第五章 特務 (一)幻窓
「兎川君、久しぶり。」
サメが巽重工の面接に行く日、最寄り駅でサメと分かれたばかりのオレは、夜の内に調べておいた喫茶店に向けて足を一歩踏み出したところだった。横合いから投げかけられた、その穏やかな声には聞き覚えがある。顔を向けるとそこに居たのは、新兵で同じ班員であった相馬さんだった。オレよりも少しだけ高い目線、柔らかく波打つ茶色い髪……おっとりした垂れ目と柔らかな丸さを湛えた鼻の間には、瞬く星のように雀斑が散りばめられている。
「あれっ、相馬さん。中央のこんなところで出会うなんて……凄い偶然だね。」
「……ううん、偶然じゃないの。」
見慣れない制服を着ていた彼女と、その彼女に誘われるがままに連れて行かれた怪しい車。そこで待ち受けていた同じ制服の大佐。やがてサメが合流してから、国防省の一角で語られた不思議で現実離れした話と、オレたちへの誘い。その全てに感謝していた。
龍見の事は別に、嫌いではなかった。出会った当初こそ班の皆して、偉い目に合わされたりもしたけれど……サメとの最初の勝負を経てからは、本当に同期思いの良い奴になったとオレも思っていたし、その高い識能には同じ生業を持つ者として尊敬すらしていた。まぁ、やたらとサメと勝負をしたがるところに、少し思うところはあったけれども。
その龍見が事故を起こした原因と聞かされて、それでサメが軍を除隊しなければならないと知った時は……絶対に、あの女を殺さなければならないと強く思った。それ以外にオレの無念を晴らす方法はないと信じた。それはサメに止められて、オレの想いを受け入れてもらった事によって、どうにか抑える事が出来た。
だけど。それでも内心ではきっと、静かに煮え滾った淀みが……その奥底に沈殿した澱が、あったはずだった。だからもし、その機会が目の前に転がり込んできたら、きっとオレは内心に従ってそうしたに違いない。
それがまさか真の原因が他に存在していて……ソイツは何をしても罪に問われない対象で、しかもそれを殺す機会がオレに与えられるなんて。気のいい同期を殺さなくてもいいなんて。これからもサメと二人で、相棒としてやっていけるだなんて……疑いようもない僥倖だった。この機会は逃せない。オレはお試しだなんて思っていない。必ず、魔魅を殺す。
「……ぅうっ、げぇぇ……」
そう意気込んでいたオレは駐屯地最寄りの民間経営の屋外射撃場――その1000メートル射座で、もう本日何度目か解らない嘔吐をしていた。もはや中身に固体物は見られないが……胃液と摂取したばかりの水分だけを際限なく出し続ける。オレの背中をサメが擦っている。
水曜日の朝イチにサメとオレを訪ねてきた白鳥大佐と相馬さんは、既にオレたちの狙撃銃や観測器材等の一切合切を掌握しており……それらの器材とともに、丸2日間貸し切られたこの射撃場に連れて来られた。遵守すべき法令に反して射撃管理者すらも追い出し、オレたち以外には人っ子一人いない状態だ。
その前日には二人して、中隊長から命令書を手交されていた。曰く、大臣官房広報課の実施する広報活動を支援せよ、との事であり……この命令によってオレとサメは、この週末までは部隊から離れて自由に行動できるようになった。これは装備品の差し出しの根拠ともなる命令書であり、広報課担当が受領すると記載されていた。きっと相馬さんのことだろう。誰がどう考えても怪しい命令だったが、中隊の誰も何も言わなかった。
慣れた格好が良いので、いつもの戦闘服、戦闘靴、帽子と手袋を持参した。狙撃銃もいつも使用している、調整済みのオレの物に違いない。相馬さんから渡された儀礼済みの実包とやらは、一発だけ分解させてもらって薬莢、弾頭、装薬、雷管の全てを電子秤で計測して検めさせて貰ったが、弾頭の重量バランスまでもが通常の物と変わりない代物だった。
他に渡された物と言えば、外套だった。怪異を相手にする時はこれを付けるんだ……お守りみたいなものさ。と言う大佐の言に従い、オレとサメは戦闘服の上からポンチョのようなそれを着用した。艶のない黒い布地は絹のように滑らかで、軽量だったのは幸いした……これなら狙撃の邪魔にはならないだろう。いよいよ、本番同様の装備品が整った。
