飢えと狂気
フェンディアナ軍はアゲノー伯領を西に進んでいる。
それは事実であるが、正確ではない。
フェンディアナ軍は西に追い立てられていた。
携行していた食料が尽きて丸二日。水は渡河時に入手したが、これも尽きかけている。
行軍速度は著しく低下した。
だが、東から迫るエルゲント軍のために、行軍速度をこれ以上落とすことはできない。
アゲノー伯領から出たいのだが、南北から迫っていたエルゲント軍が併走するように西進しているため、北にも南にも行けない。
フェンディアナ軍は、三回目の小休止を取った。
「アゲノー伯は一体何がしたいのだ!」
しばらくおとなしかったラ・ジョーム伯の憤懣が、ついに爆発した。
「我らが自滅するのを待っているのだろう。略奪を働いて聖女軍の名に自ら泥を塗り、存在意義を喪失するか、餓死するか。兵を損なう戦闘は、最後の手段なのだ」
やつれたダルボーズが嘆息した。
フェンディアナ軍は、遅々として進まない。にもかかわらず追い付かれない理由は明白だ。
フェンディアナ軍が自滅するのを待っているのだ。
「それにしても……飢えるとは、こういうことか」
「何もやる気が起こらぬ」
フォリンとアーデランも、倦怠感にうなだれている。
「農民たちは元気そうだな……」
ダルボーズが振り向いた先で、シュリエとシャルールが楽しそうに笑い合っている。
「え? 別に元気じゃないですよ」
「農民とはいえ、飢えは苦しいものです」
「そうなのか? 聖女殿もシャルールもいつもと変わらないように見えるが」
「二、三日何も食べられない、なんてよくあることです」
この話題になると、領主たちは口をつぐむしかない。
「それよりも、善後策を考えるべきと存ずる」
アーデランが話題を変えた。
「まず、このまま西進していて事態が打開するのか」
「いずれはアゲノー伯領を抜けるだろうが……」
「その西側は?」
「エベルー伯領。アゲノー伯の領地の一つだな……」
「どうにもならぬではないか!」
ラ・ジョーム伯が叫ぶ。だが、叫んでもどうにもならない。
「北に向かいましょう。北です。後はフェンディアナが導いてくれます」
突然、シュリエが口を開いた。
「北にも敵軍がいるのだぞ!」とラ・ジョーム伯が叫ぶ。
「北に行けば、勝てます。東と南はダメです」
「根拠はあるのか? 聖女殿」
ダルボーズが険しい表情で尋ねる。
シュリエは、少し困った顔になった。
「根拠はありません。ただ、北に向かえば道が開けるような気がするのです」
「気がする、だけではな……」
フォリンが肩を落とした。
「……いや、このままでは滅ぶのみ。我らはフェンディアナの導きによって王都に向かっているのではないか。飢えているとはいえ、まだ戦える。これ以上飢えたら戦う気力も失ってしまう」
ダルボーズは、シュリエの顔を見つめながら積極策を支持した。この一言で、皆の腹は決まった。
小休止を終えると、北に伸びている街道を一気に北上した。
「神は乗り越えられない試練を与えません。北にいる敵軍は必ず打ち破れます。フェンディアナがそれを望んでいるからです!」
シュリエの激励が全軍に最後の活力を与えた。「この一戦さえ乗り切れば危機を脱する」という希望もあった。
北を押さえていた敵軍は慌てた。飢えかけたフェンディアナ軍が積極的に交戦を仕掛けてくると思っていなかったのである。
それどころか、フェンディアナ軍は狂ったように攻めかかってくる。陣形も何もない。ただ、北に突き抜けようとしている。
エルゲント軍の指揮官は、「陣形を固めて防戦に努めよ」と命じた。南と東を押さえている部隊も交戦にいずれ気付く。他の部隊が戦場に到着するまでいなしていれば、挟撃できる。
「狂信者どもめ、愚かなことだ」
そう言って笑ったエルゲント軍の指揮官の表情は、四百ほど数を数えた頃にはこわばることになる。
背後に突然軍勢が出現し、攻撃を受けたのである。
エルゲント軍北部隊は粉砕され、フェンディアナ軍はアゲノー伯領から脱出することに成功した。
次回から新章「君主たち」です。
いよいよ王侯の動向が物語に関わってきます。
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