、いつも縄を括っている場所の前に、両手を体の脇に下ろして立っている。陽がこの裏庭でノキの立っている姿を見るのは、通り口の手前で荷を抱えて止まっていたとき以来だった。洗った生成りの上衣を着ていて、袖は手首まで下ろしてあった。足もとには、括りかけの荷が一つも無かった。朝の光が塀の上から斜めに入って、ノキの肩の半分だけを照らしていた。
通り口の脇の台には、荷が一つも無かった。塀の下には、括り終えた縄の束が三つ、きちんと揃えて置いてある。昨日のうちに、ノキが括れるだけ括ってしまったのかもしれなかった。サヨが陽の後ろから裏庭へ下りてきて、通り口の脇に立った。腕は組まず、前掛けの端を片手で握っていた。
陽が裏口の敷居をまたぐと、ノキは陽のほうへ一歩出た。
それから、口を開いた。
声だった。この家に通ううち、陽が一度も聞いたことのない声だった。低くて、少しかすれていて、言葉の切れ目がはっきりしない。陽の耳には、意味にならない音として届いた。ノキは陽の顔を見て、何かを言い、言い終えて口を閉じ、そのまま陽の顔を見ていた。手は体の脇に下ろしたまま、握ってもいなかった。
陽は何も返せなかった。何を言われたのかが、分からない。裏庭は静かで、塀の向こうの表通りから、荷車の音が遠く聞こえるだけだった。ノキは口を閉じたまま陽の顔を見ていて、陽はその目から、自分の目を逸らせなかった。ノキが陽をこんなふうにまっすぐ見たことは、これまで一度も無い。
サヨが陽の横に来て、ノキを見て、それから陽を見た。
「外へ出て、戻ってきたい、って」
サヨの声は平たく、荷の行き先を読み上げるときと同じ声だった。
外へ出て、と陽は繰り返して、ノキの顔を見た。陽の頭に、塀の外の木と、石と、その脇に立っているツグミが浮かんだ。発つところに、悪いね、とサヨは言った。
ノキが、袋を背負って、自分とツグミの後ろを歩いている姿が、一瞬だけ陽の頭に浮かんだ。塀とは反対へ延びる道を、三人で。
「……連れてってくれ、ってことですか。旅に」
サヨは首を横に振った。
「戻ってきたい、って言ってる」
戻ってきたい。陽はその言葉を、口の中で繰り返した。出て、戻ってくる。行ったきりではなく、出て、それから、この家の、この裏庭に戻ってくる。陽が毎朝毎夕、何も考えずにやってきたことだった。扉に近づけば開いて、出て、また近づけば開いて、入る。それだけのことを、ノキは言っている。
門の外に出たことないんだよ、生まれてから、一度も、とサヨは言った。一昨日の夕方、この裏庭で。
ノキは陽を見ていた。陽の顔を見ていて、陽の手を見てはいなかった。この人は、陽の手のことを知らない、と陽は思った。陽が何を持っているのかを、ノキに話したことは一度も無い。ノキが頼んだのは、門の外へ出て、戻ってくること、それだけだった。どうやって、とは言っていない。
陽はサヨを見た。サヨは陽を見ていなかった。ノキの横顔を見ていて、前掛けを握った手の指が、白くなっていた。
それでも、ノキは陽に言った。毎朝門から入ってきて、毎夕門から出ていく、明日にはもういないはずの、余所者に。
陽は口を開きかけた。
できる、と言えば済む。言えば、サヨが訳して、ノキが頷いて、それで。
陽の口は、その先へ進まなかった。
「……少し、待ってくれ」
陽はそれだけ言った。サヨは陽の顔を見て、何も言わずに頷いた。ノキはサヨを見て、それから、また陽を見た。陽は二人に背を向けて、土間を抜けた。上がり口の母親は札を揃える手を止めていて、陽が横を通ると、顔を上げずに、また札を揃えはじめた。陽は表の戸口へ出た。
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表通りには、まだ人が少なかった。
向かいの家の軒先で、誰かが戸を開ける音がして、門のほうから、荷車の轍が石を噛む音が近づいてくる。今日はこの戸口で荷を受け取るつもりはなかった。背負い板は、昨日の夕方に土間の隅に立てかけたままになっている。陽は戸口の柱の陰に立って、柱に背を預けた。柱の木は、朝の冷えをまだ吸っていて、上着越しに背中が冷たかった。目の前に、門がある。十歩。扉は閉じていて、その向こうの石の脇に、ツグミがいるはずだった。桶を提げた女が二人、陽の前を通って門のほうへ歩いていき、扉が動いて、女たちを外へ出し、また閉じた。扉が閉じきる前の隙間から、石の端が一瞬だけ見えた。ツグミの袋が見えたかどうかは、分からなかった。
陽は自分の右手を見た。ノキが見なかった手だった。
指先が痺れたことは、何度もあった。命令のあとで、桶の縁がぼやけたり、焼いた平たいものの表面のざらつきが分からなくなったり、掴んだ石の角が遠くなったりした。そのたびに、しばらくすると戻ってきた。戻ってきて、また何でも拾えるようになった。陽は手を下ろした。
「アカリさん」
声を落として呼ぶと、いつもの声が返ってきた。
「はい」
陽は少し黙った。何から訊けばいいのかを、頭の中で並べ直した。ノキの名前は出さなかった。出さないほうがいい気がしたが、なぜそう思うのかは、自分でもうまく言えなかった。
「祝福を授けたら」
陽は言った。言ってから、喉の奥が一度詰まった。
「祝福を授けたら、俺は何を払う」
少し間があった。女神の声は、道を教えるときと同じ高さで返ってきた。
「手と足の先の、触れている感じがなくなります。戻りません」




