紫煙
——カッ……カッ……カッ……
常装用婦人靴のヒールが赤絨毯の上で立てる小気味よい調子が、早朝というにも早過ぎる朝4時半の……当直室以外に人の気配もなく、静まり返った連隊隊舎2階の廊下に響いている。
その音の大きさと調子ごとに近づいてくる距離の感覚から、この脚を繰り出している持ち主の身長が平均的な女性よりも随分と高い事と……何よりその調子から、泰然とした様子で歩いているであろう事がわかる。それは将校らしい振る舞いを大事にしている彼女らしい態度だった。
今日は確かに、定期異動や任期除隊に関連する行事等が目白押しの日ではあるものの、この登庁時間が彼女にとっての日常である事は知っていた。きっとそのまま……灯りを消したこの小さな部屋と、連隊長の執務室の前を通り過ぎて人事班の事務室へと入っていくに違いない。
——カッ……
そう思っていたら、部屋の前で足音が止まった。足を止めた瞬間から、彼女が自身の不随意以外の動作の一切を——呼吸すら止めて、辺りを探っているのが気配でわかる。それはかつて、特技教育課程や演習において幾度となく体感した追跡者の気配で、捕食者の振る舞い。さすがは連隊で唯一の女性猟兵であった。もはや潜んでいる事実には気付かれてしまっているので、今からどういう流れで姿を現そうかと考えていると、
「おはよう、鮫上特技兵……朝から隠れんぼか?」
抑えた声量の割に良く通る声でそう言うなり、彼女は部屋と廊下を隔てていた扉をラッチ音も鳴らさず静かに素早く開け放つ。白み始めた外の光で仄かに明るい廊下の光に照らされて、華奢なフレームの銀縁眼鏡が煌めく。境界が融けて部屋に入り込んだ空気に……包み込むように微かな薫衣草の香り。彼女——連隊人事将校である阿賀田大尉が身に纏う香水の芳香だった。
「おはようございます。今日の行事終了後となると、阿賀田大尉もお忙しいでしょうから……朝のうちにご挨拶を、と思いまして。しかし、よく自分だと解りましたね?」
そう言いながら、手に持っていたお盆から淹れたばかりのコーヒーが注がれたマグカップを手渡すと……大尉は自然な動作でそれを受け取り、静かに二口ほど飲んでから
「今、上番している連隊長伝令はここまで朝早くに出勤しないし、連隊当直室にある鍵格納箱から人事班の鍵を取り出した時、給湯室の鍵が無かった。そして給湯室から自分好みの挽き具合のコーヒーの匂いが漂っているとなると、そんな事をする奴は限られる。連隊長伝令の経験者で、当時から連隊本部の誰より早く出勤していた者で……小幕僚のコーヒーの好みまで覚えているマメな奴は一人しか居らん。もう、顔を晒して廊下に突っ立ってるのと同じだ。」
ニヤ、と笑って表情を崩す阿賀田大尉。目を細めて笑い皺が少し深くなり、一般的には柔和な印象を与えそうなものだが……相変わらず、そこには捕食者の表情が見受けられる。
「それで……お前が居るって事は、そこに兎川も居るんだろう?」
またコーヒーを一口飲んでから大尉がそう言うと、入り口からは死角になっていた給湯室の奥から静かにユキが姿を現し、近寄ってきた。少し……いや、かなりバツの悪そうな顔で。
「……あの、阿賀田大尉……その節は……」
歯切れ悪く、弁明を始めたユキの頭頂部にパシ、と大尉の手のひらが下ろされる。
「おう、兎川特技兵……そうじゃないだろ? お・は・よ・う。」
大尉はそう言って、ユキの頭頂部に置いた手のひらでクシャクシャと撫でると、また格好の獲物を見つけた捕食者の様に笑い……一方でユキは、為す術もなくされるがままにしている。大尉は数少ない、ユキが敵わないと感じる相手の一人でもあった。
「おはようございます、阿賀田大尉……」
「おうおう、朝の一発目は挨拶からだからな……軍隊の外でも変わらんから覚えておけよ。」
愉快そうに笑いながら、ユキの頭を撫でつつ……手にしたコーヒーを飲み干す。そこにお盆を差し出すと、大尉はそこにマグカップを置いてから、
