番外編 補聴器
それから、少しだけ時間が経った。
卒業式も終わって。
季節は、ゆっくりと春に近づいていた。
駅までの道。
並んで歩く足音は、私には聞こえない。
でも。
隣にいるぬくもりで、ちゃんと分かる。
玲王が、いる。
それだけで、十分だった。
「ねえ」
玲王が、私の名前を呼ぶ。
私は顔を上げる。
「ちょっと、いい?」
少しだけ真剣な顔。
私は、うなずく。
玲王は、鞄の中から小さな箱を取り出した。
手のひらに収まるくらいの、大きさ。
それを、私に差し出す。
「これ」
私は、少しだけ戸惑いながら受け取る。
ゆっくりと、開ける。
中に入っていたのは。
小さな機械。
見たことのある形。
——補聴器。
一瞬、言葉を失う。
玲王は、少しだけ不安そうに私を見る。
「無理に、とは言わない」
ゆっくりと、伝える。
「でも……もし、少しでも」
「世界が変わるなら、って思って」
その言葉は、まっすぐで。
やさしかった。
私は、補聴器を見つめる。
小さくて。
でも、重たい。
いろんな気持ちが、混ざる。
怖い気持ち。
期待する気持ち。
分からない気持ち。
全部、ぐちゃぐちゃになっている。
でも。
私は、顔を上げる。
玲王を見る。
そして、小さくうなずく。
「……つけてみる」
玲王の目が、少しだけやわらぐ。
私は、ゆっくりと補聴器を耳に当てる。
少しだけ、手が震える。
装着する。
その瞬間。
世界が、少しだけ変わった気がした。
でも。
はっきりと、何かが聞こえるわけじゃない。
ぼんやりとした感覚。
空気が、揺れるような。
そんな、不思議な感じ。
私は、少し戸惑いながら周りを見る。
玲王が、何かを言っている。
口が動いている。
でも。
やっぱり、言葉としては聞こえない。
私は、少しだけ笑う。
「……よく分かんない」
正直に伝える。
玲王も、少しだけ笑う。
「そっか」
それだけで、責めることはしない。
そのやさしさが、嬉しかった。
玲王が、ゆっくりと手を動かす。
「だいすき」
その動きを、私は見つめる。
何度も、見てきたはずの言葉。
なのに。
今日は、少しだけ違った。
補聴器をつけたまま。
私は、息を止める。
そのとき——
かすかに。
ほんの、かすかに。
何かが、触れた気がした。
音、なのかも分からないくらいの。
小さな、震え。
でも。
確かに、そこにあった。
「……だ……い……」
途切れ途切れで。
形もはっきりしない。
それでも。
——聞こえた。
私は、目を見開く。
呼吸が、止まる。
もう一度。
玲王が、口を動かす。
「だいすき」
今度は、さっきより少しだけ。
はっきりと。
揺れるように。
届く。
完璧じゃない。
でも。
確かに。
“音”として、届いた。
涙が、一気にあふれる。
止まらない。
私は震える手で、玲王の腕を掴む。
玲王が驚いた顔をする。
私は、必死に伝える。
「いま……」
うまく動かない手。
それでも。
「いま、聞こえた」
玲王の目が、大きく揺れる。
信じられない、という顔。
私は、何度もうなずく。
涙でぐちゃぐちゃになりながら。
「ちゃんとじゃないけど……」
「でも……」
言葉にならない。
でも。
どうしても、伝えたい。
「“だいすき”って」
その瞬間。
玲王の目にも、涙が浮かぶ。
私は、笑いながら泣く。
ずっと。
ずっと、願っていたこと。
叶わないかもしれないと思っていたこと。
それが、今。
ここで。
やっと。
届いた。
私は、ゆっくりと口を動かす。
ぎこちなく。
でも、確かに。
「……だいすき」
自分の声が、どうなっているかは分からない。
でも。
伝わればいい。
玲王が、強く抱きしめてくる。
壊れそうなくらい。
でも、やさしく。
私は、その中で目を閉じる。
胸の奥に、残るあたたかさ。
そして。
さっき聞こえた、あの小さな音。
それは。
昔、もらった言葉と。
今、もらった言葉が。
ひとつになったみたいだった。
——そうだ。
私は、ただ。
もう一度だけ。
あなたの「大好き」が、聞きたかったんだ。
それが。
今、やっと。
叶った。




