第五章 特務 (六)執着
大佐の部屋において行われた行動後の検証は、つつがなく終了した。その全てを取りまとめていた相馬はもはや今日中にでも、電子計算機を使ってデータ化まで済ませてしまうらしい。一段落ついたばかりなのに大丈夫か、と聞くと
「確か明後日、龍見さんと会うんでしょう? せっかくだから私も行こうと思って……だから今日と明日中にやれる事は片しておこうかなって……」
そうだ。そうだった。忘れていた訳ではないが、もう明後日に迫っていた。ここのところ、すっかり怪異討伐に掛かりきりだったので……当然、軍格闘の練成など一切していない。大佐たちがこちらにやってくるまでの4日間こそ練成していたけれど……失明以前のように動けるような段階には、到底至っていない。
少ない時間ながらユキと練成して解った事は、深視力低下による距離感のズレだけが問題ではないという事だった。それよりももっと厳しさを感じたのは、単純に視野が狭くなった点。片目喪失によって、僕は単純に視野の30パーセントを失っている……当然、それだけ相手の挙動や手技を見落とす可能性は高くなるだろう。まして相手が龍見ほどの者であれば、尚更。
「ねぇ、サメ……本当に明後日、やるの?」
夕食を終えて二人部屋に戻ってきた僕とユキは、それぞれのベッドに転がっていた。唐突に投げ掛けられたその不安げで小さな声は、暗に戦えば負けると言っているようにも聞こえる。実際、そうなってしまうのかもしれない。そうだとしても。
「あぁ、やる。約束したからね……」
約束を違える訳にはいかなかった。あれだけ龍見を煽ってやったのだ……これで僕が勝負の場に現れずに逃げ回るような事があれば、龍見は男性不信にでもなるかもしれない。それだけで済むならまぁ、死なれるよりはよっぽど良いのだけれど。
ふと、右目の位置を触る……今は相馬から渡された革製の眼帯に守られており、その下には幻窓が眼窩に収まっている。相馬曰く、この眼帯を被せている間は幻窓は機能しないらしい……四六時中、変な靄を見続ける事にならなくて本当に助かったと思う。左目も閉じて指先の感触に集中すると、眼帯越しにも生身のような仄かな熱を感じた。
ギシッ、とベッドのスプリングが軋む。ゆっくりと移動している僕よりも弱い沈み込みと、接近する高い体温。目を開けなくても解る……ユキは足元の方から四つん這いでマットレスの上を這い、僕の真横で身体を横たえたようだ。その小さな息遣いから、こちらを向いているであろう事が窺える。恨み言ぐらいは幾らでも聞こうと思っていたら、
「……いいよ、負けちゃっても……」
予想だにしない言葉だった。思わず目を開けると、ユキは寂しそうに微笑んでいる。
「オレ、ずっと考えてたよ……何が一番、サメの幸せになるのか……龍見はさ、良い奴だよ。ちょっと……いや、結構、粘着質だけど、それだけサメの事を好いてるんだと思う。何より女だし、結婚だってできるし……子供……サメとの、子供だって……作れる……」
たどたどしく言葉が紡がれたが、嗚咽は無かった。僕を見据えたその大きな目から、大粒の涙を溢し続けながら……静かに、ぽつりぽつりと下手な嘘を吐く。その大きな瞳に映り込んでいる僕の表情は、今、自分でもどうなっているのか解らない。
「オレは、もう幸せだよ……誰にも必要とされていないと思っていたけど、軍に入って、サメに出会って……誰かと助け合って想い合える事を、その喜びを知った……オレが今、生きてるのは、サメのおかげなんだ。だからもしサメが負けて……龍見と一緒になっても……オレは、オレはね……一緒に居たいって言ってくれて……愛してるって、言ってくれただけで……もうオレは、一人でも……」
我慢ならなかった。勝手な未来を語る……かつて僕がユキにした仕打ちでもあった。だが、許せなかった。全てを諦めて、受け入れたかのように泣くユキ。そんな事をさせている自分。龍見に勝てないかもしれないと考えた自分。どれも許せない。なにが相棒か。なにが女房か。
怒りとも焦燥とも知れぬ衝動に突き動かされるまま、覆い被さるようにしてその身体を掻き抱いた。僕よりもずっと小さくて、薄く、柔らかな曲線を帯びた身体。胸を強く抱き締めすぎたのか、ユキの肺腑を通して唇から小さく声が漏れ……ややあって、ユキは恐る恐るその手を僕の背に回した。そうして抱き締めあって目線を交わさないまま、
「僕は明後日……龍見に勝てないと思うか?」
「……今回ばかりは、サメでも厳しいと思う。」
ユキは少しだけ言い淀んでから呟く。斥候狙撃兵は楽観主義者ではない。正しい。
「よし、解った。一方的で悪いが……僕が勝ったらひとつ、お願いを聞いてくれ。」
「……いいよ、何でも言う事聞いてあげるし……何でも、あげるよ……」
言質を取った。こうなったらもう、僕は何が何でも勝とうとするだろう。そしてもう、勝手に離れていかないように縛り付けるつもりだった。軍に入るまでの僕の人生で自分のもの、と言えるものは少なかった。ひょっとすると、何も無かったのかもしれない。ユキはそんな僕の前に現れた綺羅星で、北極星だった。そのひたむきさと高潔さに今まで、僕の方こそずっと救われてきたに違いなかった……紛れもなく、僕の執着の対象だった。
「約束だぞ……今度は、ユキが見ていてくれ……」
◇ ◇ ◇
やがてユキが眠りについた後、僕は部屋を抜け出してロビーの方へ歩いて……通りがかった喫煙室の硝子越しに大佐の姿を認めた。向こうも気付いたようで、手招きしている。引き戸を引いて中に入ると、部屋中に立ち込めた丁子の甘い匂いが漂ってくる。
「やぁ、こんばんは……調子はどうだい、鮫上クン?」
煙草を燻らせながら、大佐は聞いた。それは唯の挨拶だったのかもしれないが……掴める物なら何でも掴みたい心境だった僕としては、次期上司を頼ってみる良い契機でもあった。
「……大佐。明後日、自分は勝てないかもしれません。」
「えぇ? 本当かい鮫上クン、そりゃまたどうして……?」
もう夜なので小声ではあったが、演技でもなく本当に驚いた様子だった。
「やはり片目だと、距離感と狭い視野が問題で……以前のようには、とても……」
そう言うと、大佐は何かを考える素振りを見せてから……あぁ、そうか……と呟いて、何かに合点がいったかのような反応を見せた。
「そうかそうか、それで……相馬クンも戦々恐々としていたんだな。」
「相馬が?」
「うん、なんだかね……龍見さんがまさか、今になってまでも挟まってくるなんて……兎川君の鮫上君が取られちゃう……って怯えていたよ。」
ハハハと小さく笑うと、大佐は短くなった煙草を灰皿に優しく擦りつけて捨てる。どうやら僕は、色んな人に心配される程度には勝ち目が少ないらしい。この対戦予定で賭けをやるとしたら、僕の倍率は相当高いに違いない……そう思っていると、
「どうだい鮫上クン、今回の討伐の報酬……その一部として、勝負に勝つための良い情報を教えてあげようじゃないか。更にその上、ボクが稽古をつけてあげるよ……どうかな?」
願ってもない申し出だった。顔を上げると、大佐の造りの良い顔がニヤ、と笑う。
「いやなに……君も兎川クンも、もうボクのだからね。そりゃ、肩入れぐらいするさ。」
灰皿の奥底の残った火種から、甘い煙が一筋だけ立ち上っていた。




