第六章 爾後 (二)龍見
「晶……連絡も寄越さずに帰ってきたと思ったら、一体……どういうつもりだ?」
半年以上振りの実家、父の部屋。過度に荘厳な桃花心木製の机の前に私は立っている。鮫上との勝負に負けた私は、冬期休暇に入るなり実家を訪れていた。相馬の導きに従って除隊届は既に回収してあったので、目の前で青筋を立てている父が言いたい事は決まっていた。
「何のことでしょうか、父様……」
素知らぬふりで、しらを切る。
「晶! いいから、絶対に止めなさい。お前が進めようとしている、進路の件だ……」
「士官候補生学校に行くのは、以前から決まっていた話ではないですか……」
「その先の話だ! 後援者である我々が、何も知らない訳がないだろう! あそこがどういうところなのか、お前はまるで解っていない……」
赤くなったり青くなったりする父の顔を見て……もう少し動揺するかとも思っていたのに、私の心は何処までも平静だった。それは私の中の価値観、優先順位あるいは死生観。あらゆる尺度が、この4年間で変わってしまったからに違いなかった。
「父様、心配して頂いてありがとうございます。しかし、決めた事なので……この後は、本社はおろか、関連企業にもお世話になるつもりはありません。お目障りなら、実家にももはや顔を出しませんから……」
「違う、そうじゃない。私は本当に、本当にお前を心配しているんだ……だからもう、晶が軍を辞めるとしても構わない。どこかに適当な役職も用意する。結婚せずに家にずっと居たっていい……あそこが何故、あんなにも人が少ないのか……お前は少しでも考えた事はないのか?」
乱暴に椅子から立ち上がって、顔色悪く、何かに突き動かされて焦るように話す父。こんな父を見るのは初めてだった……いつも威厳に満ちた、私の模範であり、かつては、目指すべき存在であったから。
「父様、私には一体何の話だか……」
「お前の行こうとしている、特務二班の話だ!」
父の怒声を皮切りに、急に匂いが部屋に満ちた……むせ返るような、丁子の甘い香り。
「おいおい、駄目じゃないか……」
姿は見えず、声だけが聞こえる。相馬と一緒に私の前に現れた理外の者。その声だけが父の部屋に響いている。どこから発せられた声かも知れないそれが、確かに聞こえる。
「名前を出しちゃ駄目だって、言ったじゃないか……悪い子だなぁ、龍見クン?」
解らない。私の耳の後ろから聞こえるようでもあったし、正面から投げ掛けられているようにも感じられた。それは、目の前の父も同じ様に感じているのか……正面を見据えたままで、目線も動かせずに固まっている。
「ま、君とボクの仲だものね。今回は許してあげるさ……でもね、君が何と言おうが晶クンは貰っていくよ……もう、ボクのだからね……」
そう聞こえたきり、声は聞こえなくなった。あれほど部屋に満ちていた丁子の香りは、始めからそんなものは無かったかのように、余韻すら残さず消えていた。そのまましばらく二人とも動けずにいたが、糸が切れた様に椅子に身体を預けた父は、そのまま椅子を回転させると、私に背を向けて
「……本当に、どうしようもなく困ったら……連絡しなさい……」
そう言ったきり黙ってしまった父。表情は伺えない。私は一礼して父の部屋を後にすると、そのまま、実家を出た……もしかすると、二度とここには帰って来られないのかもしれない。来る前から胸にあったその予感は、先程の不思議な体験を経て、より実感を増しつつあった。大佐や相馬の言う怪異は本当に存在しているのだろう……そうしてきっと、これから私は死ぬような目に会うのかもしれない。それでも。
それでも私は、あの男を選んだ……私の心は、囚われたままだったから。以前と違うのは、追い続ける事を許されただけ。十分だった。ただそれだけで、私はまだ生きていける。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃい、龍見さん……大丈夫だった?」
中央にある私の実家から電車を乗り継いで30分、そこから歩いて5分……相馬の自宅に呼ばれていた私は、彼女の好物だという老舗のカステラを手土産にして彼女の家を訪ねていた。今日、諸々の調整が終わって決まったばかり、という今後の話について聞くためだった。
「大丈夫だ……ちょっと、肝が冷えたけどね。」
何かを察したのかふふふ……とだけ笑って手土産を受け取った彼女は、部屋に上がるように勧めて先導する。用意されていた、到底私には似合いそうにない可愛らしいスリッパを履いて私は後に続いた。着いた席で淹れてもらった紅茶を一口頂いたところで、相馬が始める。
「まず、龍見さんには当初の予定通りに士官候補生学校に入ってもらいます……少尉で卒業、それから配属されるのは中央の師団。まだどの連隊かは決まってないわ。」
異論はない。無言で頷くと、相馬は続ける。
「大事なのはそこからね……配属はされるけど、ずーっと連隊付。まず猟兵課程、間を置かずに空挺課程、それが終わったら戦闘潜水課程、最後に特殊戦課程……そこまで修め終えたら、晴れてウチの将校よ。丁度、タイミング的には中尉になって配属、って感じね。」
聞いているだけで気が遠くなる話だった……思わず相馬に聞く。
「なあ相馬、もっといいやり方って……本当にコレで合ってるのか? 時間が掛かるし、私は別に……上等兵で配属でも構わないんだが……」
「駄目よ!」
新兵の時も号令すらまともに腹の底から出せなかった彼女……そんな相馬の大声を聞いたのは初めてかもしれない。そのせいもあって、私は呆気に取られる。彼女は、はたと我に帰ると声を潜めて……少し意地の悪そうな声で私に囁いた。
「そんなことで勝てると思ってるの、龍見さん……?」
「……どっ、どういう事だ、相馬……一体誰に、何の……」
「兎川君よ。龍見さんだって本当は解ってるんでしょう……いい? 今二人は、4月からウチに配属が決まっているのよ。そこに後から只々そこに加わっただけで……今の決定的な差が、埋められるのかしら……?」
痛い所を突く。新兵の頃はあんなにも柔らかな印象だった彼女も、この会わなかった3年の間に色々とあったのだろうか……あったのだろうな。ともあれ反論できない私は黙る他無い。相馬はそんな私の様子を見て続ける。
「確かに、厳しい条件よ……でも将校はこの条件を達成しないとウチに入れないっていうのは決まりなの。どうしようもない。でも、コレを乗り越えたら……龍見さんは鮫上君の上官よ。いわば、女上司なのよ。」
「……女、上司……?」
途端に、相馬の言葉が魅惑的な響きに聞こえてきた。すかさず相馬は続ける。
「しかも将校であれば、訓練の計画も作戦の構成も出来るわ……解る? 龍見さんが主導的に決められるのよ……もちろん、大佐の決裁は要るけどね。」
良いのかもしれない……いや、良い。良いな。はや既に、妄想の中の私は訓練の命令を起案している。勿論、私と鮫上の……
「相馬、ありがとう。迷いは晴れたよ……私は、将校として君らの部隊に行くことにするよ。少し待たせるけど、待っていてくれ。」
「信じていたわ、龍見さん……こちらこそ、ありがとう!」
相馬はそのおっとりとした目に涙さえ浮かべつつ、私の両の手を包み込むように握った……この時、私は本当に良い同期を持ったものだと思っていた。
彼女に自分が持たされていた将校相当の業務をどうにか手放したい、という思惑があったと知ったのはずっと後のこと……私が配属されてすぐだった。やはり彼女は、会わない間に色々あったに違いない……絶対、そうだ。




