第十一章 大好き
少しの沈黙のあと。
玲王が、ゆっくりと手を動かした。
「……凛」
その動きが、少しだけ慎重だった。
私は顔を上げる。
玲王は、一瞬だけ迷うように視線を揺らす。
それから。
覚悟を決めたみたいに、こちらを見る。
「ひとつ、聞いていい?」
私は小さくうなずく。
「……小さいころ」
その言葉に、胸が少しだけざわつく。
玲王は続ける。
「公園で、誰かと会ったことない?」
一瞬、息が止まる。
頭の奥で、何かが引っかかる。
でも、はっきりしない。
私は、少し困ったように首をかしげる。
「……分からない」
正直に答える。
玲王は、小さくうなずく。
どこか、分かっていたみたいに。
それから。
ゆっくりと、手を動かした。
「俺、小さいころ」
「よく、ひとりで公園にいた」
その言葉に。
さっきよりも強く、胸がざわつく。
「そのとき」
少しだけ、手が止まる。
「泣いてる女の子がいた」
景色が、ふっと浮かぶ。
ぼんやりと。
小さな公園。
やわらかい光。
うまく言葉が出せなくて、ただ泣いている自分。
誰かが、そばに来る。
でも、まだ曖昧で。
はっきりしない。
玲王は、続ける。
「その子、話せなくて」
「でも、一生懸命で」
少しだけ、優しく笑う。
「ずっと、手を動かしてた」
その瞬間。
心臓が、大きく鳴る。
断片が、つながり始める。
「俺、何言ってるか分からなかったけど」
「なんか、ほっとけなくて」
あの日、聞いた言葉と重なる。
——放っておけなかった
胸が、強く揺れる。
玲王は、まっすぐに私を見る。
「それが、凛だった」
時間が、止まる。
呼吸が、できない。
頭の中で、何かが一気にほどける。
あのときの記憶。
小さな手。
誰かのぬくもり。
そっと触れてくれた感覚。
そして。
「……そのとき、言ったんだ」
玲王の手が、少しだけ震える。
でも、止まらない。
「“だいすき”って」
その瞬間。
すべてが、つながった。
胸の奥に残っていた、あの感覚。
思い出せそうで思い出せなかったもの。
それが、一気にあふれ出す。
視界が、にじむ。
涙が、こぼれる。
「……あ」
声にはならない。
でも、口がそう動く。
玲王は、少しだけ笑う。
でも、その笑顔は。
どこか、切なかった。
「あの日から」
「ずっと、会いたいと思ってた」
「また会えたとき」
少しだけ、目を伏せる。
「すぐに分かった。うれしかった。」
胸が、苦しくなる。
あのとき。
私が「なんで優しいの?」って聞いたとき。
玲王が、少し悲しそうな顔をした理由。
全部、つながる。
私は、何も気づいてなかった。
忘れていたのは、私だけだった。
「でも」
玲王が続ける。
「凛は、覚えてなかったから」
少しだけ、笑う。
「言えなかった」
その言葉に。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
あのときの、あの表情。
やっと、分かる。
「だから」
「また、言いたいと思ってた」
—え?
ゆっくりと。
まっすぐに。
私を見て。
手を動かす。
「……だいすき」
その言葉を。
今、もう一度。
時間が、止まる。
風の音も。
人の動きも。
何もかも、消えたみたいに。
ただ、その手の動きだけが。
はっきりと、残る。
私は、涙をこぼしながら。
何度も、うなずく。
やっと。
やっと、分かった。
ずっと、探していたもの。
忘れていたはずなのに。
ずっと、心のどこかに残っていたもの。
あのとき。
小さかった私がもらった、たったひとつの言葉。
それを。
もう一度。
今のあなたから、受け取りたかったんだ。
涙が、こぼれる。
でも、今度は苦しくなかった。
あたたかかった。
私は、震える手で。
ゆっくりと、返す。
「だいすき」
言葉にならなくても。
ちゃんと、届く。
あのときみたいに。
そして、今は。
あのときよりも、ずっと確かに。
玲王が、少しだけ笑う。
その笑顔が、近くて。
触れられる距離にあって。
もう、消えないと分かる距離にある。
風が、静かに吹く。
遠くで、飛行機が動く。
人の流れは止まらないのに。
この場所だけ、少しだけ時間がゆっくりになる。
私は、目を閉じる。
胸の奥に残る、このあたたかさを。
逃さないように。
忘れないように。
そっと、大事に抱きしめる。
——そうだ。
私は、ただ。
もう一度だけ。
あなたの「大好き」が、聞きたかったんだ。
それだけで、よかった。
それだけで。
十分だった。




