第四章 白鳥 (五)予感
龍見と分かれて部屋に戻ると、ユキは点呼に出る準備を終えていた。僕も点呼に出るべく、トレーニングウェアから着替えながらユキと話す。
「背嚢は持って帰ってもらって正解だったよ……背嚢があったら、点呼に遅れていたかもしれない……ありがとうな、ユキ。あれから、龍見はどうにか持ち直したよ。」
ユキは僕のベッドに座って、指先で髪を弄びながら、
「そっか、オレは龍見はどうでもいいけど……結局、やるの? 勝負……」
やや……いや、結構不満そうに聞いた。
「そうだな、そうなった。2週間後の日曜日、10時から格闘場でやるよ。」
ふぅ、と小さな諦めの溜め息をつくユキ。
「で、龍見のお願いは……何だった?」
「僕と結婚して子供を作って、同じ墓に入って欲しいらしい。いやぁ強欲だ……お願いは一個だっていうのに、これを一個換算は無理があるよな。挙げ句、婚姻届の証人を集めておけって捨て台詞まで貰った。何にせよ、元気になって良かったよ……」
次の瞬間、視界が揺れた。何をされたのかは解るし、怪我をしないのも解っているから、慌てない。着替え途中だった僕は今、上半身裸のままでベッドの上に投げ倒されている。腹の上にはユキが乗っているし、両手も抵抗できないようにユキの両手で抑えられていた……完全に馬乗りの状態になっている。
日頃から二人で軍格闘の練成もしているため、こういったじゃれ合いは日常茶飯事だった。突発的に始まる訓練のようなものだが、今のユキの息はとても荒く、傍目にも興奮しているのがよく解る……些か熱が入り過ぎているので、隙が多過ぎる。
「サメ! 煽ってんの!? なんって酷い女房だ! ……オレが、教育しなきゃ」
話している途中で悪いが、姿勢を入れ替えよう。ブリッジでユキの体勢を崩し、生じた隙間を使って僕らの身体を上下に入れ替える。ブリッジした時にユキはあっ、と声を漏らしたが、構わずに進めた。あっという間に、今やユキの小さな身体は僕の下に収まって……その小さな両の手も、僕の手で抑えてある。
「そう、それだ。教育だ……ユキ、これから2週間、空いた時間で僕の練成に付き合ってくれないか? やっぱりまだ、片目でやり合うには違和感がありそうで……」
「あっ、駄目っ、サメ、待って」
拒絶の言葉が聞こえたのは僕の誠意か、技の追い込みが足りないせいだろう……ユキの身体を固定した太腿を少し締め直して、その上体に抱きつくような絞め技の姿勢に移行しつつ……重ねて、頼み込む。
「なぁ、僕にはユキしかいないんだ……頼むから付き合ってくれないか……?」
次の瞬間、ユキは僕と同じように姿勢入れ替えを仕掛けた……のだと思う。小さな声を漏らしながら、ユキの薄い腰が二度跳ねたが……如何せん、体格差があり過ぎてその目論見は失敗したようだ。やや間があって、ユキは顔を真っ赤にしながら、
「解った! 解ったから! 練成付き合う! だからトイレに行かせて!」
そう言った。慌てて拘束を解くと、ユキは脱兎の如く部屋から駆け出していった。そんなに我慢していたとは、申し訳ない事をしてしまった……そう思いつつ時計を見ると、点呼の時間が迫っている。僕は準備を再開した後、点呼を実施するホールへと先に向かった。
やや遅れてホールに来たユキは、さっきまで着ていたのとは違うジャージの下を履いてやってきた。もしかして、間に合わなかったのだろうか……いよいよ本当に申し訳ない事になってしまった。部屋に戻って二人きりになってから、謝罪する。
「さっきはごめんな、ユキ……あの、洗濯とか手伝おうか?」
「……いい、片してから点呼行ったから……おやすみ……」
ユキは睨むような、何かに耐えるようなじっとりとした目でこちらを見た後、すぐに自分のベッドへと潜り込んでいった。僕の方も僕の方で、色々とあり過ぎるくらいあった一日だったから……ベッドに入り込むや、すぐに眠れた。
◇ ◇ ◇
翌日からの3日間は職業訓練に向けての準備とは言うものの、とても緩やかなものだった。スーツを買ったり、壊れた携帯電話を買い替えに行くことですら準備に含まれた。その他には履歴書を書いたり、年明けからの職業能力開発訓練の受講コースの説明を受けたりだとか……とにかく、課業時間中は入隊してから一番の緩さで進んでいった。
反面、課業時間外は充実していた。ユキと一緒に軍格闘の練成に励み、利き目ではない左目のみでの戦闘にとにかく感覚を慣れさせる。心配されていた通り、深視力――奥行きとか遠近感が負傷前とはまるで違っていたため、苦労した。ユキも練成に熱が入っていた。容赦なく僕の弱くなったところを突いてきてくれるのは、さすが僕の相棒だと言わざるを得ない。
何度か、龍見の姿を見かける事もあった。食堂、風呂、ランニングコース……そういったところで見かける彼女は、日を追うごとに肌の色艶も筋肉の張りも良くなっていくのが遠目に見ても解った。龍見は調子を取り戻しつつある……その様子を見る度にユキは苦い顔をしたし、僕との練成にも熱が入っていた。
その週の木曜日、僕は中央にある巽重工業株式会社の本社へ行くため、特急電車に揺られていた……中隊長から聞かされていた、件の面接である。面接は金曜日なので、今日は中央に前入りする。明日は面接が終わり次第、また電車で帰隊する予定であった。そしてボックス席の隣には、休暇を取得してまで付いてきたユキが静かに寝息を立てている。
僕は車窓から、流れる景色をボンヤリと眺めていた。のどかな風景が続くが、あと2時間も走れば都市の町並みになっていくだろう……ふと視界の中に、電車と同じ速度で並走するように低く飛ぶ鳥が見えた。何の気なしに注目すると、その鳥の異様さが目につく。
その鳥には頭が二つあるように見え……やがて、そのうちのひとつと目が合った気がした。そのまま目が離せなくなる。首をぴくりとも動かせず、肌が粟立ち、心拍数の上昇を感じる。周りの音が消えて、徐々に大きくなる心臓の音だけが頭の中で鳴り響く。
これまでの人生で経験のない、異様な状況だった。もしかしてこれは夢かもしれない、そう思ったちょうどその時に電車がトンネルに差し掛かって、車窓が一面の暗闇に切り替わった。途端に身体の自由が戻る……夢では、ない?
妙な胸騒ぎがした。それを追い出すように、トンネルを抜ける前にカーテンを閉めた。




