第二章 兎川 (二)行軍
新兵としての日々は怒涛だった。とにかく時間に追われたし、ミスがあれば教官陣から容赦なく怒鳴られたし、詰められもした。それでもこの組織には秩序があったし、オレたち新兵を一端の兵隊にする、という教育隊の、ひいては教官陣の目的は明確だった。だからこそ体力面や気力面がキツくても、どれだけ詰められても、必死にしがみついてこれたように思う。新兵の中でもオレの出来は良くなかったけれど、どうにか持ちこたえていた。こんなに何かを頑張っている自分自身に、驚きすら感じていた。
体力的な辛さには耐えられたが、精神的にキツい状況が続くと中々くるものがあった。軍隊みたいな体育会系特有の連帯責任というものは、自分自身が原因となってしまった時ほど辛いものは無かった。入隊して2ヶ月目の、二回目の野外訓練。山深い演習場において3夜4日で行われた訓練の、初日と2日目の時点でオレは既に一回ずつやらかしていた。
初日は小銃の部品を突撃訓練中に失くしてしまった。同じ班員9名のみならず、他所の班も巻き込んで小さな部品を捜索する羽目になったが、2時間の捜索により発見に至った。しかし訓練内容は削れないため、捜索に参加した班はその分、夕刻以降の休憩が大幅に削られることとなった。巻き込んでしまった皆に詫びた。この時はまだ、周りの多くは誰にでも起こり得ることだよ、とか大丈夫だよ、と励ましてくれていたように思う。
2日目は、防毒面が入ったポーチを夜間斥候訓練中に落としてしまった。これは課目訓練終了後、集合地点で装備品を点検した時に発覚した。昨日やらかしてばかりの今日だったので、必死に通った道を覚えていたし、定期的に装備品を触って確認していたのが幸いして、自分自身で通った道を戻ってポーチを発見することが出来た。それでも、発見して報告するまで班員は解散できなかったし、その分の休憩時間は当然削られる。班員の大半は明らかに疲労と鬱憤を蓄積していたように見えた。
別に吊し上げられた訳でもないが、多くの班員の表情や雰囲気から呆れや嘲りが感じられた。一人の人間が2日連続で同じような失態を連続で重ねて、全体に不利益をもたらしているのだから無理もないだろう。自分自身でも、オレは何をしているのかと責めたくもなったが、オレはオレで一生懸命やっていたつもりだった。必死にこういうことが起きないように気をつけていたはずだった……それでも、やらかした。みんなに謝ったところで、大丈夫だと返ってきた返事はもはや一人くらいのものだった。
表立って責めてくる訳でもない班員たちから感じる雰囲気に、いつかの両親との外食を重ねていた。オレは自分で選んでここに来て、新しい何かを見つけて生きていこうと思っていたはずなのに……オレはもう、どこに行ってもどこに所属しても、突然消えたとしても誰も気にも留めないような、居るか居ないかもわからないような存在にしか、なれないのではないか……そんな絶望的な考えが、頭の中にこびりついて離れなかった。
3日目からの訓練はより一層、気を張っていた。野外訓練の最後を飾る3日目から4日目の訓練予定は、まず3日目のほとんどを徒歩で長距離行軍した後、集結地で短い仮眠を取り、4日目の夜明け前から接敵前進して、最後は敵陣地に突撃して終了、という一連の流れがあるものだった。体力、気力的にもキツい訓練に違いないだろう。なにより、これ以上の失態は許されないという強迫観念じみた考えがオレの頭の中を支配していた……たとえ、とっくに班員に呆れられていたとしても、これ以上の失態はオレ自身が耐えられない。
意外なほどに順調に進んでいった。班内の新兵の間で順番に回ってくる、役職としての組長も無難にこなすことができたし、疲れを分散するために全員で回し持ちする10キログラム以上もある対戦車砲だって、オレの前に持つ予定だった奴が体力的にキツい、と言うので代わりに持ってやることも出来た。休止点での小休止中、そいつからありがとう、と言われた時は嬉しかった。オレが誰かの役に立てている、という強い実感は、ひょっとして生まれて初めてのものかもしれなかった……だからきっと、浮かれていたんだと思う。
