第1話:『間違わない。』(8)
――ああ、もう。なに立ち止まってんだよわたしっ!
アサヒは、自分の胸に灯る火が、いまや耐えがたいほどの熱になって焼けそうだと感じた。
だから、履き慣れた靴の爪先で、ごく当たり前に地面を蹴っていた。
彼女を抱きしめた。
この世のありとあらゆる悲しみから遠ざけるように、強く、慈しむように抱きすくめた。
小さな彼女のために膝を折り、背に手を回して。
頬を寄せ、撫でるように頭を支えて。
「――……なに……………………そんな、だめっ――――!!」
耳元に彼女の短い悲鳴が聞こえて、恐怖で身を強ばらせたのがわかった。
「なにを考えているの!! いや……触れないで……ちょっと――離しなさいっ」
抵抗があったが、それはひどく弱々しいもので、徐々に力が抜けていく。
突き飛ばすことすら、こちらを傷つける行為なのだと彼女は恐れていたのだ。
「やめて……はな、れて…………あなたまで、塩に――」
美しくも冷たく見えた彼女は、けれどもとても暖かかった。
肉と骨の感触がする。ちょっとべと付いている。やわらかくて血が通っている。自分みたいにどきどきしている。
だから互いの心臓の音が重なるほど強く触れあった。
湿った吐息が耳たぶをくすぐってきた。頬越しに暖かい涙が伝った。血潮の通わない肌に見えるって? そんなの気のせいよと笑い飛ばしてくれたみたいだった。
支える手のひらを通じて、彼女の頭が熱を帯びているのを感じとる。
うれし涙だったらいいのにな。
すると自分の視界がぐにゃりと歪んで見えて、思わずもらい泣きしてしまったなとアサヒは笑ってしまった。
いつの間にか右眼がよく見えなくなっていて、こぼれ落ちていたこれは涙ではなく、眼窩から流れ出る塩の結晶だと気付いた。
眼球だったものが床で砕け散った途端、右腕が崩れて彼女をうまく抱きしめられなくなってしまった。
「いや…………いやだ、いやだ、いやだ、いやだこんなのもういやだっ――――――」
あるじをなくしたブレザーの袖が、ぷらんと垂れ下がる。
その次に塩と化したのは左脚だった。
彼女を抱きすくめるため膝折っていた。
だから片脚だけでは自分を支えきれず、ついには彼女を押しつぶす姿勢になってしまって。
むぎゅ――と、愛らしい悲鳴が聞こえて、今や無敵なアサヒはなんだか優しい気持ちで胸いっぱいだった。
「あはは…………でかくてごめんね。重いよね」
「むぐぐ――……あ、あなたばかなの? どうしてこんなまね。
ミナはあなたなんて知らないのに!
誰なのよあなた。
どこからあらわれたの。
さいしょから塩になるってわかっていて、いったいミナと何をどうしたかったの」
そいつはもっともすぎる疑問だなと、彼女を胸に抱いたまま考えてこんでしまう。
こうなることが怖くなかったと言えば嘘になる。
結局、何も考えがまとまらないまま突っ走っての行動だった。
それでも、ちゃんとこうしてあげたかったのだ。
伝承の〈聖女〉は、天使の特別な肉体を贄にして、地下深いこの〈迷宮〉に降臨したという。
なのにこの子は、命を自ら捨ててまでこの〈迷宮〉にアサヒを呼び寄せた。
まだ見ぬアサヒに「助けて」と求めたのだ。
そんなにも強い願いが何なのかを聞いてあげたかったし、ちゃんと応えてみせたかった。
それに、この子はさっきだって、見知らぬ自分を暴漢から守るために、泣きたくなるほどの痛みを乗り越えようとしてくれた。
そうだ、この子は自分が誰かを塩に変えてしまう能力を武器にするどころか、呪いと受け止めているのだ。
この子は誰にも触れられない。誰かに触れられることもない。
そして、〈聖女〉召喚と同時に死ぬ運命を最初から決められていた。
ならばこの子には生き延びてもらって、こうして抱きしめてあげる以上にしてあげられることなんてないと、アサヒは胸を張って言いたかった。
「ねえ、気分はどう?」
「………………どうって……こわいわ。怖くないわけない……でも……」
「でも?」
「……なんだか柔らかくて、あたたかい。こんな感触だなんてびっくりだわ」
