第12話 チコが近い
キナコの胃腸炎から一週間。
薬も飲み終わり、食欲もすっかり戻った。いや、戻りすぎたと言うべきかもしれない。
「ニャー!」
朝五時四十五分。
「まだ十五分早いだろ」
「ニャー!」
「十五分くらい我慢しろって」
「ニャー!」……負けた。仕方なく布団から這い出る。
「お前、病み上がりとは思えないな」
キナコは満足そうに尻尾を立てると、そのまま台所へ歩いていった。元気が一番とはいえ、こうもあっさり主導権を握られると、少し悔しいものがある。
朝の支度を終えてコーヒーを飲んでいると、アンコが窓辺で外の鳥をじっと見ていた。キナコはソファの背もたれの上でうとうとしている。チコはいつも通りキャットタワーの上。よくある、いつもの朝だった。
俺は新聞代わりにスマホでニュースを読んでいた。
トン。
「ん?」
何かが床へ飛び降りる音がした。見るとチコだった。珍しい、普段なら朝はキャットタワーからあまり動かないのにチコはゆっくりと歩いてくる、俺の方へ。
「……」
なんだ。エサならもう食べさせた。水も替えたし、トイレも掃除した。用事があるはずはない。
チコはいつもの一定の距離まで来ると、そこでぺたりと座った。相変わらず一メートルくらい。
「どうした?」
もちろん返事はない。ただ、じっと座っている。
俺は新聞を読み進める。ふと顔を上げると、まだいる。
「……何?」
聞いても動かない。そのまま十分ほどが過ぎた。
コーヒーカップを流しへ持っていこうと立ち上がる。すると、チコも立った。
「え?」
一歩歩く、チコも一歩、止まる、チコも止まる。
「まさか」
キッチンへ向かう。チコも付いてくる。
「嘘だろ」
振り返ると、目が合った。
「……」
チコは何事もなかったような顔をしている。
「付いてきてる……?」
試しにリビングを一周してみる。チコも歩く。距離は相変わらず一メートル。それ以上近づいてはこないが、離れもしない。
「なんだこれ」
思わず笑ってしまった。キナコはそんな二人を見て、不思議そうに首をかしげている。アンコは面白がるように尻尾を揺らした。
「お前ら、知ってたのか?」
アンコが「ニャ」と短く鳴く。どうやら知っていたらしい。
俺はソファへ腰を下ろす。チコも、少し離れた場所に座った。
「……」
しばらく無言のまま。テレビをつける。ニュースが流れ始める。
ふと見ると、チコは画面ではなく、こちらをじっと見ていた。
「いや、見られても」
照れくさい。ものすごく照れくさい。俺はテレビへ視線を戻した。
十分後、立ち上がって洗濯物を取り込みに行く。チコも付いてくる。
「本当にどうしたんだよ」
思わず祖母に電話をかけていた。
「もしもし」
『どうしたの?』
「チコがおかしいんだ」
『えっ?』
「付いてくる」
『……』
電話の向こうで、笑いを堪えるような声が聞こえた。
「何?」
『それね』祖母は優しく笑った。『信用したんだよ』
「え?」
『本当に嫌いな人の後なんか、歩かないよ』
「でも一メートルは離れてるぞ」
『チコらしいねぇ』祖母は楽しそうに続けた。『あの子は慎重だから』
電話を切る。俺はチコを見た。相変わらず一メートル先にいる。
「そうなのか」
チコは何も答えない。でも、その目にはもう、最初の頃のような警戒心は見当たらなかった。
夕方、仕事から帰る。
「ただいま」
キナコが走ってくる。アンコが続く。そしてチコも。
「……」
今日は威嚇しなかった。ただ玄関で、静かに座っている。
「シャーは?」
聞いてみる。もちろん返事はない。
「休みか」
靴を脱いで部屋へ上がる。チコはゆっくりと立ち上がり、また一メートル後ろをついて歩いてくる。
「近いようで遠いな」
そう呟くと自然と笑みがこぼれた、急に膝へ乗ってくるわけでもない。
抱っこさせてくれるわけでもない、それでいい。
チコはチコのペースで、少しずつ距離を縮めてくれている。
その歩幅を、急がせる理由なんてどこにもなかった。




