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除隊  作者: 丸隈
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第六章 爾後  (一)鮫上

「天狗(てんぐ)? ……それってあの、顔が赤くて鼻の高い?」


 ユキは突飛(とっぴ)な話に思わず、こちらに顔を向けて聞き返してきた。頭を洗っていたために泡に塗れた顔が、目を閉じたままにこちらを向いている。僕は僕で、洗面器の湯を頭に掛け、泡をすっかり流してから答える。


「そう。その血が、残っているんだってさ……だから、見えたらしい……」


 今、僕らは龍見との勝負を終えた後……昼食を摂(と)って、午睡(ごすい)してから隊員浴場が開くなり、ここに来ていた。日曜日の午後は、普通の兵隊なら誰だってギリギリの時間まで柵の外で遊びたいものだ。故に、広い浴場は僕ら二人だけの貸切状態である。


「そっか、それなら……右(・)で見えるのか。いや、オレには見えてても無理だけどね……」


 龍見の話だった。魔魅と野鉄砲を討伐したあの夜……喫煙室で大佐から告げられた事実は、にわかには信じられないものだった。曰く、龍見家には天狗の血が入っている……秘匿されているので知る者はほとんど居ないが、間違いなく怪異の末裔である、と。一族みんな、身体が大きくて頑強だろう? とも言われたけれど、僕には比較対象が龍見の父親と姉しか無かったので何とも言えなかった。


『今代の龍見は血が薄ぎるからね、今の君では幻窓を持ってしても捉えられないだろう……ボクが鍛えてあげるよ。嬉しいだろう、鮫上クン?』


 大佐はその夜から次の日の一日中、僕の幻窓の練成に付き合ってくれた。お陰様で、微弱な怪異の存在でさえも察知できるようになり……そのせいで今も、視界の端に何(・)か(・)が映り込んでいる。浴場に入る前から解ってはいたが、眼帯を着けて風呂に入る訳にもいかないのでもはや諦めていた。



「それにしたって別に、余裕って訳じゃなかったんだろ……だったらさ、サメが小銃を捨てる必要はなかったよな……?」


 よく立てられた泡で肢体を洗いながら、ユキは不満そうな声色で言う……実際、不満だったろう。怪我などせずに終わらせられるのなら、そうして欲しいと思っていたに違いなかっただろうから。軍格闘において、どうも合理に徹しきれないところがある僕は……こうなったらユキに詫(わ)びる他ない。


「ユキ、心配かけてゴメンね」


 それでもきっと、ああでもしないと龍見は満足しなかった筈だ。仮に勝負を味気なく終わらせた場合に、今日と同じ結末になる気はまるでしなかった。もっとも、僕がそう思いたいだけ……自分の行動に意味があったと信じたいだけなのかもしれないけれど。



 それから少しの間、二人で黙って身体を洗っていた。先にシャワーで身体中の泡を落としたユキは、立ち上がって湯船の方へ行く……と思ったら、


「……いいよ、これで許してあげる……」


 そう言って、僕の腰に手を添えて背後にしゃがみ込んだユキは、折れて痣ができた左脇腹に口付けた。柔い唇が触れて肋(あばら)にズキ、と鋭い痛みが走って……思わず身体を大きく痙攣させ、少し情けない声が漏れ出てしまった。その反応に気を良くしたのかフフフ、と小さな声で笑うユキ……曇った鏡越しでは、一体どんな表情をしているのかすら知れない。


「……痛いんだ? ……ねぇ、サメ……すごく心配したけど……格好良かったよ……」


 ユキの両手が僕の腹直筋の起伏に沿って、その白く細い指を川面に揺蕩(たゆた)う水草のような滑らかさで遊ばせている……再び、脇腹に熱い吐息を感じた。刹那(せつな)、折れた肋に沿って小さな舌が這う。熱い。痛みなのか熱なのか、最初は解らなかったが……これは、熱だ。口付けられた箇所を起点として、僕の脳髄まで犯してしまう熱。



――ガラララ……



 浴場玄関の引き戸を開ける音が、小さく響いた。やがて脱衣所に談笑する声が徐々に満ちると、ユキは静かに立ち上がって湯船へと歩いていく。少し遅れて金縛りから解放された僕は、慌ただしく冷たいシャワーを身体に浴びせ、暴走する熱を鎮(しず)める他無かった。





◇ ◇ ◇





「そういえば……オレへのお願いって、何なの?」


 さっき起きた事はひょっとして僕の白昼夢だったんじゃないか、と思えるくらい自然な調子でユキは僕に話しかけた。今は居室に戻ってから、各々で洗濯物を片したりして一息ついた所だった。ユキは僕に背中を向けて自身のベッドに寝転がっている。僕は丁度畳んでいた洗濯物をロッカーに仕舞ったところだったので、件の書類をロッカーから取り出して扉を閉めた。


「そうだ、それを忘れていたな……危ない危ない……」


「ふーん、忘れる程度の事なの? 何でもあげるって言ったのに……」


 不貞腐れたユキのベッドに腰を下ろし、そっぽを向いた小さな頭を左手で撫でると、ユキは少しくすぐったそうに身を捩った。


「いや、何でもあげるって言うから何でも貰おうかと思ってね……逆か? この場合は僕が、何でもあげる事になるのか……?」


 手元の書類の裏表をひっくり返しながらそんな事を言っていると、焦れてきたのかユキが転がってきて半身を起こした。書類を目にしたらしいユキの動きが止まる。


「でもね、ユキ……確かに僕は勝ったけれど、結構これは繊細な問題でもあるから……だからもし、ユキが嫌だったら断ってくれてもいいよ。」


 言葉の途中で、手元の書類を奪われる。ユキは目を皿のようにして書類を見つめている。


「サメ、これってどういう……」


「僕らで家族になろうかって話だよ。同い年とは言え、僕の方が年長だから親になれるんだ。どうかな、ユキ……鮫上雪になるっていうのは……」


 まだユキは反応できていない。固まっている間に続ける。


「あの日の夜に、ユキの話を聞いて解ったよ……もう僕の方が、ユキじゃないと駄目なんだ。負けて龍見のところに行っていいって言われた時は、本当に辛かった。ユキが僕と離れる未来を容認した事が、とても苦しかった。みっともないと思うだろうけれど……きっと僕はユキに執着している。離したくないし、縛り付けたいって思ってる。だから……」


 途端にベッドから跳ね起きたユキは、自分の机に養子縁組届を置くや否や、もの凄い勢いでガリガリと記入しだす。氏名、生年月日、住所……その他諸々の必要事項を全て記載し終えたユキは、ペンを机に置いて振り向いた。


「サメ、書いて……今すぐ。」


 真っ赤な顔だった。大きな目は落涙こそ免れているが、潤いを湛えている。


「いいのか、ユキ……自分で言うのもなんだけど……執着深い男だぞ、僕は……」


「ふん……オレの方が、サメよりずっと、ずっと執着深いんだ……思い知らせてあげるから、早く書いて。もう、後戻りなんてできないからな……」


 そうして、ユキの見守る前で僕も記入した。証人はオレが集めるから、と言ってユキは届を大事そうに封筒に仕舞うと、それを自分の鍵付きキャビネットに収納する。



 それからしばらく、ユキは上機嫌そうに……新しい苗字を何回も、メモ用紙に書き連ねては練習していた。僕はそんな様子を……傍でずっと、飽きる事なく見ていた。

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