「相変わらず気が利く奴だな、鮫上……連隊本部に引っ張る予定だっただけはある……」
実現には至らなかった僕らの知り得ない補職計画の一端をさらりと述べた大尉は、その話題を特段広げるでもなく切り上げ、手元の腕時計を確認するや
「よし、0445に2階中央階段の自動販売機前に集合だ……飲み物は先に買っとけ。」
紙幣をお盆に載せてそう告げると、大尉はいつもの調子で人事班の事務室へと歩いていった。
◇ ◇ ◇
「何か言いたそうだったな、先に聞いてやるぞ兎川。煙草は吸わせてもらうがな……」
指定された時間に集合した後、大尉を含めた3人で喫煙所に向かって……到着するなり常装の内ポケットから銀の煙草入れを取り出しながら、大尉はそう言った。収められた細巻の葉巻を一本取り出して唇の端に咥え……煙草入れを仕舞ったのを見計らってから、ライターを着火して差し出す。大尉もそうくるのが解っていたように自然に、少し顔を寄せてライターの火を迎える。剣呑な視線を躱しつつライターを仕舞うと、薄暗く白んだ空に香り高く滑らかな煙が昇り始めて……大尉が最初の一服の煙をゆっくりと吐き出したところで、ユキが話し始めた。
「連隊長伝令の時の件です……阿賀田大尉に直接、謝罪できていなかったので……本当に今更なんですが、申し訳ありませんでした……ご迷惑を、お掛けしました。」
他でもない、ユキが連隊長伝令に上番した時の話である。仔細は省略するが、ユキは連隊長伝令を異例の1週間で下番になっていて……当然ながらその時、伝令を選定して指導する役割を担っていた大尉から大目玉を食らっていた。挨拶回りする人々について二人でリストアップしている時のユキの妙な様子から、わだかまりというか、何か清算出来ていない様子が見受けられたので……周りに人も居ない早朝なら話しやすいのではないかという僕の提案を受けて、今この場面に至っているのであった。
悠然と葉巻を吸いながら黙って話を聞いていた大尉は、やがてカカカ……と笑いを漏らした。
「なんだ兎川、お前……気性に寄らず、意外にそんな事をいつまでも気にする性質だったのか……おい、可愛いじゃねぇか。いやいや、ここ最近では一番面白い話だったな……」
笑いながら、合間に葉巻を吸いながら……大尉はそう言った。ユキは緊張が解けないのか、未だ飲み物に口をつけていない。そんなユキの様子を察してか、
「別に叱る訳じゃねぇんだから、飲み物くらい飲めよ……喫煙所は気軽な社交場だぞ?」
大尉はそう言った。それを受けてようやく、思い出したように飲み口を開けてミルクティーの缶を傾けだすユキ……そうやって何をしていても目線を大尉から切らないでいるのはきっと、未だ警戒は解けていないからに違いない。
「気にするな、とだけ言って終わらせちまうと、お前の今後によろしくないかもしれんな……でもな、本当に……別に構やしねぇんだ、軍隊にとってはな。」
大尉は煙草入れを懐から取り出して、片手で蓋を開いてユキに差し出すも……ユキは控え目に差し出した手のひらでこれを固辞する。煙草入れを持った手はそのまま、こちらにスライドしてきたので……断ったところで別段、気を悪くするような人でもないのは解ってはいるが、ここはご相伴に預かる事とした。取り出した一本の、少し細くなっている吸い口を咥えて……先ほど仕舞ったばかりのライターを探ろうとしたところで、
——キィン……
小さな、それでいてどこまでも響くような澄み切った、心地よい余韻を持つ鋭利な金属音。僕よりも僅かに背の低い大尉の手には、着火された真鍮製のライターが握られている。思わず会釈をしてから、顔を寄せて火を貰う……傍からの視線については今は気にしない事にした。
かつても喫煙所で教わった通り……ゆっくりと煙を吸い込み、吸い口を離してから口内に煙を漂わせ……ゆっくりと鼻から息を抜いていく。濃密に発酵した煙草葉の重たい甘さと、乾いた木箱——そう、開梱したばかりの新品の弾薬箱のような、新鮮な木の香りが同居していて……それらが鼻から抜けていった後には鼻腔の奥から口内、舌にかけて甘い余韻が残されていた。
