帰郷
八月の瀬戸内は、世界が息を止めたみたいに静かだった。
海は凪ぎ、空は薄い硝子を伏せたように青い。フェリーの汽笛だけが、遠く、眠りかけた町を揺らしていた。
祖母が死んだと、母から電話があったのは、その朝だった。
東京駅のホームでそれを聞いた僕は、しばらく何も言えなかった。
通勤客の波が肩を押し、発車ベルが鳴り、アナウンスが響く。なのに耳の奥では、別の音がしていた。
潮騒だ。
幼いころ、夏休みになるたび聞いていた、あの瀬戸内の波の音。
——帰っておいで、遼。
祖母の声が聞こえた気がした。
その日の午後、僕は新幹線に飛び乗った。
窓の外を流れる街並みが、次第に低く、古く、穏やかな色へ変わっていく。岡山で在来線へ乗り換え、さらにローカル線に揺られるころには、車両には僕のほか三人しかいなかった。
向かいに座った老人が、窓の向こうの海を見ながら言った。
「今日は凪ぎじゃのう」
僕は曖昧に笑った。
瀬戸内では、風が止み、海面が鏡のように静まることを「凪ぎ」という。
子どものころ、祖母がよく言っていた。
——凪ぎの日はな、海が昔を映すんよ。
その意味を、僕はいまだに知らない。
列車は、二両編成だった。
古びた車体がレールの継ぎ目を拾うたび、ガタン、ゴトンと低く鳴る。その音さえ、どこか懐かしかった。
窓の外には、青い海と小さな島々が浮かんでいる。
瀬戸内の海は、太平洋みたいに荒々しくない。
島が波を遮るせいで、海そのものが大きな湖みたいに穏やかだ。
だからこそ、この町の人間は、海を恐れながらも愛していた。
僕の故郷――汐浦町も、その一つだった。
人口一万にも満たない、小さな港町。
かつては造船で栄えたが、今では工場も縮小され、若者はみんな都会へ出ていく。
僕もその一人だった。
十八で町を出て、東京の出版社へ就職した。
最初は夢だった。
本に囲まれ、物語を作る仕事。
けれど現実は、締切と数字と謝罪の毎日だった。
売れない作家を切り、炎上した作品の対応に追われ、気づけば自分が何を好きだったのかも分からなくなっていた。
半年前、担当していた新人作家がSNSで炎上した。
対応を誤った責任を押しつけられ、部署を外され、今は実質的な窓際だ。
母は電話で、「少し休んで帰っておいで」と言った。
けれど、本当は違う。
祖母の葬式に、長男の僕が顔を出さないわけにはいかなかっただけだ。
夕方、列車は汐浦駅へ滑り込んだ。
無人駅だった。
昔は駅員がいて、売店があって、観光客もそこそこいた。けれど今は、自動改札すらない。
ホームに降りると、むっとする熱気と潮の匂いが身体を包んだ。
僕は思わず足を止めた。
懐かしい、というより。
忘れていた匂いだった。
駅前ロータリーには、錆びたタクシー乗り場の看板だけが立っている。商店街へ続くアーケードは半分以上シャッターが閉まっていた。
祖母によく連れられた魚屋も、文房具屋も、駄菓子屋もない。
代わりに、空き店舗募集の紙が風に揺れていた。
「ほんま寂しゅうなったなあ……」
声をかけられて振り返る。
自転車を押した小柄な老婆が立っていた。
「あれ、遼ちゃん?」
「あ……」
見覚えがある。
たしか、祖母の近所に住んでいた――
「和江さん?」
「まあ! 大きゅうなって!」
いや、四歳児じゃないんだから。
そう思ったが、口には出さなかった。
和江さんは目を細めた。
「おばあちゃん、待っとったんよ。遼ちゃん帰ってくるんを」
胸の奥が、少し痛んだ。
僕は祖母に、ほとんど連絡をしていなかった。
正月も帰らず、電話も数分で切っていた。
仕事が忙しい。
それは本当だった。
でも、帰りたくなかったのも本当だ。
故郷へ戻るたび、自分が「何者にもなれなかった」と思い知らされる気がしていた。
「家、まだそのままじゃけえ。気ぃつけて帰りんさい」
和江さんはそれだけ言うと、自転車を押して去っていった。
僕は小さく頭を下げ、坂道を歩き始めた。
海の見える町だった。
坂の途中からは、港が見渡せる。
オレンジ色のクレーン。
小さな漁船。
島影。
夕陽を反射する水面。
その景色だけは、昔と変わらない。
祖母の家は、坂の上にある古い日本家屋だった。
門を開けると、庭の向日葵が頭を垂れている。
玄関の引き戸を開けた瞬間、線香の匂いが鼻をついた。
「遼」
居間から母が顔を出した。
数年ぶりに会った母は、少し小さくなった気がした。
「お疲れ。ご飯、食べる?」
「……うん」
それだけの会話。
親子なのに、妙によそよそしい。
居間には祖母の遺影が置かれていた。
写真の中の祖母は、いつものように笑っている。
僕は遺影を見つめた。
最後に会ったのは、三年前だった。
そのとき祖母は、妙なことを言った。
——遼。もし夜の駅で列車を見ても、乗ったらいけんよ。
子ども扱いするみたいな口調だった。
僕は笑って流した。
でも祖母は、真剣な顔をしていた。
——約束して。
あのとき、どう答えたっけ。
思い出せない。
通夜は翌日だった。
その夜、僕は祖母の部屋を片づけることになった。
畳の匂い。
古い箪笥。
色褪せた扇風機。
部屋には、時間そのものが積もっているようだった。
整理していると、引き出しの奥から小さな缶箱が出てきた。
中には古い切符が何枚も入っていた。
硬券だった。
今ではほとんど見ない、厚紙の切符。
日付は昭和三十九年。
行き先には、近隣の駅名が並んでいる。
その中に、一枚だけ違う切符があった。
黒ずんだ切符には、かすれた文字でこう印字されていた。
『潮待駅』
僕は眉をひそめた。
そんな駅、この町には存在しない。
少なくとも、今は。
裏返すと、小さな字が書かれていた。
——満月の夜、最終列車にて。
その瞬間。
カタン。
どこかで音がした。
僕は顔を上げる。
家の外だった。
風もないのに、庭の風鈴が鳴っている。
チリン。
チリン。
そして遠くから、列車の警笛が聞こえた。
夜の十時を過ぎている。
汐浦線に、こんな時間の列車はない。
僕は窓へ近づいた。
坂の下。
町の向こう。
海沿いを走る線路の先に、ぼんやり灯りが見えた。
暗闇の中を、列車が走っている。
古い、銀色の車体だった。
ありえない。
もう運行していない旧型車両だ。
なのに確かに、こちらへ向かってきている。
警笛が鳴る。
低く、長く。
その音を聞いた瞬間。
忘れていた記憶が、胸の奥で揺れた。
幼い夏の日。
祖母に手を引かれて、夜の駅へ行った記憶。
誰もいないホーム。
潮の匂い。
暗闇の海。
そして――
行き先表示に浮かぶ、知らない駅名。
『潮待駅』。
列車の灯りが、ゆっくり町を照らした。




