第五章 特務 (三)狙撃
不快感を軽減するために小石を退けてから、敷布を敷いた。砂袋を敷布の前方に形を整えて設置し、そこに銃床の先台を預託するように静かに狙撃銃を置く。オレが狙撃する時はいつもそうで、二本足は使わない。任務上必要であれば安定性の高い三本足を使う事もあるが、選べる時は砂袋を好んで使う。獲物に這い寄る猫のような姿勢変換で、敷布の上に身体を横たえる。握把を握って据銃し、投擲場の中央に向けて銃口を指向する。そこでピタリと静止する。
続いてサメが、オレの真後ろで観測器材の準備を開始する。視差を局限する為に可能な限り低く設置した三本足、その上に両眼式の観測スコープを据え付けて……その他の細々した器材を展開してから、開梱した格納箱を片付けていく。オレは投擲場から目線を切っていないけれど、その様子は音で解った。サメがいくら注意して摩擦音や振動を殺していても、動きの気配で解る。今日もオレの相棒の仕事に間違いはないだろう。観測が始まる。
「……摂氏2度、風速1.5メートル、湿度52パーセント……」
昨日よりも冷え込んだ気温は、実包の火薬燃焼によるガス圧の低下を招き、弾速を少しは下げるだろう……それでも、冷えて発生した霜が気温の上昇に伴って放射霧――靄となって立ち上っていく現象は、風の観測を容易にするはずだ。そして湿度は昨日と同程度……つまりは、今日は絶好の狙撃日和だった。
サメの出した射撃諸元と修正指示を、右手で据銃しながら左手でメモを取る……狙撃を修める過程で必要性を感じ、両利きに矯正したものだ。ペンを置いて修正指示に基づきスコープを操作し、狙撃の準備が整う。据銃を解いて身体を起こすと、時刻は0530……
――00、こちら01車両。投擲場に進入。射場構成を開始する。
無線機から傍受した訓練部隊の音声が流れ、視界のずっと先に投擲場の一角に進入する車両が見えた。その様子を見ながら、オレは保温用手袋に手を突っ込む。決着の時はいよいよ目前にまで迫っていた。
「ここからは僕と大佐で監視しよう、ユキは少しの間休んでいてくれ。」
このままずっと監視し続けた後にそのまま狙撃をするつもりだったが、素直にサメの言う事を聞く……敷布の空きスペースに安息位をとり、目を閉じる。狙撃手と観測手の間では観測手の決定が絶対だ。修正だって、与えられる射撃諸元を元に自分でも計算して確認はするけど、最終決定は絶対にサメだ。オレはサメの言う事なら、何でも聞く。信じているから。
どれほどの間そうしていたのだろうか。弾止めの上の狙撃拠点は、静かだった。小動物――リスか何かが、木々の枝の上を走り抜ける軽快な音と、名前も知らない数種類の鳥の鳴く声だけが時折聞こえる。風が弱い今日は木々のざわめきも少ない。空には淡い青が広がっていて、まだらに配置された雲が緩やかに流れている……その静謐な空気の中で、心が朝起きた時よりもずっと冷めてきているのを感じている。
やがて遠く……投擲場の更に向こうの方で、いつしか発砲音が散発的に聞こえてくるようになった。大佐の準備した、オレたちの仕事のための偽装に違いない。その騒々しい音のせいか小動物の気配が辺り一帯からすっかり消えてしばらく経った頃、
「ユキ、射撃準備。目標は一番的安全係の左、1.5メートル。」
慌てない。滑らかに、かつ素早く身体を起こして姿勢を取り、据銃する。
「視界を繋げるよ、頑張ってね兎川クン……」
大佐の声が聞こえると同時に、視界が二重像になる。スコープを覗き込んで一番的を見通すと……居る。射撃場での練習で大佐の造り出した虚像を覗き込んだ時と同じように……そこには濃い橙色で輪郭を縁取られた何かが、二重像の世界の例外がそこに居た。安全係の左側で、魔魅は何かを待つようにジッとしている。
「距離1103メートル、風速変化なし、湿度変化無し……」
現出した魔魅の位置を元に、サメが射撃諸元を出して修正量を指示した。修正しながら頭の中で計算してもやはり、サメの見立てに間違いはない……相棒の最高の仕事に、オレも最高の仕事で応えたい。
やがて安全係と魔魅の間に、手榴弾を持った投擲手が歩いてやってきて……その動きを追うように、魔魅の輪郭、その頭らしき部分が動いている。投擲手を、見ている。
投擲手が安全係と魔魅の間に収まった。魔魅は動いていない。ここだ。
「撃て」
サメの導きによって……暗夜に霜の降る如く、引き金を絞った。
静寂を破る八・六ミリメートル口径弾の銃声と銃床越しに響く衝撃。即座に槓桿を引いて、薬莢を排出して次弾を装填する。オレはもう、いつでも次を撃てる。銃身が冷え切っていないから精度は下がるだろうが、それを考慮しても外す腕ではない。
「命中、胴部中心。そのまま次弾待て。」
オレもスコープ越しに対象を確認する。魔魅はその場で、しばらくの間のたうち回っているように見えたが、徐々に動かなくなり……やがて橙色の輪郭が、霧散するようにして消えた。周りの安全係も投擲手も、何にも気付かなかった様子で手榴弾投擲を始めだして、やがて訓練部隊の無線音声も流れてきた。
――00、こちら01。手榴弾投擲訓練、初弾開始。現在まで異状なし……
「……対象は消滅、狙撃任務終了。ユキ、弾抜け。」
大佐による視界の接続が終了して、元の視界に戻った。即座に弾倉を抜き取ってから槓桿を引き、装填されていた実包を薬室から排除する。そして銃を静かに置く……そこまでやってようやく、オレは息を大きく吐いた。身体を起こして、膝立ちになる。そこへ、
「鮫上クン、兎川クン……計画Dだ。」
大佐がそう告げた。計画D……計画、D!? 名前しか決めていない計画で、細部はその場で達するとの事だったはずだ……魔魅は討伐し終わったのに……一体、なにを……?
「兎川クンは装備品を現在地に残置して、相馬クンの下へ前進……相馬クンの指示に従って行動してくれ。鮫上クン、装備品を外すのを手伝ってくれ。キミへの指示はその後だ……」
後ろから近付いてきたサメが、後ろから手を回してオレの外套をスルスルと脱がしていく。サメはオレの外套を脱がし終えると、オレの耳から無線機までも剥ぎ取ってしまう。もはや、残置する物は何も無い……命令に従えば相馬さんの下へ急ぐべきなんだろうけど、オレは突然の話に固まっていた。
「ユキ」
急かされた。不安はあった。でも観測手の指示は絶対だったし、サメを信じて走り出した。それに相馬さんの支援ということは、そっちで何か起きるのかもしれない……そう思いながら斜面を転がるように走り抜けて車の位置まで前進すると、後部座席のドアを開けて待っている相馬さんが見えた。
「兎川君、身体に異状はない? ……良かった、それじゃあ後部座席に乗って。」
「相馬さん、あの……一体、何があるの? まだ、二人が……」
「二人は後で来るから大丈夫よ。話は後で……ひとまずドアを閉めるから、入って。」
言われるがままに車に乗り込むと、相馬さんは後部座席のドアを閉める。
そうして……内側から開けられない後部座席に、オレは閉じ込められた。




