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第六章 亀裂

その日は、朝から落ち着かなかった。

理由は、分かっていた。

昨日の玲王の表情。

目を逸らされたこと。

「なんでもない」と言われたときの、あの距離。

一晩経っても、何も変わらなかった。

むしろ、余計に。

胸の奥に引っかかるものが、大きくなっていた。

教室のドアを開ける。

いつもと同じ景色。

同じはずなのに、少しだけ色が違って見える。

私は、無意識に後ろの席を見る。

玲王は、もう来ていた。

でも。

やっぱり、昨日と同じだった。

机に肘をついて、少しうつむいている。

手は動いていない。

ノートも開いていない。

ただ、そこにいるだけ。

声をかけようとして。

足が止まる。

なんて言えばいいのか、分からない。

結局、そのまま自分の席に座る。

ペンを持つ。

教科書を開く。

でも、何も頭に入ってこない。

時間だけが、ゆっくり流れていく。

しばらくして。

玲王が顔を上げる。

目が合う。

その一瞬で、全部分かる気がした。

——やっぱり、何かある。

でも。

「おはよう」

手は動いている。

でも、その形はどこか固くて。

無理に出しているみたいだった。

私は、少しだけ遅れて返す。

「おはよう」

それだけ。

それ以上、何も続かなかった。

その沈黙が、やけに重かった。

授業が始まる。

先生が黒板に文字を書く。

クラスメイトがノートを取る。

いつもと同じ光景。

でも。

私の中だけ、何かがずれている。

何度も、後ろが気になる。

ちらっと振り返る。

玲王は、やっぱり上の空で。

黒板を見る時間より、ぼんやりしている時間の方が長い。

ノートを取る手も、途中で止まる。

ペン先が、空中で止まったまま。

私はそっと、自分のノートを少しだけ後ろに寄せる。

気づいてほしくて。

でも。

気づかない。

しばらくしてから、やっと目に入ったみたいで。

小さくうなずく。

「ありがとう」

その手の動きは、小さくて。

どこか、弱かった。

胸の奥が、じわっと痛くなる。

——なんで。

どうして、言ってくれないの。

その思いが、少しずつ積もっていく。

休み時間。

今日は、待たなかった。

私は立ち上がって、玲王の席へ向かう。

玲王が顔を上げる。

少しだけ驚いた顔。

でもすぐに、視線を外す。

私は、そのまま手を動かす。

「……どうしたの?」

昨日と同じ言葉。

でも、今日は違う。

少しだけ、強く。

逃げないように。

玲王は、一瞬だけ動きを止める。

それから、首を振る。

「なんでもない」

その瞬間。

胸の奥で、何かが弾けた。

「なんでもなくないでしょ」

自分でも分かるくらい、強い動き。

玲王の目が、揺れる。

でも。

「大丈夫」

また、それだけ。

それが、余計に。

私を追い詰める。

「……私には言えないの?」

震える手。

止めようとしても、止まらない。

玲王は、黙る。

何も返さない。

その沈黙が。

一番、つらかった。

「なんで?」

もう一度。

「なんで、言ってくれないの?」

周りの視線を感じる。

ざわざわしているのが分かる。

でも、もう気にしていられなかった。

玲王が、ゆっくりと手を動かす。

「……言う必要ない」

その言葉が、突き刺さる。

息が詰まる。

頭が、真っ白になる。

「なにそれ」

自分でも、声が震えているのが分かる。

「私、頼りにならない?」

玲王の眉が、わずかに動く。

でも、何も言わない。

その“何も言わない”が。

一番、苦しかった。

「……いつも、助けてくれるくせに」

手が震える。

視界が、少し揺れる。

「なんで、こういうときだけ、何も言わないの?」

言葉が止まらない。

本当は、こんなこと言いたくないのに。

止められない。

「私だって——」

息が詰まる。

でも。

そのまま、続けてしまう。

「私だって、つらいのに」

その瞬間。

空気が、変わる。

玲王の表情が、はっきりと変わる。

初めて見る顔。

怒り。

「……凛」

ゆっくりとした手話。

でも、その動きは強い。

「それ、今言うこと?」

胸が、ぎゅっと締めつけられる。

でも。

もう止まれない。

「だって、ほんとじゃん」

苦しくて。

ぐちゃぐちゃで。

何を言ってるのか、自分でも分からないのに。

「玲王はいいよね」

その一言で。

空気が、凍る。

自分でも、分かる。

言っちゃいけないこと。

でも。

止められない。

「片耳でも聞こえるんだから」

——あ。

言ってしまった。

そう思ったころにはもう遅い。

玲王の目が、大きく揺れる。

次の瞬間。

はっきりとした怒りが、浮かぶ。

「……は?」

短くて、鋭い動き。

空気が、張り詰める。

私は、息を飲む。

でも。

まだ、引き返せない。

「だって、そうでしょ」

震える手で、続ける。

「私、全部聞こえないんだよ?」

「少しでも聞こえるなら——」

そのとき。

玲王の手が、大きく動く。

強く。

はっきりと。

止めるように。

「もういい」

その手話は。

今まで見たことないくらい、強くて。

冷たかった。

心臓が、大きく跳ねる。

「……玲王」

名前を呼ぶ。

でも。

玲王は、もう見ていなかった。

「もういいよ」

もう一度。

それだけ言って。

鞄を掴む。

椅子の音が、大きく響く。

そのまま、教室を出ていく。

早い足取り。

振り返らない。

私は、その場に立ち尽くす。

追いかけなきゃ。

分かってるのに。

体が、動かない。

さっきの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

——片耳でも聞こえるんだから

胸が、痛い。

息が、うまくできない。

視界が、にじむ。

周りの視線が刺さる。

でも、それよりも。

玲王の、最後の表情が。

離れない。

怒っていた。

傷ついていた。

そして——

どこか、悲しそうだった。

私は、その場に座り込む。

手が、震えている。

——なんで。

どうして。

あんなこと、言ったの。

分かってたはずなのに。

一番、言っちゃいけないこと。

なのに。

止められなかった。

後悔が、一気に押し寄せる。

でも。

もう遅い。

教室の空気が、やけに遠い。

私は、ただ。

動けないまま。

そこにいた。

——終わった。

そんな気がした。


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