「うん。わたしもだよ、ミナ」
頬のすぐ傍で、ミナの睫毛がひときわ大きく瞬いたのを感じた。
「だからっ! そんなあたたかい命だから、ぜったいに触れたくないってミナはっ――!」
取り留めなく溢れ出る感情に任せて、彼女は泣き叫ぶ。
アサヒに言い聞かせるでもなく、思いを、願いを、後悔を、心残りを訴える。
「わたしはミナを恨まないよ? だってさ、わたしがこうしたかったんだもん」
「そんなの嘘。ぜったい嘘よ。
だって、塩になったヒトの子たちは全員、ミナのことを――」
「――いーえ、恨みませーん」
物語ならハッピーエンドがいい。
そして自分はミナを悲劇の結末から救うため、仕組まれた〈聖女〉たる道に抗った。
ミナと自分の物語に終着点があるのだとしたら、アサヒにはこんな形しか思い浮かばなかったのだ。
「だってさ、わたしはもうとっくに死んじゃった人間なんだよ。
なのにミナがわたしをさ、こうして生き返らせてくれた。
命をかけて『助けて』ってお願いして、わたしをここまで連れてきてくれた。
すっごく怖かったよね……わたし、ミナのあんな惨い姿なんて見たくなかったんだ」
「…………だってミナは……怖くなって逃げだしてきたの……。
ミナのこの体は、ヒトが願いを叶えるための生贄だと知ってしまったから。
あいつらの思い通りになってやるもんか!
――そうよ、誰でもいい。誰でもいいから、ミナをそんな因果から解きはなってほしかった。
でも、たったひとつの願いが叶えば、ミナの体は壊れてしまう。
痛くて、苦しくて、死ぬのが怖かった。
あのまま体がバラバラに引き裂かれたと思ったのに…………。
……なのにもう一度目を開けたら――――――――――……すぐそばにあなたがいた」
そんなミナの告白に、アサヒの心は歓喜に打ち震えてしまった。
「そっか、やっぱりあの声はミナだったんだ。
わたしね、あのときミナが願いを叫んでくれたから、なんやかんやで奇跡が起きて、こうして出会えたんだよ。
だったらミナのつらみの1%くらいは、ハッピーで塗りかえられてたらいいなって。
とにかくさ、こうしてミナと出会えてわたし、すっごくうれしい。
……お願い、ちゃんと答えられたかなあ?」
けれどもミナは嗚咽――いや、もはや幼い子どもみたいに、アサヒの胸で泣きじゃくってしまって。
もうまともに会話できる状況ですらなくて。
このまま潰えそうな意識にまどろみながら、アサヒはふとこう思ってしまう。
――よかった。これでちゃんとハッピーエンドだ。
ざまあみろアイツめ。わたしがこの手につかみ取ってやった。
「わたし、ミナにはこれから幸せになってほしいんだ。
うんと幸せになりな? わたしのぜんぶをあげるから。
わたしがさ……ミナのつらい記憶を塗り替えるくらい、幸せな記憶になってあげるから……だから……――」
ヘアピンみたいなアクセで前髪を留めた、デコだしヘアスタイルなミナが愛らしい。
だからお別れの挨拶とばかりに、その小さな額にそっと口付けて。
彼女が身じろぎしたのを感じて、ちょっと大胆すぎたかもなと、アサヒは後悔しなくもなかったけれど。
どのみちここまでだった。
アサヒはこのまま塩の結晶になって大地に散らばり、儚くなくもなかった人生が、ようやく終着点にたどり着いたのである。
……………………。
ん?
あれ?
なんかこれ、ほんとにハッピーエンドか??
なんかイイ感じ風のムードにまんまと引きずられちゃってない?
これさ、ミナ視点だと完全にビターエンドっぽくね?
まあいっか。
どうせ消滅してしまうならと、白くて柔らかい髪に鼻をうずめ、すん――とミナのつむじを嗅いでしまった。
それが痛恨のミス。
転じて怪我の功名になったのかもしんないけれど。
「――わわっ、くっさ! あんた、ちゃんとお風呂入ったほうがいいよっ」
ミナの髪の毛からしばらく洗ってない猫みたいな異臭がしたせいで、成仏しかけた意識も秒で舞い戻ってしまい、わたしってばあまりにクソデカい声でそんなことを訴えちゃったわけ。




