第1話:『間違わない。』(7)
朽ちた教会の大拝廊に、ようやく本来の静寂が訪れていた。
いや、正確には音が存在しないわけではない。
たとえば劣化した支柱が重みに耐えかねて軋むたび、天井から剥げ落ちた石粉が砂時計のように降り積もる音。
たとえば開け放たれた正面大扉から流れこむ外気を受け、草花がさわさわと鳴る葉擦れの音。
そして、まるで〈迷宮〉そのものが鳴動しているかのような、こぉ――という低い唸り声のような共鳴音。
それら環境音に掻き消されそうなすすり泣きを、アサヒは絶対に聞き逃すことはなかった。
朦朧としたまま左手を軸に、辛うじて上体を起こす。
矢毒の痺れがようやく治まってきたけれど、そのせいで右肩や拳の痛みを思い出してしまった。
けれども、歯を食いしばってでも立ち上がらねばという不屈の火が胸の奥底に灯っていた。
この仄暗い場所で、濃密な闇を退けるほどまばゆい存在が視界に入っていた。
大拝廊と礼拝堂とをつなぐ階段に腰かけていたのは、あの白い天使だ。
小さな手のひらで顔を覆い、項垂れるようにして。
高窓のステンドグラス越しに彼女を照らすあの光は、果たして月明かりか何かなのだろうか。
地の底にあるのだというこの世界に、月なんてあるはずがないのに。
この美しくも過酷な世界で、たったふたりぼっち。
傍らで、白い結晶が山を形づくっている。自分を襲った暴漢のなれの果て。
はだけたブラウスをきゅっと抑え付けて手の震えを止めると、アサヒは自分の足で立てるかどうかすら考えず、よろめきながら天使へと近づいていった。
「――……まだいてくれて驚いちゃった。わたしのこと、守ってくれてるんだ」
勝手な決めつけかもしれなかった。
けれど、まだアサヒのそばを離れないでいてくれたのは、ほかに行き場がなかったからだけでないと期待してしまったのだ。
顔を覆ってすすり泣く天使は、神秘的な見てくれに反して、ただの小さくて臆病な女の子でしかなかった。
悲しむ理由なんてアサヒにはわからない。彼女をほんの少ししか知らないから。
でも、泣きたくなる現実ならなんとなくわかってしまう。
「わたしのこと助けに戻ってきてくれたんだよね。ありがとう。すっごく勇気を出してくれて」
でもどうしてきみがわたしを助けてくれたの、なんて聞かない。理由よりこの結末が嬉しかったから。
自分を拒絶して逃げた女の子が、自分を守るために戻ってきて、ああして戦ってくれたのが何よりも嬉しかった。
それでもアサヒを守るために、この子は他人の命を奪った。
きっと自分目線の倫理観を持ち出すべきではないのだろう。
それどころか勇気などというヒト都合の情緒がこの天使にあるのかすらわからない。
けれども涙して打ちひしがれる女の子を前にして、ヒトかどうかなんて関係あるものか。
ところがかける言葉にためらっていると、顔を上げた天使が突然こんなことを口にしだして。
「――……犬使いのファッジ。ミナを狙う探索隊の戦闘奴隷で、いちばんの兄貴分。
小さいころ、弟を守るために親殺しをしてしまった。
奴隷に身をやつしたのは、助けたその弟に裏切られたせい。
だから大の人間嫌いになった。生き抜くために誰も信じない。
それでもあの犬にだけは心を開いていた」
まるで絵本でも読み聞かせるかのように彼女が口ずさんだのは、見知らぬ物語の断片だった。
「――……弓使いのネズ。ファッジに拾われた、奴隷の奴隷。
この子は生まれながらに声を失っていた。ファッジから与えられる仕事だけが人生の全て。
奴隷として生きなければ、五人いた姉たちのように飢え死んでしまうことを恐れていた」
天使がいま自分に何を伝えんとしているのか、アサヒにはまだわからなかった。
けれどもその物語の断片が――どうやって知り得たのかはわからないけれど――塩に変えてしまったあの少年たちを指しているのは明らかで。
彼女は臆病な正義を必死に振りしぼって、その結末の苦しみに溺れそうになっている。
アサヒも知らない少年たちの事情を口ずさむたびに、少しずつ、ほんの少しずつだが、彼女の声色が嗚咽混じりのものに変わりつつあったから。
「――……ゆ、……弓使いの……レイニ。ファッ、ジに拾われた、奴隷の……奴隷――」
「――なんでもない凡人のアサヒっ! なんと前にいた世界で死んじゃったらしいですっ!!」
