第一章 事故 (八)再会
「ユキ、久しぶりだな。せっかくの一人部屋だったのに悪いな、退院してきたぞ。」
駆け寄ってくる相棒にいつものように言葉をかける。手前で足を止めるだろうと思っていた兎川特技兵は、止まらなかった。そのまま流れるように正面から抱きつかれる。公共の場で突如始まってしまった熱い抱擁を、僕は受け止めてやる他無かった。顎の下辺りに収まった小さな頭から、声にならない呻き声が聞こえる。
身体に回された腕は、その細さの割に力強く僕の身体を拘束している。形こそ華奢に見えるが、さすがは同じ特技者であった。右手の鞄を降ろして、その震える背中を撫でる。
「よーしよし……相棒にここまで大事に想われて、僕は幸せ者だな……」
やがて落ち着いたユキは、拘束を解いて一歩下がった。赤く上気した白い肌、その上に細く緩やかな弧を描く眉、その下の丸く大きな瞳は潤んで本物の兎のように赤くなっていた。すーっと通った鼻筋を持つ鼻は先程までと変わらずスンスン鳴き、薄い唇は一文字に引き締められている。髪こそ、こめかみ辺りまで刈り上げてはいるものの、トップから伸ばしてサイドに被せた髪は絹のように、しっとりした滑らかさで光沢さえ見られた。中性的で美麗な顔立ちの男で、僕の相棒であった。
「いやいや、こうやって歓迎されると嬉しいね……出迎えありがとうな。とりあえず、荷物もあるし部屋まで行こうか。昼食まで時間もあるだろうし、展示会の話とか」
「辞めないよね?」
最近、よく他人に発言を被せられている気がする……そう思いながらふと見たユキの瞳孔が、左右に不規則に揺れている。声も震えている……怒りよりも、不安が強い声色が続く。
「中隊からはまだ、正式な話はされてない……でも、そんな噂があって……ねぇ、嘘だよね? サメが軍を辞めるなんて、嘘だよね?」
ここで問いに答えれば、きっとまたこの場所で抱擁する羽目になるのだろう……日曜日とはいえ、駐屯地に誰も居ない訳ではない。変な誤解を受けるような行為は避けたい……とっくにもう、手遅れな気もしているが。
「その辺の話も含めてさ、部屋で話そう。誰にでも聞かせたい訳じゃない。」
そう答えて鞄を手に取った。ユキはややあって静かに頷いたので、歩き出す。後に一人分の足音が続いた。人もまばらな休日の駐屯地を、しばし二人で黙って歩いていく。
生活隊舎も五階建ての鉄筋コンクリート造で、僕とユキの部屋はその三階にある。ベッド、ロッカー、キャビネット、机と椅子。それらを二人分入れたらもうあまり余裕のない、小さな部屋だった。部屋に入って、自分の机に荷物を下ろす。ユキは部屋の扉を閉めたあと、自身のベッドに腰掛けて俯いている。僕も自分のベッドに腰掛けて、ユキと向かい合う形になった。少しの間、そのまま沈黙が続いた。どう伝えるべきかを歩きながら考えていたが、どうやっても取り繕える内容ではない。結局は台本に沿って、簡明に話すしかないだろう。
「軍を辞めるのは本当だ。」
そう切り出すと、ユキはゆっくりと顔を上げた。呆けた表情をしているが、反応はないのでそのまま言葉を続けた。
「噂で聞いたかもしれないけど、手榴弾投擲の安全係でヘマをしたのは本当だ。それで、利き目の右目がこの様でもう見えない……ホラ、無いんだ。だから、身体能力基準上は下士官にはなれないし、任期も延長できない。そうなると、来年の3月の任期満了で除隊するしかない、という事になる。だから……僕が軍を辞める、っていうのは本当だ。」
眼帯をめくって、眼窩を見せながら淡々と話した。ユキは何もない空っぽの眼窩を遠い目で見つめたまま、僕の言葉を聞いていた。更に続ける。
「除隊まで時間もあまりないから、その日まで職業訓練を受けることになりそうだ……だからこうして、部屋で会う以外にはあまり会えないか……いや、ユキは来年頭に入校だったから、こうして会えるのはもう今月ぐらいのものか……」
本来なら僕も、ユキと一緒に下士官となるべく教育を受けに行くはずだったのだ。その未来が潰えて、二人の道は既に分岐している。言葉にすると余計にそれを強く実感させられて……胸が詰まりそうになった。想いが込み上げて熱くなった喉と鈍い動きの舌を誤魔化しながら、目を瞑って、どうにか平静を装って話し続ける。
「ユキも知っての通り、僕には帰る家も無いからさ。まずは住む部屋をすぐにでも探さないとダメなんだよな……でもどこに行っても、どこからでも駆けつけるから……兎川伍長になって帰ってきたら、お祝いさせてくれよ。その頃にはきっと、僕の新しい生活も」
落ち着いているんじゃないか、と言おうとしたところで言葉は止まった。ユキが呻くようにして泣いているのに気付いてしまったから。両手で俯いた顔を押さえて、声を押し殺すようにして泣いている。大きな瞳からぼろぼろとこぼれたであろう涙が、指の合間から腕を伝っては、肘から床へと落ちていった。こんな時に僕がしてやれる事は少ない。ユキの隣に腰掛けて、また背中をゆっくりと撫で始める。今度は、何も言う気にはなれなかった。たとえ昼食のラッパが鳴ったとしても、泣き止むまでこうしていてやろうと思った。
どれぐらいの間そうしていただろうか、やがて昼食のラッパが鳴った。他の部屋からは食堂に向かう隊員たちの生活音がバタバタと聞こえる。それが一段落して一帯に静寂が戻った頃、ユキはようやく顔を上げる……涙は止まっていた。声を掛けようかと思ったその時、
「……ねぇ、投擲手は誰だったの? おかしいんだ。小隊本部も中隊本部も、命令の写しから編成表だけ抜き取って処分していたし、元データも見せてくれない。訓練参加者に聞いても、誰も何も教えてくれない……」
胸がざわついた。ユキは、探りを入れている。
「大丈夫、オレはできた旦那だからね……さっきサメが勝手に、ろくでもない未来を口走ったのは許してあげるよ。でも、嘘は駄目だよね? ……ねぇ、本当の事を、教えてよ……」
大きな潤んだ瞳で、ユキは真っ直ぐこちらを見据えて……その瞳孔はもう、揺れていない。口調こそ穏やかだが、その強い気迫は、これ以上僕が嘘を語ることをきっと許さないだろう。そこで僕はようやく……中隊長の曇った表情、その理由に行き当たった気がした。
緊張のあまり唾を飲み込む音が、狭い部屋に響いた。




