第07話 猫は空気を読む
「……疲れた」
玄関を開けた瞬間、思わず声が漏れた。
今日は散々だった。
朝から取引先に振り回され、上司には書類のミスを指摘される。昼飯を食べる時間もなく、残業までして帰ってきた。
時計は午後九時半を回っている。
「腹減った……」
部屋の明かりをつける。
「ただいま」
いつものようにキナコが駆け寄ってきた。
「ニャー!」
「悪い悪い、遅くなった」
急いでエサを皿へ入れる、カリカリと音が響くと、三匹は夢中で食べ始めた。
その間に、俺はコンビニで買ってきた弁当を電子レンジへ放り込む。
「三分か……」
待っている間、ソファへ腰を下ろした、そのまま動けない、本当に疲れた。
テレビをつける気にも、スマホを見る気にもなれず、ぼんやり天井を眺める。
「……会社辞めたいな」
もちろん本気じゃない。愚痴だ。
一人暮らしが長いせいか、独り言だけは増えていく。
「ニャ」
小さな鳴き声がした、アンコだった。
エサを食べ終えたらしく、静かにこちらへ歩いてくる。
「どうした?」
俺の前まで来ると、ちょこんと座って見上げてきた。
「飯ならもうないぞ」
反応はない。
「チューブも今日はなし」
それでも動かない、しばらく見つめ合っていると、アンコは立ち上がり、俺の足へ体を軽くこすりつけた。
一度だけ。
「……珍しいな」
普段は近くに来ても、ここまではしない。
何か欲しいのかと思って部屋を見回した。
水もある、エサもある。
「じゃあ、何だ?」
アンコは何も答えず、また静かにこちらを見ている。
「分からん」
その時、電子レンジが鳴った、弁当を取り出してテーブルへ運ぶ。
食べ始めると、アンコは少し離れた場所へ座った。
何かをねだるわけでもなく、ただ同じ部屋にいる。
「……変な猫だな」
食事を終え、容器を片付ける。
いつものように猫トイレを掃除し、手を洗って戻ると、アンコはまだそこにいた。
俺は床へ腰を下ろす。「少しだけな」
恐る恐る手を伸ばす、頭に指先が触れる。
逃げない。
もう一度撫でても、そのまま目を細めている。
「いいのか?」
ゴロゴロと喉を鳴らすわけでもない、甘えてくるわけでもない。
でも、嫌そうでもなかった、いかにもアンコらしい距離感だ。
「ありがとう」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
アンコは大きく欠伸をすると、くるりと向きを変え、テレビ台の前で丸くなる。
キャットタワーではチコが静かにこちらを見ていた。
キナコはソファの上で気持ちよさそうに眠っている。
誰も何も変わらない。
それなのに、部屋の空気だけが少し違って感じた。
家に帰ってきて、こんなに肩の力が抜けたのは久しぶりだった。
「いやいや……」思わず苦笑する。
疲れているだけだ、きっと、そういうことにしておこう。
照明を消し、寝室へ向かう。
その途中、「ニャ」アンコが小さく鳴いた。
「おやすみ」
自然と返事が出る、返ってくるのは静けさだけ。
それでも、その静けさは昔、一人暮らしをしていた頃とは少し違っていた。
キナコはソファで丸くなり、チコはキャットタワーの上。
アンコはテレビ台の前で尻尾をゆっくり揺らしている。
誰も何もしゃべらない。
それでも、不思議と部屋は静かすぎなかった。
「……おやすみ」もう一度そう呟く。
返事はない、それでも今日は、それで十分だった。




