第52話 愛の確認と信頼
ダニエルが去った部屋では、長い沈黙が流れていた。
頬を赤く腫らし俯くレティシアの傍らには、ニルヴィスが寄り添って彼女を気遣い。
入り口付近に立っていたルカは、少し離れた所にいる2人を見つめる。
同じように入り口付近では、ロレシオとアルノエが固い表情で立っている。
彼らの視線は皆、レティシアに向けられ、部屋の空気は重苦しく緊張で張り詰めていた。
ルカはレティシアから視線を逸らさずに、入り口付近の壁にもたれ掛かった。
腕を組んだ彼は、俯く彼女に厳しい視線を向ける。
時計の秒針が時を進め、片足をもう片足にクロスさせた彼の顔は不機嫌に変わっていく。
彼は静かに彼女の言葉を待っていたのだ。
それでも、話し出さない彼女の代わりに、彼はため息をつくと話し出す。
「なぁ、おまえバカなの?」
「……」
「俺さ、なんかあったら、ブローチで知らせろって言ったよね?」
「……」
ルカの眉間に深いシワが寄る。
問いかけにも答えないレティシアに、彼は苛立ちを隠せず、思わず冷たく言い放つ。
「黙ってないで、なんか言えよ」
「ルカ様、今はレティシアちゃんも感情的になってるから、もう少し落ち着いてからにしよ?」
ニルヴィスはルカの声を聞いて、咄嗟に話を中断させようと会話に割って入った。
このままでは、一方的にルカがレティシアを言葉で詰める。
それは、2人にとって良くない結果しかないと、彼は瞬時に考えたのだ。
しかし、ニルヴィスはルカの顔を見ると、静かに俯いた。
『帰れって言ったら、殴られただけよ』
レティシアは俯いたまま、吐き出すように言うと唇を噛んだ。
彼女は母親であるエディットを、ダニエルがから悪く言われたことにも腹が立った。
だけど、それ以上にダニエルの言葉に、動揺した自分が許せないと思うと、悔しかった。
「ああ、聞こえてたよ? それで?」
『お母様が、アイツと離婚する気で、他の男と会っているって……お母様は……私を、捨てるつもりだって……』
ルカはレティシアが話すのを聞くと、思わず鼻で笑った。
彼女がエディットから捨てられることがないと、彼は断言できる。
個人的な呼び出しも、彼女に関することだった。
仮に捨てるつもりならば、個人的な呼び出しをして心配はしない。
そのため、彼はダニエルの言動が癪に障って腹が立つ。
「ありえないだろ」
『分かっているよ……でも、我慢できなかった……』
「はぁ……1人にするんじゃなかった……」
ルカは落ち込んだように、肩を落として俯くレティシアを見るのがつらかった。
1人にさえしなければ、こうなることはなかったと後悔が滲む。
それでも、彼は彼女を信じたことを、間違いだと思いたくない気持ちもある。
ルカは壁から体を起こすと、彼女に近付いてしゃがんだ。
そして、彼女の顔に手を伸ばすと、赤く腫れている頬に優しく触れる。
それから、彼は優しく彼女の顔を少し上げた。
すると、彼女が泣くのを我慢するような、それでいて今にも泣き出してしまいそうな表情している。
そのことに、彼は胸が締め付けられ、痛む胸が上手く呼吸させてくれないと感じる。
「アルノエ、騎士団の方に回復薬なかったか? あったら持ってきて。ロレシオは、ジョルジュにこのことを報告してきて」
「「かしこまりました」」
ルカは振り返らず2人に的確な指示を出すと、2人が急いで部屋を出て行く足音を聞いた。
レティシアの頬を時折親指で優しくなでながら、彼は彼女に話しかける。
彼の表情は優しく悲し気で、淡くて消えそうだ。
それでも、声だけはここに存在していることを、証明している。
「防げただろ、なんでわざわざ受けた?」
『防いだら、次の瞬間には殺しちゃうかと思ったから……結局……同じだったけど……』
「痛いだろ」
『お母様に……捨てられるって、一瞬でも考えた時の方が痛かった……』
ルカはレティシアの言葉を聞いて、込み上げる感情が溢れそうになった。
彼女の優しさも、強さも理解していると思っている。
