第五章 特務 (九)望外
目を覚ました私の視界に映ったのは見慣れた格闘場の天井だった。どうやら格闘場の真ん中で仰向けになっているらしい……フェイスガード、胴プロテクター、ファールカップも全て、身体から取り除かれているようであった。身体はまだ、動かない。
少しずつ回りだした頭から手繰り寄せた最後の記憶は、顔面に振り下ろされた鮫上の鉄槌。いくら防具を着けたとて、食らって平気なものではない……私の意識を刈り取り、敗北を決定付けたものに違いなかった。ふらつく思考と身体中の痛みが、愛の営みの余韻を感じさせる。
「起きたか、龍見……」
愛しい男の声がした。どうにか目だけを動かして視界を動かすと、少し離れた位置で胡座をかいて座っている。頼む。もっと近くに来てくれ。きっとお前は、私を捨てていくに違いないから……最後くらい、もっと近くに居てくれないか。
まだとても、声は出せなかった。それでも、鮫上はゆっくり立ち上がって私の傍に来ると、そこでまた胡座をかいて座る……想いが通じた気がした。時間と共に私の視界は除々に明瞭になりつつあった。視界には天井と、私を案ずるように優しい目を向ける男だけが映っている。その右目に、黒い眼帯が装着されている。
「良い狙いだったな、龍見。大分前に龍見が銃剣の投擲を試した時は、僕は武器を捨てるだけの無駄な行為だ、って言って、ちょっと怒ったけれど……片目となると本当に怖いもんだな。今回で一番肝が冷えたよ。銃剣を抜いたところも見えなかった、上手くやったな……」
鮫上が滔々と、私たちの営みを振り返る。
「その前の踏み込みも、絶妙だったな……まんまと釣られかけたよ。そういう、龍見の勝負に貪欲で、身体的弱点だろう何だろうが突いていくところ、僕は好きだな。それだけ龍見は、僕に本気だったんだな。ありがとうな……」
当たり前だ。当たり前の事だから、礼なんか言うな。もうこれで最後みたいな、そんな言い方をするな……こんなに、お前はこんなにもやれるんだから、きっとお前はまだやれるんだ。
一緒に説得しよう。誰を? 誰でも。頼む。傍に居てくれ。
「……それで、僕からのお願いの件なんだけど……」
捨てないでくれ。
「……さっ、鮫、上」
回らない舌で名前を呼んだ。少し前まで私を捨てるのだろう、と諦観していた心と、子供のように駄々を捏ねながら捨てないでくれ、と叫ぶ心が同居している。相反する二つの心は矛盾であり、真実でもあった。感情の奔流に溺れた私には、助けを呼ぶように、愛しい男の名を呼ぶ事しかできない。
「なんだい、龍見……」
私の顔を覗き込む鮫上の表情は、先程まで殺し合う勢いでまぐわっていたとは思えない程に柔らかい。私は今からみっともなく抵抗する。誰に聞かれても構わないし、呆れられてもいい。この男を手に入れる事だけにしか、私はもう誠実になれないのかもしれない。
「……お願いで……私を、軍に、縛り付けようったって、無駄だからな……もう、除隊届を、出してきたんだ……ハハ……ハ……」
さすがに驚いたのか、鮫上の眉根が少し上がる……少し、いい気味だった。最後の最後まで、こんな奇襲しか成功させられなかった事だけは、本当に残念でもあるが。
「……お願いだ、鮫上……私を、求めてくれ……結婚してくれだなんて、贅沢は言わない……子供だって、別にいい……傍に置いてくれ……それだけで、私は……」
お願いしていいのは鮫上だとは解っている。それでも言わずにはいられなかった。涙は勝手に溢れて、目尻から伝っていく。いつか阿賀田大尉に言われた事を思い出す……確かに私は、図体だけ大きな子供だ。地面に寝そべって泣きながら、乞うているのだ。
「驚きだな、龍見……」
そういいながら鮫上は、手にしたハンカチで優しく私の目尻を攫った。
「……僕もね、そうお願いしようと思っていたんだ。」
言っている意味が解らなかった。痛みを無視して、首を鮫上の方へ向ける。
