第五章 特務 (五)細雪
それから、無線機で相馬を呼び出して作戦終了を告げる。ようやく車の中から解放されて、器材の撤収にやってきたユキは……大佐が想像していたよりも、ずっと大人しかった。相馬と一緒に狙撃拠点に現れたユキに、開口一番で大佐が声を掛ける。
「兎川クン、悪く思わないでくれ……さっきのアレは」
ユキは投げ掛けられた声に俯いていた顔を上げ、僕の方を見やった一瞬……その目を大きく見開いた気がした。しかしすぐにいつもの調子で、
「いいんです大佐、相馬さんから聞きましたから。早く撤収しましょう……サメ、狙撃銃一式と観測器材、拠点の痕跡除去はオレがやるよ。その傷……この包帯で止血してからでいいから、相馬さんと一緒に他の器材をお願い。」
そう言って僕に弾性包帯を手渡すと、撤収に加わって誰よりも精力的に動いた。大佐以外の3人で器材を格納し、二度ほど往復して車両に積載していく……その途中、二人きりになった相馬が小声で囁いた。
「フォローしてあげてね……」
頷いて答える。半ば騙し討ちで車に閉じ込めたのだ。終わった後から論理的で合理的な説明をされたとしても、それで心の靄が完全に晴れる事は無いはずだった。
やがて撤収が完了し、車両に全員が乗り込む。行きと同じく、後部座席は僕とユキだ。前席でハンドルを握っているであろう相馬が、エンジンを始動させながら言う。
「まず軍病院で傷の処置をしてからホテルに戻ります。ホテルに着いてからは別示する時間に集まって、行動後の検証。その後は実行班の器材だけ整備して終わり。ホテルの部屋は日曜日に退室予定だから、明日はゆっくりすると良いわ。」
仕切り壁のスモークガラスが閉じられて、ゆっくりと車両が走りだした。荒れた道を抜け、訓練場を抜け出して舗装路に至る……快適な乗り心地になった頃にふと車内を見渡すと、仕切り壁とそのガラス、サイドガラス、あるいはドア本体……あらゆる所に抵抗の跡が見られた。
「サメ、包帯取り替えるよ……そのまま、座ってていいから……」
ユキはそう言って、救急品ポーチからガーゼと包帯を取り出すと……静々と僕の前に跪く。そして手袋を脱いだ時に、その白魚のような手指と甲に痛々しい痣が見えた。思わずその右手を手に取ってしまうが、ユキは左手で僕の手を剥がしながら、
「大丈夫だから。先に包帯変えるから、待って……」
優しく制止された。ユキは感染症防止用の医療用手袋の封を切って、中から光沢のある黒いニトリル製の手袋を取り出す。ユキの白く形の良い手指が、宵闇のように暗い手袋に包まれて段々と見えなくなると……その手指の造形にぴったりと適合し、艶めかしい輪郭を顕にした。きっと収縮色である黒と白い肌のコントラストが成せる、淫靡さに違いなかった。
ユキは僕の左腕に巻かれた包帯を丁寧に剥がすと、止血状態を確認して……血を吸って重たくなったガーゼを取り除くと、新しいガーゼを当てて、新しい包帯をクルクルと巻いていく。優しく僕を気遣う手つきであり、心を惑わせる魔性の手つきでもあった。
包帯を取り替え終えたユキは僕の前に跪いたまま、古いガーゼや包帯、脱いだ医療用手袋を袋に纏めると……突然それを床に捨て置いて、僕の腰に縋るように抱き着いた。間を置かず、くぐもった泣き声が漏れ出す。嗚咽で小刻みに震える頭を慈しむように撫でる。
「解ってる、サメ、解ってるんだ……オレの為にそうしたって事も、さっき全部教えて貰ったから解ってるよ、でも、でも……」
しゃくりあげながらポツポツと紡がれる言葉を、僕は黙って聞いた。
「怖い、怖いんだ……また、オレの知らないところで、サメが危険に向かって……傷付いて、死ぬ……オレを置いて死ぬかもしれないのが、怖い……だから、お願いだ、サメ……」
ユキは顔を上げた。いつか見た、ウサギのような真っ赤で潤んだ目。
「全部、全部教えて……龍見の時みたいな短慮は起こさないって、絶対に、約束するから……絶対にサメの指示に従う……サメは大事な……オレの……」
