第六話 宿屋
除隊のときに受け取った金を合わせて、二人は古い宿屋を買った。兵隊相手の、食堂を兼ねた店だった。
朝は、パンを焼く匂いで始まった。
メアリーが生地をこねる。トムが樽を転がしながら、聞かれてもいないのに今日の天気を予想する。当たったためしがなかった。
「今日は晴れる」
外は曇っていた。
「昨日も同じこと言ったな」
「昨日は当たった」
「当たってない」
こんな会話が、毎朝のように交わされた。誰の得にもならない会話だった。ただ、それが続くことに、メアリーは安心していた。
*
店を開けると、常連が来た。
漁師、荷馬車の御者、近所の女房たち。誰もがトムのくだらない話に付き合い、笑い、酒を飲み、また出ていった。メアリーは皿を洗い、パンを切り、注文を運んだ。
体を動かす仕事だった。かつての仕事とは違い、誰にも殴られなかった。それだけで十分だった。
*
ある日、酒樽が届いた。
重いものだった。運び手が足りず、メアリーが担ごうとすると、客の一人が笑いながら言った。
「女がそんなもの持つな。危ないぞ」
メアリーは一瞬、手を止めた。
昔なら持てた。兵士だったころは、これよりずっと重いものを担いでいた。だが今は女の服を着ていた。世間はその服しか見ない。
そこへトムが割って入り、樽の反対側を持ち上げながら言った。
「いいから持たせとけ。こいつ、俺より力あるぞ」
客が笑った。冗談だと思ったらしい。
メアリーはトムを軽く睨んだ。トムは涼しい顔で樽を運んでいった。
世の中は何も変わっていなかった。女は非力だと思われたままだった。変わったのは、メアリーの隣に、それを笑い飛ばす男がいることだけだった。
*
夜、店を閉める。
椅子を卓の上に上げ、床を掃く。トムがランプの芯を整えながら、思い出したように言った。
「明日、酒を仕入れないとな」
「この前も言ってた」
「忘れてた」
「知ってる」
トムがランプを消した。
暗くなった店の中で、メアリーはしばらく立っていた。
明日も店を開ける。明日も客が来る。明日もトムがくだらないことを言う。
――それを、疑わなくなっている自分に気づいた。
かつては、明日飯が食えるかどうかだけを考えて生きてきた。今は、明日が来ることそのものを、当たり前だと思っていた。
そのことに気づいて、メアリーは少し怖くなった。
第六話 完