「龍見、除隊届を出したのなら話は早い……僕と一緒に来ないか。」
望外の喜びだった。それ故に脳が理解できていなかった。途中式がまるで解らないのに正解だけが飛び出してきた突飛さに、私は完全に置いていかれた。そんな様子を見て鮫上が、
「どうした龍見、やっぱり嫌か? 軍や実家に、未練があるんじゃないのか?」
「……そんっ、な訳、ないだろう!」
痛む身体を無理やり起こして、鮫上の両肩を掴んだ。
「軍も実家も、もはや関係ない……もう私は、鮫上じゃなきゃ駄目なんだ。お前が居ないと、何処に行っても満足に息も出来やしないんだ……」
慌てるでもない鮫上はそうか、と一言漏らすと、私の目を見据える。
「龍見、悪いんだけど……僕は一緒に来なよ、とは言えるけど……一緒に来るかどうかだけは先に決めて貰わないと、何処に連れて行くかも言えないんだ。ひょっとしたら君は……ついて来た事を後悔するかもしれない。そこには僕が居るっていう事ぐらいしか約束できないよ……それでも龍見は、」
焦れったかった。思わず勢いよく抱きしめると、収まっていた身体中の痛みが騒ぎ出した。鮫上も折れた肋に響いたのか、身体を小さく痙攣させた。構うものか。
「どこにでもついて行く、何でもする……鮫上の隣に居られるのなら、そこが私の居場所だ。後悔など、するはずもない……」
少しの間、沈黙が二人の間に横たわった……私は、そういう場面だと信じた。そんな経験はこれまでひとつも無かったけれども、きっと今は、そういう流れの場面のはずだと確信した。
だから私は……鮫上から身体を少し離して、鮫上の唇を奪おうとして、
「おい、やり過ぎだぞ龍見。」
後ろから投げかけられた言葉と同時に、折れている肋に襲来した鋭い蹴り。私は悶絶して、思いを遂げる事無く床に転がり込んだ。
「オレの女房に何してくれてんだ、まったく……サメもサメだぞ。何かさっき、満更でもない雰囲気じゃなかったか? これもう、半分浮気だろ……」
居たのか、兎川……クソッ、もう少しだったのに……痛みに悶えていると、他にも人の気配を感じる。いや、ようやく私が周りを認識できるように回復してきただけだったようだ。
「龍見さん、久しぶり……除隊届、まだ回収できるでしょ? もっと良いやり方があるから、後で回収しましょ。これからよろしくね。」
相馬が言っている事も飲み込めない。見慣れない制服……これからも、よろしく?
「やぁ、ご苦労だったね鮫上クン。」
本当に知らない人だ。相馬と一緒に入ってきた人。相馬と同じ見知らぬ制服に身を包んだ、大佐の階級章を肩章に付けた……美人。男か女かもわからない。
「ありがとうございます、大佐……いや、骨が折れました。これを言う時に比喩じゃなく本当に折れてるっていうのは、なかなか無いですね……」
鮫上が親しげに言葉を交わす。大佐とやらも楽しげに笑う。回りだした頭の中、彼らの話が繋がりつつある。私も歩兵なのだ、勘は働く方だ。他の情念の方がずっと強いというだけで。
「さて、龍見クン。龍見、晶クン。君の素晴らしい素質は見させて貰ったよ……実に良いね。何より、ボクの鮫上クンが君をウチに欲しいと言うのなら、ボクには断る理由なんかないさ。きっと活躍できるだろう……その見立ての上で聞くけれど、ボクのところに来るかい?」
考えるよりも速く身体が動き、私は床にひれ伏して乞うていた。
「どうか私を、大佐殿の部隊に……必ず、貢献してみせますから……!」
その場の皆がどんな表情をしていたのかは、伏していた私には解らない。
「よろしい、ならば君を特務小隊第二班に迎え入れよう。特務小隊第二班は、軍に係る怪異――妖怪だの悪霊だのの類を退治する専門部隊だ。そして僕が特務小隊第二班長の白鳥大佐……名を白鳥冥という。よろしく頼む。」
伏したまま突拍子もない話を聞かされた私は、自分の表情さえ解らなくなった。ただただ、新しい何かが始まる小さな予感だけを胸に感じていた。




