第一章 事故 (四)喪失
しばしの沈黙の後、恐る恐る右手を伸ばして右目に触れようとする。そこには包帯が巻かれてあって生身に触れることはなかったが、巻かれた包帯の上からであっても、あるべき眼球の不在を感じることができた。ざらつく包帯の感触の下には、空虚な眼窩のみが広がっている。ハッとして左目の方に手を伸ばすと、そこには確かにまぶた越しの眼球が感じられた。そのまま、まぶた越しに何度か左目を撫でる。それから再び右目の跡地に手で触れると、眼窩よりもずっと大きな穴がぽっかり空いているかのように感じた。
「お前が被弾した鋼片は二つだったが、その一つが回復を見込めないほどに右眼球を破壊した。CTなんかの画像診断では異常は確認できなかったらしいが、眼窩に強い衝撃が掛かっているから、脳機能に何らかの影響が出ている可能性もあるらしい。その辺りの細部は、今後の検査でハッキリするそうだが……」
先任の言葉は聞こえているし、その意味も理解できる。なにもそこまで難しい話はしていないのだから。ただただ、僕の頭は聞いた言葉の内容を全然飲み込めていない……咀嚼ですら、今しがた始めたばかりなのだ。色々と追いつけていない。
目が、無い?
他に怪我はない?
脳に影響?
やっぱりもっと低めに投げてりゃ良かったな
誰の目がないって?
何らかの影響って何だ、片目を失う以上の不便もあるのか?
いや待て……そもそも、片目が無いってことは
頭の中を駆け巡る、既にわかりきった事とまだわからない事、いくつかのどうでもいい事。それらが犬みたいに同じ場所をグルグル回り続けるうち……僕は未だはっきりとそう聞かされてはいないけれども、確かにそうなるであろう推測に行き当たった。
「先任、自分はもう……任期除隊するしかないみたいですね……」
よく解っていた。兵隊である自分が下士官団の仲間入り、つまり職業軍人となるにはどうすればいいか、どのような身体的基準や能力的素養を求められているかを知っていた。今季の選抜試験に合格して、来年の頭からその教育課程に入ることが決まっていたのだから、なおさらそれを知らない訳が無かった。
勿論、軍の中には訓練や不幸な事故・病気などで片目になってしまった将校や下士官も存在している事は知っている。だが彼らがそうなってしまったのは職業軍人となった後であって……だからこそ、軍の中で何らかの居場所が与えられるのだ。僕の場合とはそもそもの条件からして異なっている。
僕のような兵隊の身分で片目を失った場合、それは下士官となる身体能力基準を満たせなくなるというだけのことであった。そして当然、任期更新の身体能力基準をも満たさなくなってしまっている。つまりは僕の場合、任期の終わり――来年の三月終わりには軍隊から去るしか道が残されていないのだ。
先任は何も言わず、ジッと黙って座っている。相変わらず表情は見えないが、先程よりも顔を俯かせているのが影形でわかった。問いかけに対する言葉こそ返ってはこなかったものの、その沈黙は僕の推測を肯定していた。
「お前は本当に、いつも物分かりが良すぎるな。そういうのは後で辛くなったりしないのか? 今なら俺しか聞いていないんだ、好きに振る舞っていいぞ……聞いてやるから。」
少しの沈黙のあと、先任は少し呆れたような、諭すような調子でそう言った。先任はいつも甘くないし、厳しい時のほうがずっと多いけれど、厳しさの中に隠し通せないくらいに、厚い義理人情や面倒見の良さ、懐の深さを持ち合わせていた。施設育ちの僕に親についての記憶はないから確かなことは言えないが……無償の愛というのは、こういうものなのかもしれない。
「いえ先任、多分まだ消化できていないだけで……きっと先任が帰った後、布団を被って一人で泣くと思いますから、今は大丈夫です。」
魅力的な提案に、泣き言を聞いてもらいたい気持ちが出てこなかった訳でもないが、その気持ちは抑えて努めて明るい調子で返す。今が何時かはわからないけれど、面会時間はとっくに終わっているはずだ。いつから傍に居て貰っていたのかは解らないが、なるべく早目に先任を帰して差し上げるべきだろう。
「わかった。話したいことがあったら、いつでも来い……四月以降でもいい。」
そう言うと、先任は両手を上に伸ばして大きく伸びをした。伸ばした手を左右に少し振り、身体の強張りを解している。しばらくして、両手を静かに下ろしながら息を細く長く吐いて、先任は唐突に始めたストレッチを終えた。これまでの話のうち、ここまでが一段落だったのであろう。姿勢を元に正した先任が言葉を発する。
「よし、昨日の話をしよう。まず、時系列順で俺が認識した状況について話すから……それを聞いて、認識が合っているならその旨を。認識が違うところがあれば、お前が認識した状況について教えてくれ。いいか?」
「はい、わかりました……お願いします。」
「昨日の手榴弾投擲訓練の午前中、最後の射群で……一番的の投擲手であった龍見上等兵は、手榴弾を投げ損なったように見えた。これは間違いないか?」
「間違いありません。龍見上等兵は投擲動作をしましたが、手榴弾自体は足元……自分と龍見上等兵の間に落ちたと思います。」
「投擲前の龍見上等兵に変わった様子はなかったか?」
「いえ、傍目には投擲訓練に集中して落ち着いているように見えましたし……不審な様子も、調子が悪そうな様子も無かったです。」
ここまでの話は別に話したところで何でもない。しかし、ここから先の受け答えをどうするべきか、迷いがあった。投擲手であった龍見上等兵、彼女の行動に明らかな過失があるが……それを証言することは、彼女の今後に何か影響を及ぼすのではないだろうか。
「龍見上等兵は、手榴弾を投げ損なった後は何を? 退避したように見えなかったが。」
「……はい、龍見上等兵は……」
言葉に詰まり、舌が空転する。言い淀んでいると、
「言いづらい事があっても、ありのままに話してくれ。真相を究明して正しい教訓を得る……これが一番、これからの軍のためになるはずだろう?」
先任の言う事はもっともであった。それにどのみち、僕の頭脳の程度では変に取り繕うのも能力的に無理があっただろう。正直に見たままを話したほうがいい。嘘を吐けるほど頭が良くないのは、歩兵としては一種の美徳であった。
だからきっと、四月以降の僕は大層苦労するだろう。




