第五章 特務 (七)慕情
今、私はただ一人、格闘場で待っている。私の想い人を。格闘場の中の10メートル四方の枠組みの中で、正座で待っている。横に小銃と銃剣、それからフェイスガードを置いている。胴プロテクターやファールカップは既に着用しており、もはや肉体の一部かのように馴染んでいるが……本当は何ひとつ、この身に着けたくはなかった。身を守るはずのそれらはもはや、今から始まる営みを濁らせるような、醜悪な不純物であるかのように感じられていた。
今、この10メートル四方の枠組みの外には、私のものは何もない……いや、捨てたのだ。実家からの度重なる呼び出しや連絡には一切応答せずにいたし、つい先程格闘場にやってくる前に、中隊長室のドアの隙間から除隊届を差し入れてきた。念の為に中隊の人事軍曹の机の上にも置いてきたが、今日は日曜日なので発見されるのは明日だろう。いずれにせよ、これで私は実家からも軍からも放逐される身となる……これでようやく、私になれた。
全てを捨て去ろうとしていたあの日、私の企みを阻止した上に手付まで押し付けてきて……勝負を申し込んできた男を待っている。私より少し小さい上背、少ない筋肉量で……変幻自在の多種多様な手技で私を惑わせ、打ちのめし、投げ飛ばし、叩きのめしてくれる私の愛しい、比類無き男を。
私はただ一人、待っている。この2週間は眠れなかった時など無かったし、食事が喉を通らない、などと言う事も一切なかった。私は生活の全てにおいて、今日の日の為に最適な行動を選択し続けてきた結果……今の私は、心身共に最高潮の状態にあると言って良かった。身体中には溢れんばかりの力が漲っているし、阻害するものを全て捨ててきたため、私の思考はどこまでも明瞭だ。ただただ、鮫上を倒す――殺すためだけに私はここに居る。
きっと私は勝てると思う。視野欠損と深視力低下は例外なく、あらゆる格闘家の選手生命を終わらせるものだ。だからひょっとすると、始まってしまえば……これまでのような全力で掛かっていかなくとも、鮫上に勝てるのかもしれない。だとしても。それでも私は、手を抜きたくない。全力で戦った結果、間違って鮫上を殺してしまったとしても……そっちの方がずっと良いとさえ思う。これはもはや倫理観とか合理性とか、そんなケチな感覚では到底処理することの出来ない私の情念で、呪いだった。
だから私は、そうしてしまった時にはここで死ぬつもりでいた。そのために枠の外に置いたタオルの中に刃物を忍ばせてある……鮫上を殺した後、その上に折り重なって死ぬことを夢想すると……そんな術もないのに、そうする事によって私の愛しい男を永遠に、死後も私のものに出来る気さえした。
負けた時の事も考えた。あの約束をした時、鮫上は何も考えていなかったに違いない。だから今日、言われる前に除隊届を出してきたのだ。そうやって、私が今後も軍に貢献していく、という事は願えないようにした上で……その上さえ、鮫上が私を求めないのならば。きっと、私は除隊した後でひっそり、気取られぬよう死ぬだろう。
学生の時分の私なら、きっと今の私を見て馬鹿にするに違いない。大事にしていた何もかもをかなぐり捨て、ただ一人の男を追い求めているなど考えられないはずだ。それでも私は……事ここに至っても、自分の選択を悔いたりしていないし、何かをやり直したいとは思わない。これからどの結末を迎えても満足できるし、その結果、残される者たちはどうやっても迷惑を被るに違いなかった。ようやく知れた本当の私は、生粋の利己主義者だった。
格闘場の入口に、人の気配を感じた。建付けの悪い引き戸をガタガタと鳴らしながら入ってきた鮫上と兎川。その後から、見知らぬ二人が続いた……いや、一人の顔に見覚えがあった。忘れもしない、新兵教育隊の同期だった。
「鮫上、今日は随分と観客が多いな……わざわざ懐かしい同期まで証人に連れてきたのか? 気が利くじゃないか……婚姻届は持ってきたか?」
「龍見、今日は残念ながら婚姻届の出番はないから……怪我の心配だけしていてくれないか、なるべく優しくしてやるから……」
嬉しい煽りだった。100点満点だ。自信無さげに来られては困ってしまうところだった……やはり鮫上は、そうでなくてはならない。例え負ける事を覚悟していたとしても、素振りも見せずに鮫上は同じように言っただろう。それでこそ私の、人生で最後の死合の相手だった。これで私は全力で、鮫上を殺しに掛かっていける。
フェイスガードを付ける。樹脂製の壁で、鮫上と私が隔てられてしまった。とうとう最後まで、目の前の愛しい男とはこの壁2枚越しでする営みしか知ることが出来なかった。それも今日で終わりだ。結果がどっちに転がろうと、終わり。
銃剣を腰の斜め後ろに差す。姿勢を戻す時に鮫上を見やると丁度、身につけていた黒い眼帯を外すところだった。露わになった少し開いている眼窩は暗く、底が見えない――月星のない夜空か、はたまた夜の井戸のようだった。意識を奪われたのはきっと、少しだけ残っていた私の罪悪感のせいに違いなかった。その数少ない人間性さえ、フェイスガードをガン、と叩いて追い出す。
鮫上はまだ目の前でフェイスガードを着けているが、待ちきれずに私だけ小銃を持って立ち上がると、視界に兎川と相馬が映り込む……その時、本当に申し訳無い事をした、と思った。鮫上を見つめる表情で解る……兎川は間違い無く、鮫上を愛しているに違いない。その気持ちには性別も社会常識も倫理観も一切関係ない……私の鮫上に対する想いと、方向性は違いこそすれ同じ性質のものであるはずだった。私はそうした者からも、鮫上を奪うのだ。
やがて防具を装着し終えた鮫上が立ち上がる……その手には小銃を携えており、全ての準備が整っていた。
「それじゃあ、やろうか龍見……いつも通り、二本先取だ。」
「いいや、鮫上……一本にしよう。その目じゃ大変だろう?」
気遣いは嘘だった。本当は、一本にしないと私が持たなかった。もう始まってしまったら、この暴力を止められないと解っていたから。
「わかった……じゃあ、一本きりだ。」
そう言うと、私と鮫上は小銃を構え……一瞬の沈黙の間を置いて、死合が始まった。




