第四章 白鳥 (九)魔魅
「……目を奪った者って……龍見の事ですか。」
沈黙を破ったのは、嫌なことを思い出してしまった……といった感じの、渋面を浮かべたユキだった。大佐は手を横に振りながら、
「いやいや、これは僕の言い方が悪かったな……そうじゃないんだ。どうだい、君たちは龍見の末娘が手榴弾を投げ損ねた、と聞いて……あるいはそれを目の前で見た時に、何も不思議には思わなかったかな? 彼女は、そんな事をやってしまいそうな人かな?」
確かに、不思議ではあった。僕だけはあの、膨大な文量の遺書を読んでいたから、投擲した際の彼女の頭の中をうかがい知る事ができたものの……それでも、頭の中が雑念に埋め尽くされていたとて、手榴弾を投げ損ねるような事があるものだろうか。まして足元に落とすものだろうか。隣で眉間に指を当てて思案するユキも、きっと不思議に感じていたのだろう……僕の相棒は、相手が誰であろうと過小評価はしない。戦闘員としての龍見については、ある程度は買っているはずだ。
「……龍見の末娘はね、あの演習場一帯に住まう狸の成れの果て――魔魅に化かされたのさ。何故かは知らないけれど、きっと投擲時は上の空だったんだろう。そこに目を付けられて……手中の手榴弾を宙を舞う砂塵か、足元の小石にすり替えられた。そんなところだね。」
狸、狸、猯……転じて、魔魅。あまりに非現実的な説明。以前までの僕なら相手にしなかったであろう言説……しかし大佐がそれを語ると、何もかもがその通りではないか、状況に合致するではないか、という気すらした。目の前に座りコーヒーを飲む理外の者は、魔性の語り部でもあった。
「その魔魅とやらを退治する、ということは……今の大佐には、その魔魅に関係した何らかの未来が見えているのでしょうか。」
「その通りだよ鮫上クン。このまま行けば来週の金曜日に……あの演習場で、死人が出るぞ。君たちの師団外の部隊が実施する、手榴弾投擲訓練でね。」
大佐は事も無げに言った。もう来週にも、同じ状況で、今度は人が死ぬ……
「……退治すると言うからにはもはや、事前の調整ではどうにも出来ないという事ですか。」
「話が早くて助かるよ……魔魅はね、先般の事故の件で味を占めてしまったのさ。人の心の隙を突いてチョイと物をすり替えるだけで、人間が血塗れになって大人数が大慌てになる状況を、心底楽しんでしまった……味わっちゃ駄目な成功体験さ。そうなるともう、何度でも繰り返すだろうから、退治するしか術は無いんだ。訓練を中止させれば来週は人死には出ないだろうが……それじゃ、いつまでも実爆を使った訓練が出来ないからね。」
退治すべき理由が積み重なっていく。
「昨日君が見たボクは、魔魅を確認しにあの場所へ行った帰りの途中だったんだ。今はまだ、先般の事故で実弾射撃や実爆訓練が制限されているから大事はなかったけど……それでも魔魅はね、訓練中の部隊にすり替えで装備品を紛失させたり、走行している車両から部品を脱落させたりして遊んでいたよ。もはや龍見の末娘の時のように心に隙のある者が相手じゃなくても、強引にすり替えの術を掛けている。そんな状態で訓練制限が来週金曜日に解禁されて……その初っ端がまたも手榴弾投擲訓練。魔魅にとっては、堪らない好機だと思わないか?」
予言の話も魔魅の話も、まだ話に聞いただけで確たる証拠はない……それでも、自分に出来る事があるのなら何でもやらねば、という考えが頭の中を占めだした時、
「ソイツは絶対に、オレが殺します……ですが大佐、ひとつだけ聞かせて下さい。」
思い詰めたような表情のユキが大佐に問う。
「……サメの怪我は、見えなかったのですか……その、予言の力で……」
「兎川クン、申し訳ないが……ボクの力は、軍に係るもので尚且つ死人が出るものじゃないと見えない、極めて限定的なものさ。ただ、これについては証明のしようがないから……信じて欲しいとしか言えないけれどね。納得してくれるかい?」
目を閉じて頭を下げたユキに、もはや疑問は無いらしい。その間に、僕も覚悟が決まった。
「解りました。大佐、作戦についてお聞かせ下さい。」
「いいとも。まず場所を変えてから……最初に相馬クンの方からお願いしようかな。」
立ち上がって歩き出す大佐……向かう先、部屋の左側の仕切りの向こうには事務所のような一角が広がる。会議机、両袖の事務机が複数、壁面の書類棚、電子計算機、印字機……更に奥には、まだ扉が複数見られる。大佐は会議机の周りの席に座り、僕とユキも並んで着席する。後を追った相馬が、それぞれの手元に資料を置いてから始める。
