第四章 白鳥 (三)未遂
夜の駐屯地を走っている。連隊の隊舎、他部隊の隊舎、僕らの住む生活隊舎、駐車場、器材倉庫、整備工場、体育館、屋内プール、講堂、酒保、隊員浴場、演習場に満たない練兵場……見慣れたいつもの駐屯地の景色を、いつものようにユキと二人で走っている。大した速度ではないが、これまたいつもの通り、僕らの背には20キログラムの背嚢があった。走ると前後左右に揺れる荷物が、体幹を締め上げていく。普段ならば体力維持程度の負荷であるが……一週間以上寝ていた身にはなかなかに響くものがあった。その間にも練成を欠かさなかったであろうユキは、すぐ横で涼しい顔をして並走している。
「サメ、龍見のところに行くの?」
今も走りながら、顔をこちらに向けて息も切らさず、しかし不安げな様子でそう言った。
「聞いていたろう、ユキ。とりあえず、面接とやらには行かないと……」
「違う、そっちじゃない。」
即座に否定した顔は少しむくれていた……あぁ、そういう事か。やはり僕の旦那は勘が鋭いというか、僕の考えている事がよく解るようだった。きっと面談の時にも、龍見の様子を見に行かないと、と僕が考えていた事を察知していたのだろう。
「龍見はあんな性格だから、今回の件で相当参ってるんじゃないか? だったら、去る者から残る者への励ましは必要だろう……」
「いつもの勝負もやるの? まったく、龍見は何であんなにもサメに突っかかるんだか……」
教育隊の頃から続く龍見との定期的な勝負は、ユキも当然知るところであった。これまでの勝負のほとんどをユキも見届けているが、龍見の目的についてユキに話した事はなかった。
「いや、求婚されていてな。覚えてないかもしれないけど、勝ったら言う事聞いてやるって一番始めの勝負の時に言ってただろ? それからずっと、勝ったら結婚だって感じでさ……」
ユキはこちらを見ながら口をポカンと開けて、言葉を失っていた。でも足は止まっていない辺り、まだ茫然自失と言った感じでも無いはずだ。そのまま続ける。
「何にせよ、直接的に結婚してくれと言われたのは最初くらいで……後はずっと前と同じだって感じだったから。案外、龍見自身も求婚した事なんて忘れてるんじゃないかな。ほら、手段と目的が入れ替わるっていうヤツさ。多分、龍見は僕に勝ちたいだけだよ。それに、次の勝負が最後だって言ってたから……入校も予定してたからね……」
「……サメ、サメの分のお願いは? 何回も勝ってるよね?」
「いや、毎回終わった後に龍見が僕らにジュース奢ってくれてたろ? アレだよ。」
今度こそユキの足は止まった……黙って下を向いており、その表情は伺えない。僕も足を止めてユキの下へ歩いて戻ると、その身体が震えているのが薄暗い常夜灯の下でも見て取れた。
「サメ、最後の勝負はやめよう。片目を失くして視野は狭いし、深視力だって悪くなってるはずなんだ……本当に危ないよ。ただでさえ、最近の試合での龍見は荒かった……サメが龍見に二回も傷付けられるような事があったら……オレ、本当に龍見を殺さないといけなくなる……」
どこまでも僕の身を案じてくれている優しい旦那だった。その一方で、旦那を泣かせている僕は間違いなく酷い女房だ。だけど僕は、安心させるためだけに嘘は付けない。ユキもユキだが、僕も僕でなかなか頑固者らしい……泣かせると解っていて、こんな事を言うのだから。
「ごめんなユキ、僕は逃げないし負けないよ。明日から空いた時間は軍格闘の練成に充てて、片目での戦い方に慣れてみせる。そして龍見には勝者の権利を行使して、良い将校になって国に奉仕するようお願いしようと思ってるんだ……僕の最後の仕事にぴったりじゃないか?」
「……負けたらどうするの? もしも龍見にその気があったら……オレは軍人としてのサメを奪われて、その上で家族としてのサメも龍見に奪われるのか? そんなの、」
ユキを抱き締めた。背嚢で手を回しづらいが、顎の下に小さな頭を埋めさせて、密着する。僕は最後の勝負を完遂して龍見を送り出してやりたいし、ユキは少しでもリスクは避けたい。これらが到底交わる事のない平行線であることは、発する前から解っていた。だから卑怯だけど、僕は抱擁してユキの発言を止める事にした。その体勢のまま、言葉を被せる。
「僕の一番はユキだ。それだけはこれからも変わらないし、誰にも干渉できない。心配掛けて本当に悪いとは思うけど……これは僕のけじめでもあるから、どうか最後までやらせてくれ。絶対に、負けないから。」
我ながら酷い、やり口とも言えないようなゴリ押しではあったが……ユキは許してくれた。まったく酷い女房だと不貞腐れていたけれど、表情に明るさが戻っていた。ひょっとしたら、僕に呆れ返っているだけかもしれないけれど。
そうやって久しぶりの日課も半ばに差し掛かった頃……普段は使用されていない、人気の少ない外に通じる門の近くに動く影を見た。僕らのようにトレーニング目的で居るわけではない事が、その不自然な動きで解る。二人で息を潜めて観察していると、程なくしてガシャン、と門に近い外柵に触れる音がしたので確信した。
脱柵者だ。
基本的に兵隊と下士官は駐屯地の中で暮らしている。そんな生活に嫌気が差した者、その中でも依願除隊や任期除隊を待てない者が、こうして脱柵する事は珍しくもない出来事だった。そして、これを捕まえるか未然に防いだ者には、ちょっとした贈り物――大抵は酒保や駐屯地内の喫茶店のサービス券が与えられる。僕とユキは、脱着機構で背嚢を素早く取り外した。
「やったね、サメ……オレ、タダで食べるケーキぐらい好きな物って無いよ。」
新兵教育隊の夏季休暇中、二人で旅行した時からユキの好物はケーキになった。中でも好みは、苺が乗ったショートケーキで……きっと今、頭の中で浮かべているのもそれに違いない。
「良かったな、僕もケーキを食べるユキを見るのは好きだよ。僕の分も食べるといい。」
お喋りも程々に、身軽になった僕らは足音を殺しつつ速やかに接近する。迷いがあるのか、対象はまだ外柵を登っていない。あと40メートル。
いつもの流れに従って、ここから僕とユキは別れる。僕は脱柵者を取り押さえに行き、ユキは駐屯地警備隊の詰め所に向かう。未然に防ぐだけでもサービス券は確定だ、すでに外柵には脱柵者の指紋もベッタリ着いている……言い逃れはできないだろう。脱柵者は意を決したのか、足を外柵に掛けて登り出した。あと25メートル。
暗がりであっても、もう解る……この脱柵者は相当体格がいい。いや、良すぎると言ってもいい。そして、外柵を登る身体操作も相当のモノだった。返しと鉄条網の付いた5メートルにも達する外柵の、もう中程にいる。あと10メートル……あぁ、まさか。
――ピィーッ! ピィーッ! ピィーッ!
はっきりと認識したその瞬間、僕は指笛で長音を三回鳴らした。ユキとの事前の取り決めで、それは全ての行動中止と集合を意味する。その指笛の音を聞いて、脱柵者の動きも完全に停止していた。僕は近づいて、声を潜めて話しかける。
「大丈夫、警備隊に突き出したりしない……門扉周りのセンサーが反応しているかもしれないから、見回りが来る可能性がある。すぐここを離れるぞ! 早く降りてこい、龍見!」