「美味いだろ? 前に教えてやった時のより、ずっと良い葉巻だからな……」
ライターを手中に仕舞いながら嬉しそうに笑う大尉と、対照的に眉根を顰めているユキ……きっと後で二人になった瞬間、何かしら言われるであろう事はもはや確定している。そんな顔をチラリと確認して、小さく笑いながら大尉は続ける。
「軍隊はな、デカい生き物みたいなもんだ……一から十まで自分達だけで自己完結が出来る、強靭な生命体。だからこそ国防だなんて途方もなく大きな仕事が出来るんだが……これはな、例えばの話……構成する人員の全員が全員、鮫上みたいな奴だと上手くはいかねぇ。」
話の内容が意外だったのか、ユキはもう大尉の話の方に気を取られていた。大尉の話す内容に納得していないのか、訝しむような表情で大尉の目を真剣に見つめていて……そんなユキの様子を見た大尉は満足そうに続ける。
「多様性の無い生き物は環境の変化ひとつですぐに全滅するだろ? それと一緒だよ……軍隊は将校も下士官も兵卒も、指揮官の命令に従う事を絶対的に求められるし、誰も彼も一戦闘員として錬磨し続ける事を求めてもいるがな……その身体を構成する個々の細胞——一個人は、それぞれの持ち味がないとまるで駄目なんだ。軍隊の真の強味は詰まるところ、そこだ……」
そう言って、短くなった葉巻の火種を備え付けの灰皿に擦りつける大尉……それは間もなく、僕らへの最後の教育的指導が終わろうとしている合図でもあった。
「兎川みたいに連隊長閣下の座す前で幕僚と口論するような無茶苦茶な奴も、軍隊にとっては必要で、大事な一部だったのさ。もちろん鮫上もそうだし、同じく任期除隊していく誰も彼もがそうだ……新陳代謝で細胞は入れ替わっていくが、お前たちひとつひとつの献身こそが軍隊を生かし続けてくれていたし、そうして造った血が受け継がれていくんだ。だから……」
大尉の言を聞いている内に、自然と——誰かにそうせよと命じられた訳でもないのに、僕もユキも背筋が伸びていた。大尉の真っ直ぐな誠心は、丸めた背中では到底受け止め切れない。
「だからな、俺は別にお前らの指揮官でもないし……唯の連隊の小幕僚で、大したありがたみも無いのに言わせて貰うが……鮫上特技兵、兎川特技兵。4年間に渡る勤務、本当にご苦労様でした。連隊で一緒に勤務出来て楽しかったよ、ありがとう。」
微笑んで言い終えた途端、表情を消した大尉が姿勢を直立不動に正す。今だ。咄嗟に葉巻を灰皿に、缶コーヒーを後ろのベンチに置く。同じタイミングでユキも缶を置いたのが見えた。
「気をつけ!」
すかさず短節に号令をかけ、大尉の前にユキと整列する。姿勢は、真っ直ぐに——頭頂部を天から吊られているイメージで、つま先は少し開いて、両の踵はしっかりと着けて。真っ直ぐ下ろした両腕は体側に沿わせる。胸を張り、顎を引いて……大尉を、真っ直ぐに見つめて……
「敬礼!」
持てる全ての礼を細部まで尽くして、挙手の敬礼をすると……大尉もこれに対し、教本通りとも言えるような、長い軍歴の中でも個癖に染まらなかった挙手の答礼で応える。一本一本の指先にまで意志の込められた、美しいその手が下ろされるのを待って……号令で挙手の敬礼を解除すると……歩み寄った大尉から、右手を差し出された。両手でその手を迎えて固く握手を交わすと、手中に妙な違和感を感じる。
「餞別にくれてやる。元気でな、鮫上……」
そう言って空いた左手で僕の肩を叩き、ユキの方に向かう大尉……その右手を確かめると、大尉の手中で温められた真鍮製のライターがそこにあった。横を見ると、大尉はユキの前に立ってまた同じように右手を差し出している……ユキがその手を取った途端、
「……ぉわっ!?」