それでも、誰かを思う彼女は、そこに居るのに居ないように感じる時もある。
いつか、彼女が遠くに行くことも、彼女に大切な人ができて離れることも分かっている。
だけど、彼女が誰かのために消えてしまうんじゃないかと、手が届かない所に行くかもしれないと思うと、彼は怖かった。
「……なぁ……レティシア、頼むから……頼むから、今度からは……もっと自分を大切にしてくれ」
レティシアは、今にも泣きそうな顔で話すルカに、何も言えなくなる。
今の彼がどんな気持ちか、どんなことを考えているのか、彼女には分からない。
けれど、曖昧なことも、その場限りの言葉は、逆に彼を傷付けてしまうだけだと思った。
ニルヴィスは、まるで分かり合っているかのように向き合う2人を見つめた。
無意識に握った拳は、痛みを伴い深く彼を傷付ける。
それでも、広げた手のひらは爪の跡が残るだけで、彼は少しだけ安心した。
彼は2人の雰囲気に耐え切れなくなって、笑顔を作ると明るい声で話し出す。
「そうだよ~。レティシアちゃんは、もうちょっと自分を大切にした方がいいよ~。それにしても、レティシアちゃんの殺気もヤバかったけど、ルカ様やノエとロレシオとかも、レティシアちゃんの頬を見た時もヤバかったんだからね?」
「ニルヴィス、お前だって変わらないだろ」
ニルヴィスが言ったことに対し、ルカは間を置かずに答えた。
すると、それを聞いていたレティシアは、ルカから視線を逸らして目線だけ下げた。
『ごめんなさい……後で2人にも謝らないとだね……』
『あら、やっぱりまた壊れた』
突然エディットの声が、レティシアの付けてるピアスから聞こえた。
レティシアは胸が大きく跳ねたのが分かり、全身の毛穴が開くのを感じる。
彼女は目を見開き、ルカの方に視線を向けると彼にそのまま伝える。
『ルカ……指輪が壊れた』
レティシアの頬を指でなでながら、悲しそうな目をしたルカが言う。
「……回収するか?」
レティシアはピアスから聞こえる情報を、そのままルカに引き続き伝える。
『ううん……ダニエルがちょうど部屋に居て、回収しているわ』
「……夜に忍び込んで盗るか?」
『……そんな時間もくれないみたいよ。今から帰るって』
ルカはレティシアの言葉を聞き、頬をなでる手が止まる。
少しだけ考えるように、彼は目を細めるとダニエルの思考を考えた。
騎士団を怖がっていたダニエルが、逃げることは分かり切っている。
それでも慌てるほどのことなのかと、彼の中で疑問が沸く。
それなら、なぜダニエルがレティシアと今日接触したのか分からい。
もし、指輪が壊れなかったら、ダニエルはどうしていたのだろうかとルカは思った。
彼はまたレティシアの頬をなでると、ゆっくりと話し出す。
「……この後、ジョルジュがエディット様に報告するから、その前にここから出たいんだろうな……」
『多分ね……』
2人の会話を聞いていたニルヴィスは、首をかしげた。
ニルヴィスから見た指輪は、赤紫の宝石が付いた綺麗な指輪。
それ以外、彼は何も感じなかった。
そのため、この2人がなぜ指輪に固執しているのか、理解ができない。
それでも彼は、理解ができないと言ったらダメなような気がして、頼まれていたことだけ報告することにした。
「一応ボクさ、ルカ様に言われて、エディット様の魔力の変動を観察してたけど、変わった様子はなかったよ?」
『結局 “同じ” ね』
「そうだな……」
(結局、私に接触した理由もよくわからない……。嘘を付いてまで、引き取りたい理由は? 私が向こうに住めばお金が入るとか? 帝都の屋敷に住めるとか? でもそんなことで、わざわざ私を探し回るとかありえる? 後、考えられるのは人質とか?)
レティシアはそう考えると、ダニエルが1人で行動しているように思えなくなった。
そのことで、レティシアの中で謎が深まる。
(1人で動いていないなら、一体裏に誰がいるの? 傀儡にしても、あの傲慢な性格じゃ衝突するでしょ……それでも、利害が一致した人がいる? でもどんな目的があって?)
