第四章 白鳥 (四)手付
「サメ! せっかくケーキ……えぇ……それ、本物……?」
外柵に取り付いたまま固まった龍見を引き剥がして、そのまま抱えるようにして背嚢を残置した位置まで戻ると、ユキが既に待っていた。抱きかかえられた龍見を見るや、さすがのユキも驚きの余りに言葉を失う。
「本物も本物だよ、なぁ龍見? よし、ゆっくり下ろすからな……」
龍見は地面に下ろすと、そのまま地面にしゃがみ込む。頭にはキャップ、上下はランニングウェアで靴もランニングシューズ……柵の中でも外でも目立たない脱柵者らしい格好ではあるが、定番ならここに財布や携帯電話なんかを入れるポーチが加わるはずだ。路銀も連絡手段も無しに脱柵する者は居ない……通常ならば。龍見がまともな状態じゃないのは明らかだった。ひょっとしたら柵の中からだけではなく、もっとずっと遠くまで逃げようとした可能性さえも考えられる。慎重な対応が必要だろう。
「なぁ龍見、話を聞かせてくれないか? 一体、何が……」
「ちょっと待って。むしろ龍見から先に、サメに言うべき事があるんじゃないの?」
話を聞き出そうとしたところで、ユキが割って入った。それを聞いた龍見は身体をビクッと震わせ、呻くように、あ、あ……と声を出そうとするが、声にならない。そのうち、身体全体がガタガタと震え始めた。僕らの手に余る状況なのかもしれないな、と考えていると、ユキに手を引かれた。引かれるままに龍見から少し離れたところに移動すると、小声でユキが囁く。
「オレもう駄目。これ以上は龍見をどうにかしてしまうし、龍見は医者にすぐ繋いだ方がいい状態だとも思う……でも、サメがそうしないだろう事も知ってる。だからこの後、どうするかはサメに任せる。任せるけど……なぁ、サメ……」
「ありがとう……大丈夫だよ。ユキが一番である事に変わりはないから、安心してくれ。」
「……んん、そう、それ。それなら、いい。背嚢は二つともオレが持って帰るよ。それから、オレの携帯電話渡しておくから……電話帳の2番に登録してる内線に掛けたら、隊舎でオレが出るから。点呼に遅れそうだとか、助けが欲しい時は言って……」
そう言うや、ユキは携帯電話を僕に握らせて背嚢二つを回収し、サッサと出発してしまう。40キログラムの負荷をもろともせず、小さな背中が遠ざかっていく。それを見送った僕は、近くにある縮こまった大きな背中に向かっていく。
「さ、二人きりになってしまったぞ龍見……そろそろ、何があったのか教えてくれないか……点呼までまだ2時間以上あるから、話してスッキリしてから点呼に行こう。」
そう言って龍見の隣に腰を下ろし……その背中をゆっくりと撫でている内に、身体の震えは次第に収まっていった。僕はなおも黙って撫で続けていると、ようやく龍見は口を開いた。
「……死のうと、思っていた……」
そうポツリと呟くと、龍見はポケットから封筒を取り出した。無味乾燥な味気ない茶封筒に遺書と表書きされてある。それを僕に差し出してきた。分厚い。受け取った僕は、封を切ってその中の便箋を……異様な枚数の便箋を、黙って読み進めた。
それは遺書と銘打った割には、僕と龍見の事しか書かれていなかった。新兵教育隊での自らの過ち、初めての僕との勝負、シャワーブース前での出来事、同期との関係の再生、始まった僕との勝負の日々……僕と同じ部隊に配属されるよう手配したこと、勝てずに苦労したこと、初めて一本取って嬉しかったこと、選抜試験に故意に落ちたこと……それが親に露見し、後が無くなって追い詰められていったこと……あの日の訓練のこと、自らの処分を訴えに行って、自分の浅はかさを思い知らされたことと……そこで初めて、僕が右目を失ったと知ったこと。僕の知らなかった事も含めて、僕と龍見にまつわる全てが、赤裸々にここに書かれてあった。
そして最後の便箋には……好敵手である最愛の男を殺してしまった、とあった。原因は自らの失態に他ならず、生きてはいられないので死んでお詫びする、とも。
長い遺書だった……遺書と言うよりは、もはや恋文に近かった。それだけの熱量が感じられる文章だった。ともすれば、まだ龍見の想いは死んではおらず、今も生きているのだろう……ここで僕が付け入るとしたら、そこのはずだ。
「読んだよ、龍見……それで? 今月の勝負はいつにするんだ?」
龍見はゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。思いも寄らなかった妙な再会を果たしてから今、ようやく目が合った。その目も声も、明らかに狼狽えている。
「鮫上、何を……勝負、だって?」
「いつもの勝負さ、12月の……それともなんだい、僕との結婚はどうでも良くなったか? まぁな、僕もじきに無職だから……龍見の気が変わっても、おかしくはないかもな」
