第五章 特務 (四)夫婦
「いやぁ、兎川クンには悪い事をしたな……」
走り去っていくユキの後ろ姿を見送ってからしばらく後、大佐は小さく呟いた。僕は格納箱から小銃とその他付属品を取り出しては、身の回りに装着しつつ答える。
「相手が見えないなら近接戦闘は無理です。視界を繋いだところで狙撃と近接戦闘では勝手が違いすぎますし、大佐の守りが手薄になります……これが最良の行動だったと、後で理解してもらいましょう……」
「なぁ、鮫上クンも一緒に説明してくれないか? 怖いんだけど、ボク……」
「指揮官の大事なお仕事を、兵隊風情が奪えませんよ……それで、未来は変わりましたか?」
ユキから剥ぎ取った外套を纏いながらそう聞くと……投擲場の方を遠い目で見つめたまま、大佐はああ、と答えた。
「あのままこの場に留まっていたら、兎川クンは危なかったね……もう安心していいよ、ついさっき、大丈夫になったようだから。その外套と、車に施した隠形符のおかげだね」
前日の夜に、明かされた話だった。曰く、怪異を殺すと……殺した者と殺された怪異の間に縁が生まれ……その縁を辿って、怪異と縁深い他の怪異を呼び寄せる可能性があるのだ、と。そしてこの外套は身に付ける事により、縁を外套の方に繋げてくれるらしいのだ。つまり今、ユキの着ていた外套を纏った僕のところに……何かが接近している、ということだろう。
「やはり兎川クンに最初から教えておいても良かったんじゃないか……このままだと終わった後、滅茶苦茶怒るんじゃないか?」
怒るのは間違いないだろうが、どうしてもリスクは局限したかった。龍見を殺すため部屋を飛び出そうとしたユキの行動を考えると……土壇場で非合理的な行動を取る可能性があった。だからこそ話を聞かされた時、僕はユキには隠す方向で進めたのだ。この任務はまだ、お試しらしいのだから……そんな事で、ユキを危険な目には合わせられない。
「一体何者が、どれくらいの速度で接近しているかは解りますか?」
話題を変えるため、小銃に消音器を取り付けながら大佐に尋ねる。発砲音を低減できるのは良いが、装着してしまうと銃剣が装着できない所が僕の好みではなかった。
「狸はね、ずっと同じ番――夫婦で生きていくらしい。つまりはきっと、さっき殺した魔魅の相方だろうね。さぞかし怒り心頭だろうな。それでも魔魅程度の存在で……ボクが居るようなところに立ち向かってくるのは普通、考えられない……という事は、野鉄砲かな?」
聞いた覚えのない名前だった。その沈黙を受けて大佐は続ける。
「魔魅が更に老いた妖怪だ、とも言われていてね……さしずめ、姉さん女房だったのかもね。相手の視界を奪ったり、対象の身体に取り付いて生き血を啜ると聞く。後は蝙蝠を使役すると聞いた事もあるな。用心してくれ……あと3分も経たない内に到達するぞ……」
幻窓を装着するようになってから、僕の中に新しい感覚が備わった気がしていた。その感覚も、大佐の推測が正しい事を知らせている。この場所に向かって人間ではない何かが尋常でない速度で接近しているのを、ざわざわした胸騒ぎのように感じる。小銃に弾倉を込めて、槓桿を引いて装填した。安全装置も外した。
「ところで、大佐はご自身の身は守れますか? ……何か、お手伝いは要りますか?」
確認を受けて一瞬の沈黙の後、大佐はフフフ、と少し嬉しそうに笑った。
「いやいや、本当に優しいな鮫上クンは……安心してくれ、君がその外套を着ている限りは、相手は君からしか殺さないよ。その次がボクだろうね……でも大丈夫さ。」
こちらを振り向いた大佐……いつもの冷厳な印象を湛えた切れ長の目に、慈愛を感じさせる微笑みが浮かんでいた。
「死ぬ前には助けてあげるから、思いっきりやりなさい。」
大佐は笑いながら、まるでどこかの助教みたいな事を言った。それを聞いて合点がいった。きっとこれも試験のひとつだったに違いない。ユキは嘔吐を繰り返しながらも狙撃を成功させて自身の力量を示した……ならば、後は僕だけだ。そう思っていた次の瞬間、
―― 怨。
どこから出してているのかまるで解らない……獣とも人とも取れるような腹に響く鳴き声を上げながら、弾止めの崖下から橙色の靄に包まれた怪異が飛び出して着地した。四足歩行で、大きい。体長1.5メートルはあり、立派な尻尾までも含めると2メートルに達するだろう。来る方向は解っていたので距離は取っていたがそれでも15メートル程しかない。事前の用意がなければ、とっくに軍格闘で対処すべき距離感であった。
――シュカカカンッ!
用意はしていた。消音器を装着した小銃は遊底と槓桿の動作音を立てながら、特別製の弾頭を3発吐き出す……が、胴体を狙った射撃は全て尻尾で受け止められた。野鉄砲はその大きな尻尾を身体の全面に出し、頭と胴体のほとんどを射線から隠している。
「鮫上クン、胴体か頭を狙うんだ……どうも、向こうも学習しているようだぞ……」
後ろの方から大佐が言った。おそらく目の前の野鉄砲とやらは、魔魅が死ぬところを見たのだろう……大佐の言う通り、こちらのネタは割れているようだ。そうでなければ先程の射撃には反応できなかったはずだから。
―― 怨!
