最終話 猫なんて苦手だ
「明日、退院できることになったよ」
祖母からの電話は、仕事帰りの電車の中で受けた。
「本当か」
「先生から許可が出たの」
受話器の向こうの声は、入院した頃とは比べものにならないくらい元気だった。
「やっと家に帰れるよ」
「……そうか」
電話を切る。窓の外を流れていく景色を見ながら、小さく息を吐いた。
良かった。本当に良かった。祖母が元気になることをずっと願っていた。俺もこれでようやく本当の家へ帰れる。
それなのに胸の奥に、小さな穴が開いたような気がした。
翌日、朝から自分の荷物をまとめる、以外と少ない、俺が買ったおもちゃ。結局、一番よく遊んでいたのは画鋲だったのだけれど。
「あれは、もう二度と駄目だからな」
苦笑いしながら荷物を箱に詰めていく。キナコは何も知らず、その箱の中へ嬉しそうに飛び込んだ。
「違う、それは荷物用」
下ろす。また入る。
「だから違うって」
三回目でようやく諦めてくれた、アンコは窓辺から、その様子を静かに眺めている。チコはいつも通りキャットタワーの上。相変わらず落ち着き払っていた。
昼過ぎ、祖母が帰って来た。
「ただいま」
「おかえり」
また自然と、その言葉が口から出た。
祖母は部屋をぐるりと見回し、静かに笑う。
「お世話になったね」
三匹は一斉に祖母のもとへ集まっていった。キナコは甘え、アンコは足元に座り込み、チコは喉を鳴らしている。
やっぱり、この人には敵わないな。
「猫のおもちゃはこれだけ」
「ありがとう」
祖母はゆっくりと頷いた。
「本当に助かったよ」
「いや……」照れくさくて、思わず頭をかく。「毎日ウンコ拾ってただけだから」
祖母は声を上げて笑った。
「それが一番大変なんだよ」
「テレビじゃ絶対映さないしな」
「ふふっ」
二人でしばらく笑い合った。
帰る時間になった。猫に「さよなら」と一匹づつに言った。キナコ、続いてアンコ。最後はチコの番だった。
「さよなら」
チコは俺をじっと見た。数秒の間があって、それから静かに近づいてくる。
「どうした」
しゃがみ込む。チコは逃げなかった。俺のすぐ目の前まで来る。
そして、コツン。
小さく頭を、俺の手に押し付けてきた。
「……え」
ほんの一秒。それだけだった。チコは何事もなかったかのように、そのまま家の奥に歩いて行った。
祖母はその様子を見て、優しく笑った。
「お礼だね」
俺は、何も言えなかった。
あれほど警戒していたチコが。毎日「シャー」と威嚇していたチコが。最後の最後で、一度だけ頭を預けてくれた。
たった一秒。でも、その一秒が、妙に嬉しかった。
「じゃあね」
祖母が手を振る。
「元気で」
家へ戻る。玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。廊下を走る足音もない。エサをねだる鳴き声もない。猫砂をかく音もしない。
「静かだな」
そこに猫はいない。ソファにもいない。窓辺にもいない。
俺は無意識に台所へ向かっていた。
「……あ」
エサを入れようとして、エサが無くて手が止まる。もう誰もいないのに……苦笑いした。
「癖って怖いな」
その夜、テレビでは子猫の特集をやっていた。芸能人たちが笑っている。
「かわいい」「癒やされる」
以前の俺なら、鼻で笑っていたと思う。でも、今日は少し違った。
「まあ……」缶コーヒーを飲みながら、小さく呟く。「可愛いのは、認めるよ」
でも。
やっぱりテレビは、そこまで映さない。毎日のトイレ掃除も、朝早く叩き起こされることも、薬を飲ませる苦労も、高いおもちゃを無視して画鋲で遊ぶことも。
映さない。
だけど、その全部があったからこそ、一緒に暮らしていたんだ。可愛いだけじゃない。面倒なことも全部ひっくるめて、猫との暮らしなんだと思う。
スマホが鳴る。祖母から写真が送られてきた。三匹が、いつもの場所で眠っている。
『みんな元気だよ』短いメッセージ。
俺はその写真を見ながら、ふっと笑った。
「そっか」
それだけで、十分だった。
窓の外では、夕日が街を赤く染めている。静かな部屋。少しだけ寂しい。でも、不思議と嫌な寂しさではなかった。
俺はソファにもたれ、目を閉じる。
猫は相変わらず気まぐれで、言うことなんか全然聞かなくて、毎日ウンコも片付けなきゃいけなくてテレビみたいに可愛いだけじゃない。
それでも俺は最後まで、あの三匹に一度も「好きだ」とは言わなかった。
言わなくても、きっと伝わっている。そして、たぶん向こうも。
「……猫なんて、苦手だ」そう言って、笑う。
その言葉はもう、自分自身でも信じてはいなかった。




