第五章 違和感
放課後。
教室に残る人も少なくなって、静かな時間が流れていた。
窓から差し込む光が、少しだけやわらかい。
私はノートをしまいながら、ふと手を止める。
——なんでだろう。
ずっと、引っかかっていた。
玲王が、こんなに優しい理由。
気づけば、視線は玲王に向いていた。
少し離れた席で、荷物をまとめている。
少し迷ってから、立ち上がる。
ゆっくりと、玲王の方へ歩いていく。
玲王が気づいて、顔を上げる。
「どうした?」
私は、少しだけためらってから、手を動かす。
「……なんで」
一度止まる。
ちゃんと伝えたくて、もう一度。
「なんで、そんなに優しくしてくれるの?」
聞いた瞬間、少しだけ怖くなる。
玲王は、一瞬だけ動きを止めた。
ほんのわずかに。
表情が揺れる。
それはすぐに消えたけど、確かにあった。
少しだけ、悲しそうな顔。
私はその意味が分からなくて、戸惑う。
玲王は、視線を少しだけ落とす。
何かを考えるみたいに。
答えを探している、というより。
“言うかどうか迷っている”ような沈黙。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
そして、手を動かした。
「……なんでだろ」
軽くごまかすような言い方。
でも、その奥に何か隠れている気がした。
「気づいたら、そうしてた」
続く言葉も、やさしいのに。
どこかだけ、少し遠い。
「放っておけなかった」
その手の動きは、いつもと同じなのに。
どうしてか、少しだけ苦しそうに見えた。
私は、うまく言葉が出てこない。
ただ、小さくうなずくことしかできない。
玲王は、少しだけ笑う。
でも、その笑顔は。
ほんの少しだけ、寂しそうだった。
「……変なこと聞いて、ごめん」
そう手話で伝えると、玲王は首を振る。
「いいよ」
短く、それだけ。
それ以上は、何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
さっきまでと同じはずなのに。
少しだけ、違う空気。
私は、その違和感の正体が分からない。
でも。
なぜか、少しだけ胸がざわついた。
——そのときの私は、まだ知らなかった。
あの一瞬の表情の意味も。
あの言葉の、本当の理由も。
何ひとつ。
次の日。
教室のドアを開けた瞬間、いつもと同じ景色が広がる。
でも、なぜか。
ほんの少しだけ、違う気がした。
私は自然と、後ろの席を見る。
玲王は、もう来ていた。
でも。
いつもみたいに、窓の外をぼんやり見ているわけでもなくて。
机に肘をついて、少しうつむいていた。
顔は見えない。
その背中に、なぜか声をかけづらくなる。
少しだけ迷ってから、自分の席に座る。
教科書を出して、ペンを持つ。
でも、意識はずっと後ろにあった。
少しして。
玲王が顔を上げる。
そのタイミングで、目が合う。
いつもなら、そこで小さく笑ってくれるのに。
今日は、ほんの少しだけ遅れて。
無理に作ったみたいな笑顔を浮かべた。
「おはよう」
手は動いている。
でも、どこかぎこちない。
私は、少しだけ間をあけてから返す。
「おはよう」
そのやりとりが、ほんの少しだけ遠く感じた。
授業中。
何度も、後ろが気になる。
ちらっと振り返る。
玲王は、ノートを見ている。
でも、手が止まっている時間が長い。
黒板を見て、ノートを見て。
また止まる。
その繰り返し。
いつもより、明らかに集中できていない。
私は、そっとノートを少しだけ後ろに寄せる。
でも。
玲王は気づかなかった。
少ししてから、ようやく気づいて。
小さくうなずく。
「ありがとう」
その手の動きも、どこか弱い。
胸の奥が、ざわつく。
——どうしたんだろう。
休み時間。
いつもなら、玲王が来る。
でも、今日は来なかった。
少しだけ待ってみる。
でも、来ない。
私は自分から振り返る。
玲王は、机に肘をついて、外を見ていた。
話しかけようとして。
やめる。
さっきの表情が、頭に残っている。
何かあったのは分かる。
でも、踏み込んでいいのか分からない。
そのまま、時間が過ぎていく。
昼休み。
今日は、一緒に食べる流れにならなかった。
玲王は、誰とも話していないわけじゃない。
でも、どこか距離がある。
私も、声をかけられなかった。
結局、ひとりでお弁当を開く。
周りはにぎやかで。
でも、その中に入れない感じが、少しだけ強くなる。
ふと、玲王の方を見る。
目が合う。
すぐに逸らされる。
胸が、少しだけ痛くなる。
——なんで?
午後の授業。
内容は、ほとんど頭に入らなかった。
気づけば、玲王のことばかり考えている。
さっきの態度。
目を逸らされたこと。
何か、したかな。
思い当たることがなくて。
余計に、不安になる。
放課後。
教室に残る。
少しだけ勇気を出して、立ち上がる。
玲王の方へ向かう。
玲王は、鞄をまとめていた。
私に気づいて、顔を上げる。
一瞬だけ、驚いたような顔。
それから、すぐにいつもの表情に戻る。
でも。
やっぱり、どこか違う。
私は、ゆっくりと手を動かす。
「……どうしたの?」
少しだけ間が空く。
玲王は、視線を外す。
それから、軽く首を振る。
「なんでもない」
短い返事。
でも、それは明らかに。
“なんでもなくない”顔だった。
私は、その場に立ち尽くす。
それ以上、何も言えない。
言ったら、壊れそうで。
玲王は、鞄を持つ。
そして、手を動かす。
「先、帰る」
それだけ。
私は、うなずくことしかできなかった。
「……また明日」
そう返すと。
玲王は、ほんの一瞬だけ止まって。
それから、うなずいた。
でも、その動きは。
どこか、弱かった。
教室を出ていく背中を見送る。
呼び止めることは、できなかった。
残された教室。
静かで。
少しだけ、冷たい。
私は、ゆっくりと席に戻る。
さっきまでの距離が。
急に、遠く感じた。
——どうして。
理由が分からないまま。
不安だけが、残る。
そのとき。
ほんの少しだけ。
嫌な予感がした。
言葉にはできないけど。
何かが、少しずつ。
ずれていくような。
そんな感覚。
私は、それを振り払うように、目を閉じた。
——大丈夫。
そう思いたかった。




