第五章 特務 (八)死合
いつの頃からか、私たちの逢瀬に審判を置かなくなった。軍格闘練成隊の先輩方にやってもらった時もあったが、どう考えても無粋だった。私たちの間には、何も不純物を介在させたくはない……取ったも取られたも、お互いに理解できるようにすれば良いだけだ。だから鮫上に頼み込んでそうしてもらって以来、審判はいない。
だから今、この10メートル四方の枠組みの内側には私たち以外に誰も居ない……何人たりとも、この睦み合いは邪魔立て出来ないのだ。もし邪魔するならば、誰であろうと許さない。
この場に居ない馬の代わりに、私が蹴り殺す。
鮫上は小銃を構えたまま、こちらの様子を窺っている。始まりは大体そうだ。この男はいつだって、気持ちのいい勝負をさせてくれる……私が練り上げた策と技術をちゃんと毎回毎回、出方を見て確かめてくれるのだ。ちゃんと私にお披露目をさせてくれるし、その上でちゃんと遠慮なく叩きのめしてくれる。そして終われば褒めてくれるし、次へのアドバイスもくれる。これが愛でなければ一体、何を愛と呼ぶのだろうか。
私がジリジリと左に足を運んでいくと、鮫上もまた、同じように左へと足を運んだ……同じ恒星を中心に回る惑星のように、二人の軌道が円を描く。そうして足を時折止めると、鮫上もそれに応じて止まる。そうだよな。そうなんだよな、鮫上。右側に回られるのは、とても嫌なんだよな。解っているぞ、調べたんだから。お前は視界を3割も失っている……そこは紛れもない弱点で、急所で、今や私の好物だ。
食い千切ってやる。
私はジリジリと続けていた左回りの円運動から突如、急速で右斜め前に踏み出す。そこは、鮫上の刺突距離からは僅かに遠い位置。だが、今の鮫上なら。遠近感を掴みにくい鮫上なら……来た。
食いついて、来た。
向かってくる鮫上の顔、その左目に向け、踏み込む前に後ろ手に抜いた銃剣を投げつける。手にした小銃を顔の前に振り上げて、弾いた鮫上。これだ。この時を待っていた。私はもう、左に跳んでいる。お前の死角だ。もう私は溜めていた脚を解き放って、直突の動作に掛かっている。貰った……!
絶対に入る……私の突きが、死角からお前に入るぞ。そうしたらお前はきっと勝負あったと見て、その手を下ろすだろう……本当に私が狙っているのは、その後だ。お前が戦いを止めた瞬間に、お前を私の手で殺すんだ。私は本当に、お前が好きだから。本当に愛しているから。
だから、私の手で死んでくれ、鮫上! 私もすぐ、行くから……!!
――ダァン!
いつか見た景色だった。鮫上の喉元を貫く勢いの直突を放った小銃が……私の手元にない。
馬鹿な、何故なんだ。あの日の勝負以降も幾度か味わった、武装解除の術理に違いなかった。
しかし、それはおかしな話だ……相手の飛び込んでくるタイミング、重心、距離感、あらゆるものが見えていないと出来ないと言っていたのは、鮫上自身だったじゃないか。
いつか見た景色と違う点があった……鮫上は私に、留めを刺していない。呆然と立つ私と、後ろに跳んで私から距離を取った鮫上の間に……やや私よりの位置に、小銃が転がっている。そうして鮫上は下がった位置で、微動だにせず……何かを、待っている。
私を、待っているのか。
言葉は無くとも、男の姿勢と佇まいがそう語っていた。今私は、この男に求められている――そう認識すると、途端に身体の軸に電流が走った。脳と髄を焼く甘い快楽は、私の心臓を異常な調子で脈打たせている。私を構成する全てが、はやく、はやくと急かして叫んでいる。
鮫上から目線を切らずに、小銃を拾い上げる。そういう事なんだよな、鮫上……留めを刺さないって事は……いいんだよな、もう、本当に、知らないからな。
小銃を、枠組みの外に放り投げた。足元に転がっていた銃剣は、蹴飛ばして退けた。それを見届けた鮫上は同じように小銃を放り投げ、銃剣を投げ捨てた。そうして出来上がったのは、いつか見た景色で……今ここにある私の、原風景だった。
せっかちな私は、すぐに間合いを詰める。偶然にも、鮫上と同じ行動を取ることになった。気持ちが通じ合っていて嬉しい。好きだ。
そのままの近すぎる距離で殴る。殴る。殴る。私の鍛えられた手指、磨き抜かれた筋肉に、それを支える骨と腱に喜びと快楽の衝撃がやってくる。
殴られる。殴られる。殴られる。はっきりと私の身体に伝わる。私が殺してしまったと思っていた男は、死んでなどいなかった。この当て感、踏み込み、破壊力、どれも抜群だ。まるで失われていないし、衰えてもいない。ほんの少しも。私の細胞を殺し、筋肉を裂き、腱を断ち、やがて骨をも砕く打撃だ。好きだ。好きだ。好きだ。
両肩を掴んで左脇腹に右膝を突き刺す。プロテクターで対処できない高い位置にめり込んだ膝に、鮫上の肋骨の低く鈍い断末魔が響いて伝わった。想いが伝わって形になるというのは、きっとこういう事に違いなかった。愛しい鮫上の全身に、私の存在の証を刻み込む。好きだ。
膝蹴りから解放された鮫上は、頭と身体を曲げて右側に体勢を崩した。今だ。
無防備な頭を左側から渾身の左フックで打ち抜く。きっとこれで鮫上の意識は一瞬だけでも飛ばせる。飛ばしたら、どうする? 後はもう、私の好きにしていい。そうだ。そのはずだ。そのはずだった。
誘われていた。左フックの腕をそのまま掴んで潜り込んだ鮫上に、私は投げられる。左手を掴まれたまま右手足で受け身を取った直後に、そのまま床を蹴って掛かっていこうとするが、掴まれていた左手が極められている。一瞬だけ躊躇したが、すぐに腹を決めた。構うものか、折れ。折れてもこのままやってやる。そう思った瞬間、
パッと手が解放される。想定外の行動、ほんの一瞬の自失。その間に放たれた蹴りが、私の側頭部を蹴り抜いた。全てがスローモーションに見え……今まさに意識が薄れていき、飛ぼうとしているのを知覚した……嫌だ! まだだ! 終わりたくない! 悪夢から醒めようと抗うようにして、必死で目を見開くと、どうにか意識を取り戻す。
しかし場面は僅かにスキップしていた。私の腹の上に……鮫上が乗っている。その発達した太腿が私の体側を万力のように締め上げ、金剛杵を握った仁王のように拳を振り上げている。
咄嗟に顔を守ると、その拳は鳩尾に突き刺さる。身体の芯に響く、貫くような鈍く強い痛み。たまらず腕を下げてしまった所を、顔を目掛けて拳がやってくる。もはやどちらの拳かは解らないが、きっとどっちもだ。何度も。何度も。殴られている。殴られ続けている。遠のく意識に抗えない。溶けていく。
ああ、好きだ。好きだ、鮫上……応えてくれて、ありがとう……




