第三話 訃報
制服が冬服に戻った頃、真梨子の口からはっきり「好き」と言われた。
「もう電話を待たないでほしい」と言った。
「あなたが可哀想だ」と言った。
「そんな冷たい人のどこがいいの」と言った。
真梨子は泣きながら、僕に訴えた。
「陽子さんを否定するな」
自分でもぞっとするほど冷たい声が出た。
真梨子は謝ったが、僕は許さなかった。
本当は解っていた。真梨子は悪くない。
僕が怒ったのは、揺れているからだった。
それから二日の間、僕は真梨子と口をきかなかった。
昼休みになると、いつものように真梨子は僕の隣でコーヒーを飲んだ。
真梨子は何も言わなかった。
怯えた目が切なかった。
三日目の朝、佐久間に呼び出しを受けた。
「つら貸してくれ」
そう言って歩き始めた。
どうやら殴られるらしいと思った。
焼却炉の前で佐久間は立ち止まった。
「また此処か……」
佐久間は黙ったまま動かない。
「帰って良いか?」
「駄目や」
「なら早くしてくれ」
「待っとれ、今纏めとる」
仕方なく僕は待った。
一分ほどしてようやく佐久間は口を開いた。
「要するにどっちが悪いんや?」
「僕」
「お前が悪いんやな?」
「そうだ」
「ならお前が謝れ」
「うん」
「話は終わりや」
佐久間と僕は一緒に教室に戻った。
「ごめん」
真梨子に言って、席に着いた。
真梨子は何か言ったけど聞こえなかった。佐久間が振り返って、にやっと笑った。
真梨子は開き直ったように、再び陽子さんの事を知りたがるようになった。
服装の趣味や部屋の調度や化粧について特に聞きたがった。
使っていたシャンプーや鉛筆の濃さまで質問した。
僕は知っている限りの事を真梨子に話した。
陽子さんが黒しか着ない理由も教えた。
「洗濯するとき楽」
真梨子は苦笑していた。
何かが間違っているとは思っていたけど、僕は陽子さんの話がしたかった。
真梨子が陽子さんになろうとする事で、僕は彼女に優しくなれた。
僕も真梨子も、佐久間が現れる前の様に言葉少なになりがちだった。
十一月の下旬、雨の夜だった。
日付が変わる少し前くらいに、僕の部屋の電話が鳴った。
呼び出し音が一回だけ鳴って、そのまま切れた。
受話器を取り上げても、もうツーという信号音しか聞こえなかった。
陽子さんからの電話だったように思えた。信号音の向こうで、陽子さんが淋しがって泣いているように感じた。
「はい。木立です。
もしもし陽子さん、お久しぶりです。
僕、今高校生なんですよ。もうすぐ大学受験です。
勉強は結構がんばってます。絵もたまに描いてますよ。
ちょっとは上手くなったと思います。たまには見て下さいよ。
陽子さんが気にしてたけど、友達できました。
佐久間っていいます。
騒がしいから陽子さんは合わないでしょうね。でも良い奴ですよ。
真梨子っていう女の子の友達もいます。ちょっと陽子さんに似てます。
まあ、綺麗な子です。陽子さんの真似ばっかりしてます。
僕みたいですよね。僕の事、好きだって言ってます。
陽子さんが、全然構ってくれないから、僕、最近その子の事、気になってます。
真梨子も凄く良い子ですよ。でも、やっぱり、陽子さんじゃないから……。
たまには電話して下さい。僕はいつも待ってますから。
本当に待ってますから」
淋しくて泣いているのは僕の方だった。
つまりは、僕は電話を待ち続けていた。
四週間ほど過ぎて、一本の電話を受けた。
電話の相手は陽子さんと同じ名字を名乗った。
近くに来ているというので、その人と駅の中の喫茶店で会うことにした。
その人は、僕を見て驚いたようだ。
想像より僕が大分若すぎたのだろう。
或いは、僕の雰囲気が陽子さんに似ていたからか。
その人の面影も陽子さんに似ていた。
「陽子の母です」
その人は自己紹介したきり黙ってしまった。
何から話せばいいのか、迷っていたのだろう。
用件が何なのか僕には解っていた。
「陽子さんが亡くなられたのですね?」
「はい」
「最近ですか?」
「先月の二十二日です」
あの電話の翌日だった。
「自殺ですね?」
「はい」
驚きはしなかった。
ただ、陽子さんはもういないのだと思った。
「あなたに知らせるようにと、遺書というか、書き置きがありまして」
ハンドバッグから紙を取り出した。病院の薬封筒だった。
「母さん、木立和彦君に知らせてあげて下さい。お葬式の後でいいです」
裏に、僕の電話番号と、それだけが書かれていた。薬封筒の日付は一昨年の四月。陽子さんと最後に会った一月後だった。
処方された睡眠薬の使い残しを、この封筒に溜めていたのだろう。
「わざわざお知らせいただき、ありがとうございました」
僕が席を立とうとすると、その人は引き留めた。
「陽子とは、どういったお知り合いで……」
「家が近所でした。子供のころ、よく遊んでもらいました。それだけです」
その人は、まだ話をしたいようだった。
「すみません。電話を待たないといけませんので。失礼します」
つまりは、僕は電話を待ち続けた。
翌日、学校に行くのを忘れた。