「……そんな! そんな訳ないッ! 私は今でも、お前が! お前だけが!」
凄い剣幕で龍見が身体ごと迫ってきた。その両手首を掴んで、顔を突き合わせる。失われていた龍見の熱が戻って来つつあるのを感じる。
「それに殺してしまったって、何だあれは……別に僕は死んじゃいない。もしかして龍見は……僕が片目を失ったぐらいで、僕に勝てるようになったとでも思っているのか?」
「強がりはよせ! 片目を失うというのは、そんなに軽いものではないだろう……私だって、ちゃんと調べたのだ……そんな身体で、お前は……」
「おぉ、おぉ……やる前からもう、勝てる気でいるんだな……困るなぁ龍見。そんなだから、今まで一度も僕に勝てていないんだぞ?」
「……鮫上ぃ!」
煽られた龍見はそのまま膂力で僕を押し倒そうとするが、それを躱して龍見の右手を後ろ手に極めた。いつもよりも数段あっけなく、龍見の背後をとる。密着した肢体からは、身体の芯から湧き上がる熱を感じた……ようやく、龍見と再会できた気がする。
「それで、いつにしようか?」
「……今からでも構わない!」
腕を完全に極められた状態のまま、気を吐く龍見……背後に居るので確認できないが、その瞳はいつものようにギラギラしているに違いなかった。でも恐らく、まだ足りていない。僕は空いている手で龍見の身体を、その衣服の上から無遠慮に検める。
「うわっ、鮫上! お前っ、何を!」
「やはり、全然駄目だな龍見……何だこれ。ちゃんと食べてないし、休めてもいないだろう。こんな調子で今からやって、僕に勝てる訳ないじゃないか。」
検め終わった僕は、龍見の拘束を解いて前に軽く突き放すと、二、三歩と前に出たところで龍見が身体ごとこちらに向く。常夜灯が無くても解るぐらい、龍見の顔は真っ赤になっていた。潤んだ目には精気が宿り、真っ直ぐに僕を見つめている。いつかのシャワーブース前での出来事を思い出していた。あの時の龍見が帰ってきた。
「龍見、2週間後にしよう。兵隊の僕と出来る最後の勝負だ……それまでに調子を取り戻して、最高の状態で挑んでくれ。その代わりに僕も、2週間で片目の状態に慣らして……いつも通りに、龍見を叩きのめしてあげるよ。」
龍見は無言のまま、その熱っぽい視線で僕を睨みつけている。情欲と破壊衝動が綯い交ぜになった、ドロドロと纏わりつく高い粘度を持つ視線。これまでに何度も龍見から感じたそれは、恐らく龍見の性根とも言えるものであった。
「それで、最後の勝負に勝てたら……龍見は僕に何を望む?」
「分かり切ったことを……鮫上! 私はお前に勝って! お前を手に入れて! 結婚して! 子をなす! そして……最後には、同じ墓に入ってもらうぞ! 実家などもはや、知らん! 軍もどうでもいい……私は……お前の全てを、望む。それ以外にもう、私には必要ない……」
すっかり、いつもの龍見だ。真っ直ぐでドロドロとした、愛すべき同期で、好敵手だった。正面からゆっくり近寄り、龍見の手を取って握る。龍見はされるがままだ。
「ありがとう、龍見。勝つのは僕だけど、不安だろうから……手付を払っておくよ。」
そう言って、龍見の右手に口付ける。鍛錬に明け暮れて皮は厚く、傷痕も目立ち、所々が黒ずんだ、破壊の機能美のみを追求した手……僕を倒す為に、何度でも痛めつけた手だった。小銃を振り回し、僕の臓腑を突き上げ、組み合い、何度も熱を交わした、愛おしい手だった。唇を離すと、龍見は短く息を漏らす。
「手付を払ったから、もう逃げられないぞ龍見……最高の勝負にしような……」
龍見を現世に縛り付けた。同期を死なせるつもりはない。絶対に、勝たなくてはならない。龍見のため、ユキのため、そして僕自身のためにも。
それからの僕と龍見は、二人でジョギングしていた体で生活隊舎まで戻った。その道中では龍見と会話が弾む事は無かったものの、だからと言って別に気まずい空気にはならなかった。元より、会話するよりも殴り合っている時間が多い二人だから……少なくとも僕には、龍見が今すぐに死のうとはしないであろう事が解った。それで十分だった。
「それじゃ、2週間後の日曜日、10時に格闘場で。まずちゃんと休めよ、龍見。」
隊舎の前でそう声を掛けて、別れようとしたところで龍見が言った。
「鮫上! ……鮫上は、最後の勝負に勝ったら何を望むんだ? 先に言っておくが、ジュース奢ってくれだなんて、もう駄目だからな。私は……お前の望みなら、何でも聞くぞ。」
国の為に、良い将校になって頑張れ……ユキにも話したそういうお願いを龍見にする事が、事情を知った後では少し酷な気がしていた。さりとて妙案が浮かばない。ならば、
「当日、僕が勝ってからのお楽しみさ。震えて待っていてくれ、龍見……」
「ふん、勝つのは私だ……婚姻届の証人でも集めておくんだな、鮫上……」
即座に煽り返される。すっかり元の龍見だった。