試しに標的に向けて射撃する。サメが伝える射撃諸元を基にスコープのノブを回して調整して、引き金を絞るように引く……標的に命中。風に流されて標的の中心からやや右下に弾着。観測したサメが弾き出した修正量に従ってスコープを調整する。3分経って、銃身が冷えるのを待ってから2発目を撃つと……真ん中に命中した。少し心配していた特殊な実包とやらも、これで何ら問題ない事が確認できた。
次に、サメの義眼が試された。相馬さんの手によってサメの右眼窩へと収められたそれは、ころんとした黒い球体で、瞳は描かれておらず……嵌まった状態でも空いたままの眼窩を思わせるような物だった。入れたところで何かが見えるとも思えなかったけれども……当のサメは装着して周りを見た後に、何か合点がいったかのような反応を見せた。
「どうだ鮫上クン、ボクが作り出した虚像の分身がそこに見えているだろう? 巫師しかり、古来から身体の一部を不具とする事により、神秘的な異能を授かる例は多くある……この義眼は、君の開きかけた異能の扉を、開いて増幅しているんだ。理外の者を覗き見るための窓……幻窓と呼ばれている物さ……狐の窓なんかの応用だね。」
続いて格納箱を持ってきた相馬さんが、それを地面に置いて開梱しながら説明する。
「今、鮫上君の視界には……通常の風景の中に居る班長の分身が見えているだろうけど、分身の方は幻窓の方でしか見えていないの。左目で見た通常の風景の上に、幻窓で捉えた理外の者の像を重ねている仕組みね。つまり、これまでの狙撃で使用していた単眼式の観測スコープではどちらかしか見えない……だから、観測にはこれを使用して貰います。」
そういって取り出したのは、両眼式の観測スコープだった。これまでに使用していたものと同様にレーザー測距の他、多種の射撃諸元を出せるらしい。なるほど、これならサメは魔魅を視界に捉える事が出来るだろう。後はその視界を、大佐がオレに神通力とやらで共有してくれれば、オレが魔魅を狙撃できる訳だ……そう思っていたら。
「いやぁ……シンドいだろうとはボクも予想していたけれど、ここまでとはね……」
オレの目にはまるで酔っ払っているかのように視界に映る全てが二重に見えた。いや、ただの二重ではない……オレの視界とサメの視界が重なっているのだが、オレとサメの立ち位置は違うので、当然に視差が生じる。そのズレが余計にオレの脳髄を、その中の空間認識をグチャグチャに掻き回して……繋いでもらった次の瞬間、もうオレは嘔吐していた。
そこから午前中いっぱい、吐きながらも立ち位置を模索した……オレが伏せ撃ちの姿勢で、後ろからサメが三本足で設置した観測スコープを使って観測する配置が最もマシだったけど、それでも狙撃が出来るレベルかどうかは怪しかった。そして午後からは、こんな状態で狙撃の練成――大佐の造り出す虚像を相手に狙撃する練成を始める予定なので、オレは敷布の上に横たわって身体と脳を休ませていた。
「なぁユキ、大丈夫か? 無理は……」
「してない。大丈夫……オレがやる。」
オレのすぐ隣に座って顔を覗き込んでいるサメは、どうやらオレを案じているらしかった。いつもの優しい瞳が、迷いのためか僅かに揺れている。許せない。そんな目をさせてしまう、オレ自身が許せない。自身に言い聞かせるように、その瞳を見つめて言う。
「敵はオレが取る……誰にも譲らない。だからサメ、観測してて……」
サメは黙ったまま、オレの頭を優しく撫でている……その掌の熱と重みに意識を向けていると、いつしか短い眠りに落ちていたようでセットしていたアラームで目を覚ました。頭は幾分か回復して、やる気に満ち溢れていた。午後からもきっと、オレは何度も嘔吐する。構わない。何度も吐こうが、血反吐を吐こうが、この狙撃を完成させて、魔魅を殺す。そしてまた、二人の未来を掴むのだ。
弱ったオレの小さい身体の中に、かつてない程の闘志が渦巻いていた。