ルカは考え事を始めたレティシアを、静かに見つめる。
すると、走ってくる足音が聞こえ、ルカには気配からアルノエが部屋に入ったことが分かった。
気配はだんだんと近寄り、ルカは回復薬を受け取るために手を差し出す。
「ルカ様、回復薬をお持ちしました。あ、あの……オレが塗ってもいいですか?」
「……ああ」
一瞬、間を置いてルカは短く返事すると、不機嫌そうに立ち上がった。
アルノエに「ありがとうございます」と言われたが、それすら今の彼は気に入らない。
壁際に移動すると、彼は腕を組んで壁にもたれ掛かる。
赤い瞳には、小さな女の子の前に、赤髪でショートボブの青年がしゃがみ、見つめ合っている。
アルノエはレティシアの瞳を見つめ、腫れた頬に目を向けた。
始め見た時より腫れは引いていたが、それでも彼は奥歯を噛み締めるように歯を食いしばる。
「レティシア様、痛かったら仰ってくださいね」
アルノエはそう告げて、回復薬を手のひらに出し、その手でレティシアの頬に触れる。
その瞬間、彼女の頬がほんのり冷えていることに気が付いた。
ルカがずっと冷やしていたのだと彼は思うと、ルカの対応力と冷静さを改めてすごいと感じる。
だが同時に、彼は同じようにできるか考えた。
これは、魔力を体に纏うことの応用だ。
それでも部分的にやるのは、難易度が違ってくる。
考えれば考えるほど、場所を譲ってくれたルカに、彼は罪悪感を覚えてしまう。
回復薬を塗る彼は、頬を見ながら痛ましそうな表情を浮かべた。
『ノエ、痛くないから大丈夫だよ? ノエの方が痛そうだね、ごめんね?』
「いえ、次はダニエル様でも許さないので、大丈夫ですよ」
そう言ったアルノエの表情は、まるで痛みと怒りが混じり合ったような表情だった。
『そ、そっか……本当にごめん……』
レティシアはアルノエに謝ると、冷静に心の中で思う。
(うん。全然、いろいろと大丈夫じゃないわね)
アルノエが何度も赤くなったレティシアの頬に、1瓶使い切る勢いで回復薬を塗っていた。
ドアの向こう側から、数人の足音が近付く音が聞こえる。
そのうち足音は部屋の前で止まり、勢いよくドアが開くと、息を切らしたエディットが部屋に飛び込んだ。
「レティ!!」
大きな声でレティシアのことを呼んだエディットの顔からは、血の気が引いて青白くなっていた。
レティシアはエディットの方を見ると、心配してくれた嬉しさが込み上げる。
けれど、ダニエルの言葉も耳に残っており、彼女は複雑な心境のままエディットを呼んだ。
『お母様!!』
レティシアはエディットの方に走り出した。
心から安心したい、ダニエルの言葉が偽りだと確証がほしい。
そんな気持ちが、彼女の足を動かす。
彼女はエディットが駆け寄るの見て、気持ちが込み上げるのを感じる。
鼻が痛くなるのを感じ、視界がぼやけた。
レティシアはエディットが床に膝をついて、眉を下げて苦しそうな顔をしていることに気が付く。
「レティ、あぁ……ひどいわ。まだ赤くなっているわ……レティ……ごめんなさい……! 私がルカを呼び出したから……本当にごめんなさい……レティ」
『お母様は、何も悪くないですよ? 全てはダニエルが悪いんです』
「でもっ」
レティシアは嬉しさと不安な気持ちを隠すように、できるだけ冷静に耳に残る言葉を伝える。
エディットとの関係性を考えた時、それが良いことなのか悪いことなのか、彼女には分からない。
それでも、伝えなければ前に進むことはできないと、彼女は思う。
『お母様、あの人が言ってました。お母様が離婚して、再婚する気でいると……先日……家を留守にしていた時、帝都で浮気相手と私のことが邪魔だと、話していたって……』
エディットはレティシアの言葉を聞いて、顔を赤く染めて眉間に深いシワを寄せた。
ダニエルが暴力をふるっただけではなく、レティシアの心まで傷付けていたこと。
そのことを、エディットは許せないと強く思う。
しかし、エディットが男性と会っていたことは事実。
エディットは話せることは、話すべきだと覚悟を決めて、レティシアを真っすぐ見つめる。
たとえそれでレティシアが傷付こうとも、嘘を並べるよりいいと彼女は思ったからだ。
「そんなことなんてしないわ!! 相手が誰だったとか、細かいことは言えないけど、浮気なんてしないわ! レティを捨てるなんて、絶対にありえない! 仮に養子に出すなら、その時は私に何かあった時で、レティの御祖父様と御祖母様にお願いするわ!」
エディットがハッキリと言い切ったことで、レティシアの頬にツーっと涙が姿を見せた。
1度流れ出した涙は、頬を伝って零れ落ちる。
『そうですかっ……良かったっ……良かったっ……』
「レティ……私はレティのことを、1番に愛しているわ……これは本当よ?」
エディットはレティシアの頬に触れ、優しくなでながら言った。
そして、泣いてしまったレティシアを見て、泣きそうになった。
どんな事情があろうとも、レティシアを不安にさせて、傷付けたことには変わらない。
それが鉛のように、重く胸に圧し掛かる。
『はいっ……分かっています……お母様……大好きです』
レティシアは気持ちを伝えると、エディットの首に腕を回して抱き付いた。
それは、人の愛し方も分からず、人から愛されることに不慣れな彼女が、自分なりに精一杯表現する愛情の形。
「レティシア、私もよ」
エディットはレティシアのことを抱きしめ返して、そう言った。
その声はとても温かく、母としての優しさがあった。