部屋で陽子さんの電話を待っていたから。
真梨子から電話が掛かってきて、はじめて月曜日になっている事に気付いた。
「ちょっと、体調が悪くてね」
そう、言い訳した。猛烈に眠かった。そう言えば昨日から眠っていなかった。眠いのに目を閉じても眠れなかった。
夜遅く、母が仕事から帰ってきた。少し心配したが「ただの風邪」と嘘を付いた。
結局僕は、冬休みに入るまで学校を休み続けた。
冬休みに入ってすぐ、真梨子が訪ねてきた。
僕の顔を見て、かなり驚いていたようだった。
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「うん」
嘘だった。
「風邪、もういいの?」
「仮病だよ。知ってるだろ」
「うん」
真梨子の家に行くことになった。
真梨子を部屋に待たせて、僕は数日ぶりに髭を剃って髪を洗った。
冬の日差しはきつかった。
歩くと少し目眩がした。真梨子が腕を組んできた。気を遣っているらしい。
「クリスマス。すっぽかしてごめん」
「いいよ。電話くれたし」
憶えてなかった。この数日、記憶が混乱していた。殆ど眠っていないし食べていなかった。
途中、自販機でトマトジュースを買って飲んだ。かえって頭がふらふらしたが、少し座って休むと元気が戻ってきた。
真梨子の家に着くと、真梨子のお母さんは出掛けるところだった。
僕を見て驚いた。
「風邪、もういいの?そうとう酷かったみたいね」
「はい。もう大丈夫です」
「大切な時期なんだから、気をつけないと」
そう言ってしきりに心配した後、タクシーが来て出掛けてしまった。
二人きりになると真梨子は珈琲を淹れてくれた。
真梨子は何も訊かなかった。僕はそれが嬉しかった。
魔法のように優しい時間だった。
僕は打ちのめされていたけど、若くて健康だった。
少しの栄養と、一杯の珈琲と、真梨子の存在だけで穏やかな気持ちを取り戻せた。
「少し、眠ってもいいかな?」
自然に言葉が出た。人前で眠りたいと思ったのは初めてだった。真梨子は特別なのだと思った。真梨子は頷くとソファーの隅に寄って、僕を膝に招いた。僕は少し照れたけど、真梨子の気遣いを受け入れた。真梨子も少し照れていた。
真梨子の膝は心地よかった。おでこに真梨子がそっと掌をあてた。冷たくて気持ちよかった。
陽子さんの夢を見ていた。
夢を見ながら、それが夢であることを知っている、不思議な夢だった。
「陽子さん描いていいですか」
陽子さんはちらっと僕を見て、小さく頷くと、本を読み始めた。
僕はスケッチブックに直接透明水彩で陽子さんを描いた。我ながら巧く描けたと思った。
「出来ました。見ます?」
「見ない」
陽子さんは立ち上がって台所で珈琲を煎れた。
カップを一つ僕の前に置いて、もとの場所に座って飲み始めた。
翌日、陽子さんは僕のスケッチブックに顎をしゃくって言ったのだった。
「悪くないよ」
僕はそれからも陽子さんを描き続けた。
他には描きたいものなんてなかったから。
二冊のスケッチブックが陽子さんの横顔で満たされた。
陽子さんは僕のスケッチブックをぱらぱらとめくって眺めていた。「これ貰う」二冊目の最後のページを破り取って、ファイルブックに放り込んだ。陽子さんはまた本を読み始めた。
パネルの貼り方を教えてくれたのもその頃だった。
昔使っていたイーゼルを僕の為に組み立ててくれた。
陽子さんの居間に二台のイーゼルが並んだ。
僕は陽子さんの膝で眠っていた。
「ああ、これは嘘だ」と思った。
僕が陽子さんに触れたのは五年前、陽子さんから「もう来ないで」と言われた日の一度きりだった。
目を開けると真梨子が僕を覗き込んでいた。
「起きた?」
「うん」
真梨子は心配そうな顔をしていた。
「悪い夢?」
「何で?」
「泣いてたから」
「良い夢だったよ。懐かしくて、優しくて、良い夢だった」
「そう、良かった」
「良い夢だったよ。ありがとう」
それからしばらく僕らは見つめ合った。
部屋の中はもう薄暗くなって、窓からは夕の陽光が差し込んでいた。
灯りをつけないままで僕と真梨子は二杯目の珈琲を飲んだ。
「連絡を貰ったんだ」
「そう。やっと、お話できたんだね」
僕は黙って首を振った。真梨子は僕が続きを話すのを待っていた。
「もう、待たなくていいよ。って意味だと思う」
「そう」
真梨子はうつむいた。目に涙が浮かんでいた。
彼女が珈琲を飲み終えるのを待って、僕は立ち上がった。
「ごちそうさま、それじゃ」
帰ろうとした僕の背中に真梨子が抱きついた。
「今日ね、お母さん遅いの」
「うん」
「だから……」
僕を振り向かせると、目を閉じてキスを求めた。
真梨子の頬に涙の流れた跡があった。
真梨子が愛おしいと思った。このまま彼女を受け入れてしまえば、陽子さんを忘れられると思った。
そう思った時、僕は真梨子を振りほどいていた。
「ごめん」
魔法の時間は終わってしまった。
「電話を待たないといけないんだ」
真梨子の嗚咽する声がいつまでも続いていた。胸が痛んだ。
つまりは、僕は電話を待ち続けていた。