手をグイッと引かれて、ユキの小さな身体が大尉の手中に収まる……大きめの猫を懐に抱くようにして、大尉が左手でユキの頭を撫でている。突然の出来事に、ユキは固まったままだ。
「バカな子ほど可愛いって言うだろ? ありゃ本当だぜ……元気でな、兎川……」
短い抱擁を終えた大尉はホラ、と僕の方へとユキを軽く押しやって、颯爽と隊舎に向かって帰っていった……その後ろ姿にも一切の隙は無く、常装上衣の背中には皺ひとつ見当たらない。陸軍将校の鑑のようなその姿が、今日除隊する僕らの目には……登り始めた朝日の光よりも、ずっと眩しく感じられた。
その姿が見えなくなったところで、ようやく二人とも無言で姿勢を崩した。ユキはベンチに置いたミルクティーの缶を手に取って、傾けて……既に缶コーヒーを飲み切っていた僕は灰皿の煙草置きに置いた、まだ長さのある葉巻を手に取った。
途端に刺さるような視線を感じたが、そのままにして一服し……通り抜けていく木の芳香と、滞留する甘みを感じながら大尉の言葉を噛み締める。そこでようやく……今の今まで、納得出来たふりをしていた自分を知覚した。なんの事はない……ユキに付き合うつもりで来ておいて、一番救われてしまったのは僕だった。分不相応な真鍮製のライターが見た目以上の重さで手中に座して、朝日を受けて煌めいている。
「ねぇ、サメ……」
ユキがその大きく丸い瞳で、僕の顔をジッと見つめながら声を発する。不思議とその声色は、想定していたような……何かを咎め立てるような性質のものではないように聞こえた。
「その煙草、美味しい……?」
そして今度こそ本当に意外な発言だった。葉巻とはいえ煙草嫌いなユキが、興味を持つとも思えない。ひょっとすると、僕が喫煙者になるかもしれないと危惧しているのだろうか。
「まぁ……そうだね。いい葉巻だと思う。普段吸わないから、善し悪しはそこまでわからないけど……それでも上質さというか、そういったものは感じるよ。でも、」
「ふぅん。ならさ、どんなものか……味見させてよ……」
僕の言葉に被せるように、一番言い出しそうもない事を言い出すユキ……怒っている訳ではないのは明らかだが、いつもと違う様子に少し戸惑いながらも聞いてみる。
「もう僕が口つけちゃってるけど……これ……吸うかい……?」
咥えていた葉巻を手に取ってそう聞いた途端、ユキの白い顔がみるみる赤くなっていき……そして一瞬、目をギュッと閉じて逡巡したユキは、思い直した様子で
「やっ、いい、いいよ……直接吸うのは身体に悪いから……だから、その……煙草の煙だけ、オレに吹きかけてくれたらいいよ……それなら、香りもわかるでしょ……?」
提案された内容を実行している絵面を思い浮かべると、とんでもない悪人のように思われた。煙草嫌いの人に向かって、煙を吹きかけるだなんて……そんな考えが表情に出ていたのか、
「ねぇ、大丈夫だよ。オレがお願いしてるんだから、怒ったりしないよ……ほら……」
ユキはそう言うと、顎先をクイと上げて目を閉じ、煙の襲来を待った……その美しい容貌が無防備に曝されている危うさに、否応なく心拍数が上がっていく。邪な考えを抑えつけつつ、ユキの肩に左手を置くと、身体が小さく跳ねて……それでもなお姿勢を崩さないユキの様子に意を決した僕は、なるべく優しく……ゆっくりと、煙をユキの顔に向けて吹きかける。
「あ……」
初めに小さく、短く声を漏らしたユキはそれ以降、何も発さなかった。ただただ黙って……滑らかで白い薫煙が、花のような顔を通り抜けていくに任せている。少しの間があってから、やがて煙が止んだ事を察するとゆっくり瞼を開き……目を細めて可愛らしく笑うと、
「こんなこと、オレ以外にしちゃ駄目だからな……」
小さな頭を僕の胸元に預けると、擦りつけてから……恥ずかしそうに一言、静かに漏らす。静謐な朝の空気の中、その頭を柔らかく撫でる。ふわりと、薫衣草が香った。
※イベント用書き下ろし「紫煙」了




