第二章 兎川 (一)兎川
兎川雪の中の一番古い記憶は、今でも思い出すことができる。五歳頃の記憶だ。
「可愛いね、雪ちゃん。」オレを抱き上げてそう笑う父の声と、
「ほんとに女の子だったら良かったのにね。」その傍らで微笑む母の声。
オレの中の一番古い記憶で、あとは思い出せる限りで最後の、両親から褒められて可愛がられた記憶だった。その後に生まれた一家念願の女の子である妹が、両親からの注目の一切合切を攫っていったから、オレの分はこれしか残らなかった。
八つ上の兄は頭脳も壮健な身体にも恵まれた上、社交的な人だったらしい。出来の良い長男の次は可愛い女の子が欲しい、となったところに間違ってオレが生まれてしまった。顔の造形こそ悪くなかったものの男であったオレの立ち位置は、後から生まれた本物に取って代わられてしまった。頭脳、身体能力そして社交性のいずれも、兄に優ったり並び立つものが無かったという事実も、両親の興味を遠ざけたのかもしれない。
決して愛されなかった訳じゃない、とは思っている。食事も居場所も与えられていた。会話もゼロではなかったが、オレへの興味が根源にある会話とは感じられなかっただけで。こっちの行事に来ることはなくても、妹の方には参加する、という両親の行動にも、何も思うところはなかった。この家の中でオレの優先順位が低いのが理由の全てだと、理解していたから……家族の中でオレだけが、薄ぼけた存在だった。
人付き合いも上手くなく、家の外の世界にも居場所らしい居場所はなかった。友達といえるような友達もおらず、ただ行事を処理するための、相互利用的な人付き合いを高校2年まで続けて、どうにか一般社会に紛れ込むことが出来ているフリをしていた。外の世界でもオレは、自分自身で何かを為す訳でもなく、漠然と、惰性のまま、薄ぼんやりと生きていた。
高校2年の夏の終わり頃に突然、両親から三人で外食に行こうと誘われた。表には出さなかったものの、今までに無いことに凄く驚いた。妙な期待もほんの少しだけ抱いてしまったけど……何のことはない。席に着いてすぐに、現実に帰ってこられた。妹を私学受験させたいので、高校を卒業したら自立するように、という話だった。
楽しみにしていた外食だったはずなのに、そう聞かされた途端にもはや何を食べているのか、口に運んだ物がどんな味なのかさえもわからなくなった。時間の経過とともに、どんどん不安感が膨張してくる……ここで、この場でオレは、ちゃんと家族が出来ているのか? そういう振る舞いが、出来ているのか。
オレは食事中に周囲からなんとなく感じる視線で、自分が何らかのマナーに反しているらしいことを雰囲気から感じ取った。目線からして解っているようだけれど、両親はオレに何も言わない。オレもオレで、二人に尋ねることができない。時折やってくる給仕の冷めた目だけが無言のまま、オレを責めている。周りにこんなに人間が居るのに、オレは一人だった。家族のフリすら、オレには出来なかった。
次の日からは高校に行かなかった。制服を着て家を出てからは、延々と環状線を周る電車に乗り続けて時間を潰して、図書館が開くと閉館まで居座った。どうやったら今後生きていけるのかを知ろうと思った。わからない事が出てきたら、それを調べるための本を探して読んだ。借りた本を電車で読んだりもしていた……何処にも居場所のないオレは誰かに話をすることも叶わず、そうする事でしか何かを知る術がなかった。
そうやって調べている内に娼婦か、兵隊かという原初の職業に行き着いた。売春は違法だが、兵隊は違法では無い上、満17歳から入隊できるらしい。兵隊であれば住むところと食事に金は掛からないので、いち早く自立ができる。来年の1月には17歳になる……高校を卒業したら自立を、という話だったが、早いぶんには家にとって好都合に違いないだろう。兵隊になると決めたオレは、そのまま陸軍の志願兵募集所に向かった。
そこからの話は早かった。翌月には試験を受けてあっさり合格した。そもそもが難しい試験ではないから当然らしいのだが、あっという間に少し先の未来が決まった。人生で初めて自分自身で選択している気がした。それから後片付けを始めて、部屋にあった個人的な持ち物のほとんどを捨てると、最終的に大きめの鞄一つに自分の全てが収まった。
そして3月下旬の入隊の日、自署欄に記入済みの高校の退学届を居間のテーブルに置いて家を出た。居なくなっても捜索願を出されることはないだろう、と確信していたので、手紙も残さなかった。携帯電話は持っていなかったし、オレの連絡先を知らせておくべき人だなんて、オレは誰も知らなかった。
志願兵募集所へ行き、徴募官の案内に従って大きなトラックの荷台に乗り込んだ。既に結構な人数が乗り込んでいて、それぞれの面持ちは様々だ。泣いているヤツもいれば寝ているヤツもいた。トラックのすぐ後ろには入隊者を見送りに来ている人もいた。オレは荷台に据え付けられた木製の堅いベンチに腰掛け、どこか違う世界の出来事のような他人の見送りの光景を、トラックが発車するまで見ていた。
やがてトラックは大きな振動を伴って走り出した。見知らぬ人たちが、走り出したトラックに向けて手を振っている。徴募官が言うには、ここから丸々一日走り続けた遠く離れた町に、新兵を教育する部隊があるらしい。誰もオレを知らないし、オレも誰も知らない町。軍隊という知らない組織。そこでようやく、オレは自分自身の人生が始まる気がしていた。
別にオレに向けられた訳でもないけれど、オレは見送り人たちに向かって手を振り返した。お互いの姿が小さくなっていっても見送り人たちは手を振り続けていて……その姿もやがて、カーブに差し掛かって見えなくなった。