耳に纏わりつくような不快な鳴き声を上げながら、野鉄砲は口から黒い靄を吐き出した……吐き出された靄は煙のように揺蕩いながら、蝙蝠の影を形作ってゆき……形が定まった瞬間にこちらに飛来してきた。
5匹。速いが動きは直線的だ、間に合う。
光学照準器で狙って次々に撃つと、その場で霧散していく。対処できる、出来ている。
――ざわり
胸騒ぎがした。本能の報せるまま左に目をやると、そこに2匹。
迂回させていた? 近すぎる。
そう思うが速いか、左手は無意識に鞘から銃剣を抜く動作に入っていた。やはり、身体に一番近い武器が一番信用できる……日々の鍛錬の結果、最後の最後に縋るものはやはり飛道具よりも軍格闘の技術であった。先頭の1匹を逆手に抜きざまに薙ぐと霧散した……これも当然、儀礼済みの銃剣だったからだろう。
だが、遅れて突入したもう1匹は捌ききれなかった。討ち漏らした1匹が左の肩口を掠めて、その姿が消えた。振り返った先には何も居ない……かと思えば、掠めた箇所が戦闘服ごとパックリと切り裂かれて出血に見舞われる。
やや深く、派手に出血しているが動脈性の出血ではない……ならば、今は気にしない。それよりも、
――シュカカンッ!
2発だけ撃ち込むと、野鉄砲はその尻尾で身体全体を守る姿勢を取る……やはり野鉄砲は、射撃をかなり警戒している……ともすれば、僕の活路はきっとそこにある。
「大佐、すいませんが……問題になったら、後でどうにかして下さい。」
小銃を野鉄砲に指向したまま、消音器を速やかに外した。撃ってこないと察知して尻尾から頭を覗かせだした野鉄砲に、消音器無しの射撃を5発撃ち込んで牽制する。
――ドガガガガガンッ!
辺り一帯に7.62ミリメートル口径弾が奏でる轟音が響く。再び防御姿勢で丸まる野鉄砲は、その音も相まってより一層身体を縮こまらせている。残りの15発を射撃しながら走って距離を詰めている僕は、既に左手の銃剣を順手に持ち替えている。
そして弾を全て撃ち切ると同時に……走りつつ、まだ熱いままの銃口に銃剣の輪を通して、装着した。後、5メートル。着剣、よし。
―― 怨!!
身体を丸めたままの野鉄砲が一際大きく鳴くと、突然視界が真っ暗になった。大佐の言う、視界を奪うという異能に違いなかった……これまで見えていた訓練場を見下ろす弾止めからの風景は視界から消え去って、どこまでも闇が広がっている。
だが関係ない。もう僕は走っているし、脳に焼き付くくらいに、野鉄砲を睨み続けていた。今更目を塞がれたところで、何もかもが遅い。
それに、僕の手には着剣した小銃がある。ならば何でも殺せる。僕は歩兵だからだ。
後3歩で届く。見ろ、見ろ! 目を奪った者の仲間、殺すべき相手、その息遣いを。
真っ暗な視界の中にボンヤリ、橙色の靄が形作る輪郭だけが浮き上がる。それで十分だった。尻尾の輪郭を避けて胴体部に深く刺した銃剣。小銃を通じて感じる、肉を押し分けて骨と筋を断ち、臓腑を破壊する不愉快な感触、辺りに響く忌まわしい悲鳴、暴れる橙色の靄。
何度も抜いては、何度も違う箇所を刺し、あるいは何度も切りつけた。効果が無いかもしれないのに、床尾板で打撃も加えていた。試合などではない、本当の命のやり取りだったから、無我夢中で……だから僕は、大佐に声を掛けられるまでずっと続けていた。とっくに鳴き声が止んでいた事にも気付けなかった。
身体中に水でも浴びたかのように汗に濡れて、戦闘服も不愉快に肌に張り付いている。その左袖は自らの血を多分に吸い込んで赤黒く変色し、ただの汗に塗れた箇所よりも確かな重たさが感じられる。負傷してしまったものの、どうにか僕は勝って、野鉄砲は死んだ……荒れた息を整えながら亡骸を見やると、普通の動物らしいつぶらな瞳が見えた。その姿もやがて、黒い靄となってゆっくりと霧散していく。
「……大佐、野鉄砲は消滅しました……他に、接近する気配はありますか……」
「……ないね。おめでとう鮫上クン、初めての怪異退治は見事に成功だ。」
小さな拍手と共にそう告げられて、ようやく小銃を下ろす。
「さぁ鮫上クン、急いで撤収しようか。なんせ小銃の連射音だ、散弾銃とは似ても似つかないからね……面倒臭い事になる前に帰ろう。君の可愛い子ちゃんへの弁明も待ってるぞ。」
「それは大佐のお仕事でしょう……僕は応援していますよ。」
格納箱に器材を詰める準備をしながら返すと、
「フフフ、さっきみたいな熱いところも良いけれど……そういう、つれないところも良いね。ますます気に入ってしまったよ……これからもよろしくね、鮫上クン。」
大佐の作りじゃない笑いを、初めて見た気がした。