だから、もうこれ以上はいいのだと、思わず彼女の読み聞かせを遮ってしまっていた。
こんな暗闇の奥底なのに、場違いなほど元気よく、目一杯に明るい声を吐きだして。
そうしたら天使は、すわ何ごとかとまあるく目を見開いてしまった。
「へへ……でも天使ちゃんが強く願ってくれたから、わたし何故かここにいるのですよ?」
てへへ笑いを浮かべ、手を差し伸べる。
アサヒは本当にくすぐったい気持ちで、ようやく死んだ自分が救われた――理不尽すぎるバッドエンドに打ち勝てたのだという実感に心から浸っていた。
でも、そんなのアサヒの勝手な思い過ごしだ。
この状況でも笑顔でいられるのがさぞかし異様に見えたのだろう。
天使は近づこうとするアサヒに瓦礫を何度も投げつけてきて、
「おかしなヒトの子! ミナに触らないでと伝えたはずよ。
あなたも塩になりたいのかしら? あいつらみたいに」
そのひとつが腹部に命中して、苦痛に喘いでしまう。
手心なしで、本心からアサヒに近付くなと警告するためだと思い知らされた。
どうしていいのか戸惑ったアサヒは、彼女のすぐそばで立ちつくすしかない。
「……あなたにもわかったでしょう。ミナに触れたものたちは塩に変わってしまうの……。
ミナがしたくて塩にするわけではないの。
塩にしてしまったものたちの、消えゆく心のかけらがミナに入りこんでくる。
命の灯火が吹き消される、あの瞬間の痛みが……一瞬で入りこんでくる。
苦しい、許せない、恨めしい、痛い、もっと生きたかったのに。
――なんなの!
いやなのに……ミナに勝手に入ってこないで……。
塩になんてしたくなかったのに…………。
ミナはそんなもの触れたくなんてなかったのにっ――!」
ぐすっ――と天使は鼻を鳴らすと、みるみるうちに表情が悲哀に染まってゆく。
堪えきれなくなった嗚咽が、再びその小さな唇から漏れ出した。
アサヒはもう知っている。目の前の出来事を通じて思い知らされてしまった。
この子は自分たちと似た姿をしていながら、まったく別の生き物だ。
いや、なんなら生き物と捉えるのすら見当違いなのかもしれない。
触れたものを塩に変えてしまうという人外の種族――天使。
人の命を奪う。殺す。生物を塩に変えるという現象を、そう解釈するのは間違いかもしれないけれど。
もしかしなくても彼女が誰かと手を取りあうなんて、生まれてから一度もなかったのだろう。
たとえば愛おしい誰かと抱きしめ合って、お互いの温もりを分かち合いたいだとか。
アサヒ自身にそういう相手なんていた記憶がないけれど、いまの自分にそういう衝動があることを確信してしまう。
暗闇に沈んだこの世界ならなおのことそうだ。
触れたい。抱きしめてほしい。ねえ、もう泣かないで。抱きしめて、慰めて、安心させてあげたい。
お互いに心を許し合っている関係を実感して、深く溺れたい。ふたりの生を確かめたい。
だからこの天使は、ずっと孤独や絶望を抱えて生きてきたのかもしれなかった。
そんなありふれた情緒が、ヒトを超越したものに宿るのかなんて知らない。
いま目の前でこうして泣きじゃくる少女がすべてなのだから。
自分にとって、この子はなんなのだろうとあらためて自問自答する。
友だちになった覚えもないどころか、初めから知り合いですらなかった。
人に裁きを与えようとした天使が倒れ、その亡きがらから聖女があらわれ人を導く。
聞かされた伝承によれば、そもそも同じ時間軸に存在できるはずがないふたりなのだ。
その程度の関係性でしかない。
それでも、この子を助けたい――そう考えるのは、あの自称女神が忠告したように、お花畑な偽善者なのだろうか。
仮にアサヒがこの世界で聖女として生きるとして、人類にとって災厄に等しい天使を救うメリットなんてない気がした。
聖女なんて知ったことではないと啖呵を切ったけれど、赤の他人に自己犠牲を払えるほどの聖人だった自覚もない。
でもなんだろう、この時間は――いい加減、自問自答がばからしくなってきた。
この子は、自分にとって何だ――?
何をあげたら泣きやんで、笑顔を見せてくれるのだろうか。
――ああ、もう。なに立ち止まってんだよわたしっ!
アサヒは、自分の胸に灯る火が、いまや耐えがたいほどの熱になって焼けそうだと感じた。
だから、履き慣れた靴の爪先で、ごく当たり前に地面を蹴っていた。
彼女を抱きしめた。