3日目と4日目の境目、夜の集結地。ほとんど丸一日歩き通して、這々の体でたどり着いた小さな森。この場所でオレ達は装備変換をする。つまりは今まで背負ってきた20キログラムぐらいの背嚢を降ろして、10キログラム程度の防弾ベストに換装する。夜明け前に始まる接敵前進から最後の突撃までは前進速度を求められる上、戦闘行動も生起するので、この集結地でそれに適した格好に変換する。だからオレは、背嚢に入れていた弾倉ポーチを防弾ベストに装着するつもりだった。
無い。
身体の小さいオレは、胴回りに合わせるとどうしても弾帯の全長が短くなるため、腰回りに装着できる装備品が限られた。だから行軍中は弾倉を収納した弾倉ポーチ二つを、背嚢の中に入れていた。それが、一つ、無い。静かに、物音を立てないように背嚢の中身を地面にぶちまける。班員のみんなも、仮眠するために準備をしているから、この行動にさほど不自然さはない。中身を一つ一つ調べる……やはり、弾倉ポーチが一つだけ見当たらない。二度三度と点検を繰り返しても、結果は変わらなかった。
徐々に高鳴っていった心臓は今や、ドンドンドンドンうるさすぎるぐらいだった。勝手に手足が震えたし、喉もカラカラになった。この後の事を考える。今みんなは準備をしているが、じきに仮眠に入れるだろう。他班と合同編成で二、三名ずつが約1時間交代で、不寝番としてこの集結地を見回るけれども、その順番が回ってくる以外の約七時間は休めるのだ。眠れるのだ。連続で休めない奴もいるが、眠れるのだ……本当ならば。オレが、馬鹿な事をしなければ。息も次第に荒くなってきた。上手く行っている、誰かの役に立っている、と思い上がっていた過去の自分をどうにかしてやりたかった。結局どこまでいってもお前は、オレは……
「兎川、ちょっと良いか? 不寝番の勤務の相談なんだけど……」
突然話しかけられて心臓が跳ね上がる。俯いていた顔を上げて声の方に顔を向けると、班員である鮫上が話しかけながら近づいてきていた。そのまま鮫上はなんでもないようにオレの隣にしゃがみ込むと、表情を変えずに小声で囁いた。
「大丈夫だよ、どうしたの?」
鮫上はいつもそうだった。何かトラブルが起きても、とりあえず大丈夫だと誰にでも言っていた。オレが2日目にやらかした時にも、唯一そう言っていたのは鮫上だった。しかしもう、三回目である。周りもそうだろうけれど、オレが一番オレを見放したいくらいに呆れている。全然大丈夫ではなかったが、もはや嘘を言ったり取り繕う気力さえ残されていない。
「……背嚢に入れていた弾倉ポーチが、一個ない……」
今にも泣き出したくて潰れそうで、狭く縮こまった喉から絞り出すように言うと……鮫上は少し間を置いてそうか、と小さく応えた。それからややあって、
「二本入りの方か? 最後に見て確認したのはいつ?」
「二本入り……最後に見たのは……夕の携行食を食べた時……」
「そうか、それ以降で背嚢のその場所を開いたのは?」
「……確か、雨が上がって雨衣を仕舞った時……」
「……四行程前の休止点か、良かった良かった。ちょっと待ってて。」
そう言うや鮫上は、立ち上がって足早に去って行った。いったい何が良かったというのか、そう聞き返す気力も無かった。いずれにせよ、早く教官陣に報告したり、班員に打ち明けなければならない、と解ってはいた。それでもその決定的な瞬間にきっと、今まで以上の失望の眼差しを向けられるであろう事が恐ろしく、未だにオレは躊躇していた。今日の頑張りと小さな喜びが全て、この失敗に勢いを付けるためだけに用意されたもののような気さえしてきて……オレは本当にもう、今すぐにでも消えてしまいたいと思っていた、その時。
手に何かを持って、鮫上が戻ってきた。
「おまたせ……手伝うから、取り付けてしまおう。弾倉なら低めの方が取りやすいか?」
今はオレの防弾ベストに何かを取り付けようとしているが、暗くてよく見えない。しゃがみ込んで見てみると、二本入りの弾倉ポーチだった。ポーチに貼られた、一時的な紛失防止用の白いビニールテープ製の記名欄……
誰か他人の字でトガワ、と記されていた。




