第七話 別れ
「今日は晴れる」
トムが言った。
外は晴れていた。
「珍しいな」
「俺を誰だと思ってる」
トムはそう言って、小さく咳をした。
*
咳は、しばらく治らなかった。
「風邪だ」
トムは変わらず樽を運び、変わらず客とくだらない話をした。メアリーも、最初はそれ以上気にしなかった。
数週間が経った。
咳は良くならなかった。むしろ、体を動かすたびに苦しそうな音が混じるようになった。
トムが樽を持てなくなった。
トムが店に出なくなった。
やがて、トムの声はベッドの奥からしか聞こえなくなった。
それでも、朝になると奥から声がした。
「今日は、晴れる」
窓の外を見なくても、メアリーは「そうか」と答えた。
*
最後の会話は、何気ないものだった。
「明日のパン、残ってるか」
「ある」
「よかった」
それだけだった。人生を語る言葉も、別れを告げる言葉もなかった。トムは最後までトムだった。
翌朝、メアリーは目を覚ました。
隣が、いつもより静かだった。
呼んだ。
返事がなかった。
*
葬儀のあと、生活が壊れていった。
帳簿の付け方も、仕入れの相場も、借金の返し方も、メアリーは半分しか知らなかった。トムが頭の中でやっていたことだった。
常連客は最初、助けてくれた。荷を運んでくれる者、代わりに仕入れに行ってくれる者もいた。だが彼らにも、自分の生活があった。
一人、また一人と、来なくなった。
ある朝、メアリーはいつものようにパンを焼いた。店に並べた。
誰も来なかった。
天気を言う者もいなかった。静かな店に、焼きたてのパンの匂いだけが残っていた。
*
その晩、メアリーは店を閉めることを決めた。
椅子を一脚ずつ、卓の上に上げていった。
いつも店を閉めるときと、同じ動作だった。
けれど今度は、一人だった。
最後の椅子を上げ、ランプを消した。
もう、明日の仕入れを考える必要はなかった。
第七話 完