「お手元の資料に記載した順序で、猿森演習場における魔魅討伐作戦の概要案を説明します。任務は魔魅の討伐、完全な無力化です。敵は魔魅1体。我は班長と私の他に、当地の近傍師団より2名――斥候狙撃兵の支援を受けます。実施日時は来週金曜日0500から0900……手榴弾投擲訓練の初弾の時刻が0800の予定なので、会敵はその前後と推測されます。気象状況は記載の通り。別添で投擲訓練の命令も用意したので、後ほど確認して下さい。」
僕やユキの知る相馬の印象をひっくり返すような説明が始まった……きっと彼女も、ここでの2年間で色々あったに違いない。そのまま彼女の、そこらの将校顔負けの説明に聞き入る。
「猿森演習場内の手榴弾投擲訓練場、ここに魔魅が現出すると予想されます。見積もった狙撃拠点となる地点はそこを見通せる、別紙第2の図に示す3箇所。これは後日、支援を頂く実行組による現地偵察の後に決定します。いずれかの地点から、魔魅を狙撃して討伐します。」
なるほど、僕とユキで現地偵察して、最終的に候補地の中から狙撃拠点を決めるようだ。これは僕らの領分かもしれない。他に確認したい事もあるが、それは一段落してからにしよう。
「狙撃に使用する火器は実行組の慣熟訓練が間に合わないので……班の火器は使用せず、官給品の狙撃銃――兎川特技兵の物を使用します。実包については、これに対応した対怪異用儀礼済みの8.6ミリメートル口径弾を使用します。いずれも手配に問題ありません。使用する近接武器、車両、無線機、管理面は記載の通りです……確認あればお願いします。」
「……確認いい? オレ、妖怪に会ったことないから解らないんだけど……敵にはどれぐらいの距離まで近付けるの? 見積もった地点だと、どれも1キロメートルちょっとあるけど……こんなに離れてないと相手にバレるもんなの?」
ユキが口火を切る。間違いなく気になる点だ……1キロメートル先というのは、そう易しく狙撃できる距離ではない。成功率を上げるために、可能な限り対象に近づきたいと考えるのは僕らとしては当然であった。大佐が答える。
「ボクが確認しに行った時に試してみたよ……900メートル以内にボクみたいな見える人が居ると気付かれるようでね。そうなると逃げてしまうから、狙撃するにはそれぐらいの距離になりそうなんだ。」
どうやら楽な仕事はさせて貰えないらしい。その流れで僕も確認する。
「魔魅はどれぐらいの大きさですか? 急所も解れば知りたいのですが。」
「魔魅は体長1メートル程度だ。もはや狸の大きさではないけれど、君たちが狙う標的としては小さい方かもしれないね。急所は頭から胴体の間に当てられるなら気にしなくても良いよ。当たれば殺せるし、命中すれば弾は反対側にも抜けず、現世に残らない……相馬の儀礼済みの実包はね、とても出来が良いのさ。」
それであれば……距離的にも対象の大きさ的にも、狙撃は可能であるように思える。
「大勢で投擲訓練やろうとしてるところに銃弾を撃ち込むのは大丈夫なの? 官給品の狙撃銃には消音器なんて付いてないから、結構な音が出るよ……そうなったらオレ、撃った後でその部隊の人たちや憲兵なんかに追い回されるんじゃない?」
「いい質問だね兎川クン……もう手は打ってあるよ。訓練場に隣接する銃猟許可エリアでね、0730頃から散弾銃を散発的に撃って貰うように調整してあるんだ……ボクらの射撃が必要な時には、ちょっと変わった銃声が響いても誰も何とも思わない。念の為に狩猟協会を通じて、演習場管理班に連絡も入れてある。」
細かいところまで調整は詰められていたらしい……だが、ひとつだけ……どうしても未だにどうするつもりなのか解らない事がある。それを聞く。
「大佐……何らかの処置で見えるようになった僕が観測手をするのは解ります。まぁできるのでしょう……ですが、それを狙撃するユキに伝える術がないと思うのですが……」
「そう! それはこの任務上とても大事だね。今回に限っては、ボクが君たちの傍にいて……鮫上クンの視界を、ボクを介して兎川クンに伝達することで対処するよ。さっき言っていた、少しだけ使える神通力ってヤツさ。」
今回に限って、という事は次回以降には違う手段も用意されるのだろうか。いずれにせよ、大佐の言っている事が本当なら……思いも寄らない妖怪退治ではあるものの、その中で僕らに求められている仕事は問題なく出来る気がしてきた。
「さ、こんなもんかな……よし、今日は採寸だけやってもらったら、もう帰って大丈夫だよ。君らの制服類と、鮫上クンの義眼の、ね。来週の水曜日に今度はボクらがそっちに行くから、そこで最終的な調整をして金曜日を迎えよう……いいかな?」
異論は無かった。まだ正規要員ではないが、初めての班ミーティングがこうして終わった……失うところであった生き方の再生、その脈動を感じている。それはユキも同じのようで、資料上の地図と携帯電話で見る航空写真や気象情報を見比べて夢中で考え事をしている。
そんな様子を見て尚更……この新しい道に、賭けてみたいと思った。




