過日譚 道標 (一)自覚
軋むように長いブレーキ音が鳴き止んで扉が開くと、遠くに聞こえていた蝉の声が大音量で流れ出す……同時に外の熱気が車内に一斉に流れ込んで、ちょうど境目に立っていたオレたちの周りの空気を一気に微温くした。暑い夏の盛りに計画された、荷物は鞄ひとつだけの小さな旅行だった。
「いやぁ、こっちは晴れててよかったな……これなら海も行けそうだ……」
サメは嬉しそうにそう言って、一緒に冷房の効いた車両から降り立った。途端に、あらゆる方向からの熱が身体中を包み込む……下車するまで完全に忘れていた夏とは、本当に短い別れだった。他に電車を降りる人はあまりおらず……そもそもが一両編成の電車だ。ともかく、オレたち以外の人はあまりにも少なくて……若い人ともなればなおさらで、それは駅の改札を過ぎても同じだった。
夏季休暇中を全て練成に充てる……そんな計画を教官に却下されたオレとサメは、1泊2日の小旅行に行くことにした。だけど、日にちも迫っていたから有名な観光地の予約なんて何処もいっぱいで……どうにかやっと探し当てた行き先がこの、ひなびた海辺の小さな町だった。新兵教育隊が駐屯する町からバスで大きな駅まで出て、そこから3時間も電車に乗り続けて、ようやく到着した。向こうは雨だったのに、ここは太陽が眩しいくらいの快晴だ。生温い風に乗って、潮の香りがする。
「サメ、昼に食べる予定の店はここから歩いて20分くらいかかるんだけど……歩いて行く? もしタクシーを使うなら、乗り場は反対側の出口なんだ。オレはどっちでも大丈夫だよ。」
「おぉ、すっかり使いこなしているな……そうだね、せっかくだから海でも見ながらのんびり歩いて行こうか。案内をそのまま、ユキにお願いしてもいいかな?」
別に、オレはこの町に詳しい訳ではない。最近になってオレが初めて購入した携帯電話の為だった。長期休暇に入ると当然、帰省する同期も居るため皆バラバラになり……緊急時の連絡を回すため、連絡手段を休暇前に入手する必要があった。その必要性に駆られて購入した携帯電話……その操作を覚える為に、サメがこうして実地で課題を出してくれている。そのおかげでオレはここに至るまでに電車の時間も調べられたし、運賃の支払いも出来たし、評判の良さそうな定食屋の情報も調べられた……多分もう、どこへだってサメを連れていける。
「もちろん! こっち、着いてきて」
二人で、海沿いの道を歩いた……潮風の匂い、空き地に打ち捨てられた錆びだらけのボロい車、海鳥の声、遠い汽笛の音、沖に立つ白波。どれもきっと、この町のありふれた日常に違いないけれど……サメは楽しそうにそれらを見つけては、関連する色んな話をオレにしてくれた。楽しそうなサメを見るのも、同じ知識や感覚がオレのものになっていくのも嬉しかった。
あの夜、サメと相棒になってから3ヶ月が経っている。必死に練成してはいるけれど当然、オレのあらゆる識能はサメに追いつけていない。だけど練成する以外にもこうして……サメと同じ物を見たり同じ体験をする事が、練成と同じか、それ以上に大事であるような気が、今はしている。もっとサメを知りたいし、そこに自分をどうにかして近付けていきたいと常々考えている……この、サメに近づきたいという想いはやっぱり、憧れのようなものなのだろうか。そんなことを考えていると、
――ニャーン
猫だった。首輪こそ無いが毛艶が良い、地域で面倒を見ているのであろう……黒い、子猫。それが民家の脇から、歩道を行くオレたちの前に躍り出てきた。いかにも可愛らしい存在で、庇護されるべき生き物の形。二人して思わず足を止めると……そのまま子猫は、手前のオレを無視して通り過ぎ、サメの足元に纏わりつく。
「おお、なんだなんだ……悪いけど、何も持ってないよ……」
そう言いながらもサメは、しゃがんで子猫の顎の下を優しく指で撫でてやっていて……子猫は子猫で、まるで話しかけるように鳴きながら頭をサメの足に擦り続けている。別になんでもない光景のはずだ。優しい人間と人懐っこい猫が出逢えばそうなるだろう、という当然の流れかもしれない……それでも。
胸が痛んだ。その光景を見た瞬間、心臓が跳ねすぎて自分でも驚くぐらいの衝撃だった。嫌。嫌だ。目の前で起きている事実も嫌だったけれど、思い出してしまった事も嫌で堪らない……遠い記憶の中で、忘れかけていた痛み。オレが一家の中で偽物になってしまったあの時の事。ずっと冷めたフリをしてきていたけれど……きっと失った最初の頃には、この痛みがあったはずだった。息が詰まって心拍数が上がる。今の自分がどんな表情をしているのかすら解らなくなってくる……すると、
「ほら、どいたどいた。」
突然、構う事を切り上げたサメはそう言って子猫の首根っこを掴むと、あっさり民家の脇に戻した。そうして子猫を触っていない方の手でオレの手を掴むと、さっさと歩き出す。
「ユキ、今のうちに行こう……いや、知らなかったな……猫が、苦手だったんだな? さっき凄い表情になってたから……びっくりしたよ。アレルギーはあるかい? もしあるんなら、すぐに手を洗ってくるけど……」
手を引かれて歩きながら後ろを振り向くと……子猫はこちらを見ているが追っては来ない。その様子を見て段々と心拍数が下がっていくのを感じる。それに伴って回復してきた冷静さによって、明確に認識した。これは、憧れではない……そうでなければ、こんなにも痛まない。かと言って家族愛の類でもない……あの時はオレ自身を押し殺せたけれど、きっと次はそうはならない。できない。やらない。したくない……絶対に。
つまりはあの夜、教官の前で口をついて出た言葉が真実だった。オレ、サメが好きなんだ……それも人間愛とか、同期愛ではない感情で……戯れついた猫にまで嫉妬してしまうほどに。そう結論付いた瞬間、様々な想いが頭の中で渦巻きだして……その奔流に飲み込まれる前に、どうにか一言だけ捻り出した。
「……診断こそ受けてないけど、痒くなっちゃうから猫は駄目なんだ……ね、少し行った先にコンビニがあるから……そこで手洗いを借りて洗おうか……?」
痒くなるなんて嘘だった。でもきっと、サメは優しいから……オレがそう言うならもはや、二度とオレの前で猫に触れる事はないだろうし、急いで手を洗いに行くに違いなかったから。そしてオレはそうやって稼いだ僅かな時間で、絡まった自分の頭の中を整理することにした。
真夏の炎天下、海辺の小さな町で……オレは途方に暮れていた。




