第09話 ばあちゃんの一時帰宅
「来週、一日だけ家に帰れることになったよ」
祖母から電話があったのは、日曜日の夕方だった。
リハビリが順調に進み、一時外出の許可が出たらしい。
「本当か」
「夕方には病院へ戻るけどね」
電話越しの声は、入院した頃よりずっと元気だった。
「猫たちにも会いたいしね」
「……みんな喜ぶだろうな」
電話を切ると部屋を見回す、キナコはソファで丸くなり、アンコは窓際から外を眺め、チコはキャットタワーの一番上で目を閉じていた。
「ばあちゃんが帰ってくるぞ」
もちろん返事はない、三匹とも知らん顔だ。
「……まあ、分かるわけないか」思わず苦笑する。
翌日。
朝から部屋中を掃除した、床を拭き、猫トイレをきれいにし、水を替える。
ソファに付いた毛も念入りにコロコロをかけた。
「……なんで俺、こんな張り切ってるんだ」
別に褒められたいわけじゃない。偽善的な考えもあった、祖母には安心してほしかった。
『ちゃんと任せてよかった』
そう思ってもらえたら、それで十分だった。
昼前。
インターホンが鳴る、ドアを開けると杖をついた祖母が笑顔で立っていた。
「ただいま」
「……おかえり」
言ったあとで自分でも少し驚いた、ここは祖母の家で今は俺が預かっているだけ。
それなのに、「おかえり」という言葉が自然に出ていた。
祖母は嬉しそうに笑った。
「猫たちは?」
「みんないつも通り」
そう言って部屋へ案内する、その瞬間だった。
「ニャーー!」
キナコが勢いよく走り出した、祖母の足元へ飛びつき、体を何度もこすりつける。
「おっとっと」
祖母はしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。
「寂しかったかい」
ゴロゴロと大きな喉の音が響く、その声を聞きつけたアンコも静かに歩いてきた。
何も言わず祖母の隣へ座る。
「アンコも元気だった?」
頭を撫でられると、気持ちよさそうに目を細めた。
最後にチコ、ゆっくりと近寄り、祖母の手に鼻先をちょこんと付ける。
それから安心したように目を細め、小さく喉を鳴らした。
「……すげぇ」
思わず声が漏れる、俺には一度も見せたことがない表情だった。
祖母は三匹を順番に撫でながら笑う。
「みんないい子にしてた?」
三匹とも、本当に嬉しそうだった、その光景を見ていると不思議と悔しさはなかった。
「ああ……やっぱり敵わないな」
俺が一か月以上かけても縮められなかった距離を、祖母は一瞬で埋めてしまう。
でも、それが当たり前なんだ。
この子たちを家族として育ててきたのは、祖母なのだから。
昼食を食べながら、祖母は部屋をゆっくり見回した。
「きれいにしてるねぇ」
「まあ、一応」
「猫砂も臭わない」
「毎日掃除してるから」
祖母は少し黙り、それから静かに笑った。「ありがとう」
その一言が照れくさくて、俺は頭をかいた。
「別に」
「大変だったでしょう?」
「……まあ、それなりには」
祖母は湯飲みを持ったまま、くすっと笑う。「チコ、懐かなかったでしょ」
「毎日シャーだよ」
「あの子は昔から慎重だからね」
「知ってるなら何とかしてくれ」
「でも、噛まれなかったでしょう?」
「噛まれてない」
「引っかかれてもないでしょう?」
「それもない」
祖母は優しく頷いた。
「それなら、ちゃんと認めてるよ」
「え?」
「あの子、本当に嫌いな人には近付きもしないから」
その言葉に、思わずチコを見る、窓際で外を眺めている。
近寄ってはこない、でも、以前みたいに俺を見るたび逃げることもなくなっていた。
「……そういうもんなのか」
「そういう子なんだよ」
夕方。
病院へ戻る時間になった、玄関まで見送る。
「もう少しだからね」
祖母が靴を履きながら言う。
「退院したら、この子たちに寂しい思いをさせずに済む」
「……ああ」
自然に返事はした。
そのはずなのに、胸の奥が少しだけ引っかかった。
最初は、一日でも早く家に帰りたいと思っていた。
猫アレルギーだし、世話だって大変だった。
それなのに三匹がいなくなった部屋を、ほんの少しだけ想像してしまった。
静かな部屋。
朝も誰にも起こされない、トイレ掃除もしなくていい。なのに、少しだけ寂しい。
そんな自分がいて、苦笑いするしかなかった。
祖母は俺の表情を見て、何も言わずに笑った。
「じゃあ、また来るね」
「気を付けて」
玄関のドアが静かに閉まる、部屋へ戻ると三匹とも玄関の前をじっと見つめていた。
「寂しいか」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
やがてチコがゆっくりリビングへ戻る、
キナコも後を追う。
アンコだけが少しだけ玄関に残り、俺の横を静かに通り過ぎていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐く。「……まだ先の話だ」
そう自分に言い聞かせる、返す日は、きっと来る。
でも今は、もう少しだけ、この賑やかな毎日が続いてもいい。
そう思ってしまった。