嗚咽に悶えながら懸命に振り絞られた言葉を聞いた僕は……ユキを抱えあげて抱き締めた。背中を優しく擦りながら、頭を撫で続け……ユキが泣き疲れて眠るまで、ひたすらそうした。
出来ない相談だった。何かを秘する事でユキを救えるのなら、きっと僕は何度でもそうするだろうから、そんな約束はできない……だからずっと身体を撫でて、心を落ち着かせ続ける事だけに徹した。卑怯な僕の身勝手を、許して欲しいと願いながら……
到着した軍病院での処置は、あっという間に終わった。刃物で切ったようにパックリと開いた傷口だったのが幸いして、傷口の消毒と医療用接着剤の処置で済んだ。唯一苦労したところと言えば、何が原因で出来た傷なのかを医官に尋ねられた事ぐらいだろう。
ホテルに到着したのは昼前だった。ホテル内のレストランで4人で昼食を摂った後、検証の時間を1600と示された僕たちは、時間まで自室の中で器材の整備をしていた。分解して、磨き上げ、物によっては油を差し……黙々と続く作業の中で、ユキがポツリと
「ねぇ、サメ……オレまだ、今日の評価聞いてないんだけど……」
頬を膨らませたユキが、不満そうに漏らす。しまった、いつもの習慣なのに。
「忘れていた訳じゃないよ、ユキ……今まで、頭の中でずっと反芻していたんだ……あんまり見事な狙撃だったからね……」
最後の器材である三本足を格納しながら、僕はそう嘯いた。ユキはもう、整備を終わらせて整備用具をバッグに仕舞っているところだ。何か手を動かしているけれども、僕の言動に耳を傾けているのが見て取れる。
「気温、風向、湿度は尋常の範囲とは言え、狙撃で最も大事な視界……その視界の自由が大幅に制限された特殊な状況下で、よく狙撃に成功した。準備期間のギリギリまで練成を積み重ね続けた、ユキの尋常ならざる精神力と類稀なる感覚の賜物だな……」
ユキは素知らぬ顔をしているが、仕舞い終えたバッグのファスナーを開けたり閉めたりしている。僕は整備を終えて、部屋の隅に格納箱を置いた後、ベッドに腰掛けてから続ける。
「今回の狙撃で再確認したけれど、やっぱりユキの射撃の強みは姿勢だよな……軍格闘なんかでもそうだけれどね、本当に上手い人って言うのはやっぱり、身体と小銃なんかの武器がもはや一体になっているんだよな。ユキの射撃姿勢は本当に綺麗で、足の爪先から人差し指の先端に至るまで狙撃銃と一体になっているんだ。わかるかい? 無駄を削ぎ落とした機能美という」
「も、もういい、もういいから。わかった……」
話を切り上げると、顔を赤くしたユキは立ち上がって整備用具の入ったバッグを部屋の隅に置いた。それから何か言いたげな様子で、僕の隣に腰掛けると……俯いたまま、
「サメ……いつか言っていたけど……オレ、綺麗か……?」
愚問だった。
「勿論、綺麗だよ」
「サメ……オレって、可愛い、のか……?」
当然であった。
「少なくとも、僕にとっては一番可愛いよ」
「サメ……サメは、オレの事を……どういう風に思って、そう言っているの……?」
問われてから思い返してみると、僕は今の今まで、ちゃんとユキにそうだと言葉にして伝えた事がなかった気がしてきた……なんという、酷い女房だろうか。そう思っていると、沈黙に不安を覚えたらしいユキが僕のシャツの裾を掴んだ。その手が、震えている。
「ユキ……正しい表現かはわからないけれど、愛しているよ……」
はたと手の震えが止まる。
「僕は演習の状況中に、2人で1食の携行食を分け合う事になった時にちょっと多い方をあげたいと思ったり……毛布が奇数だったら1枚多く渡してあげたいと思ったり……」
裾を掴む手が、解かれる。
「それだけじゃない。いつも……それこそ、寝ても覚めても、一緒に居たいと思っているし、失いたくない。だから、きっと……僕は、ユキを愛している。」
次の瞬間に、横合いから思いっきり抱きつかれて……2人して僕らはベッドに倒れ込んだ。腕の傷にジーンと響いたけれど、構わなかった。
視界の隅、窓の外。雪が静かに風に舞っていた。




