第三章 龍見 (六)距離
元から悔恨や羞恥で茹で上がりきっていた、十分に働いていると到底いえない私の頭の中。その中を、更にまとまりのない思考が走り回っている。
なぜいきなり求婚しているのか。こんな臭い身体でお前は何を言ってるんだ、早くシャワーブースに入って洗え。こんな事言われても鮫上は困る。お前は何を考えているんだ。弱ったところを優しく慰められるだけで靡くような女なのか。そもそも勝手に結婚など誰が許すのか、相手の親御も知らないのに。しかも5つも年下だぞ、男女が逆なら……いや、そうでなくても……ひょっとしてこんなのって、犯罪じゃないのか。
鮫上は私の腕の中で黙っている。抱き締められるがままにされていて、身動ぎひとつしない……明らかな拒絶こそ表明されていないものの、静寂の意味するところが段々と怖くなってきたところで、鮫上は耳元でポツリと囁いた。
「なぁ龍見、まさか……忘れているのか?」
その発言の意味が全く飲み込めなかった。鮫上が覚えていて、私が忘れている? 何を? まさかお互いの事を? するとなんだ、遠い昔に私達は出会っていて……それを私だけが覚えていなかったとでもいうのか。
思わず抱擁を解いて顔を引き、鮫上の顔を確かめる。記憶を遡ってみても、キョトンとした表情で私を見つめているその顔に、やはり覚えがない。とんでもない不義理に感じた……私は過去に面識があった事も忘れて、相手に求婚してしまったというのか。
「すっ、すまない……覚えて、いない……」
「えっ、本当に……冗談じゃなくて、本当に覚えていないのか? 困るなぁ……」
その表情には驚きと焦りのようなものが見られた。もしかしたら、心底軽蔑されているのかもしれない。そう思うと、何故こんなにも胸の奥が締め付けられるように辛いのだろうか……黙っていないでどうにか言い訳でも詫びの言葉でも紡ぎたいところだが、いつもの調子で言葉を発する事が全くできない。
理由は明白だった。今日の試合、その僅か10分にも満たない時間と先程の告解だけで……私の中で鮫上という存在がまるで変わってしまった。こうしている間にも存在感が大きくなり続けていて、もう無視できない。私は、この男を好いている。欲しいと思うばかりか、自身も求められたいと思っているのだ。いよいよそう自覚すると、先程までとは違う理由で頭が熱くなってきた……そのタイミングで、
「龍見も意外に抜けているところがあるんだな……じゃあ、もう一回言っておくよ。いいかい龍見、言う事を聞いてあげられるのは、龍見が勝った時だよ……」
思考が停止する……完全な、思い違いだった。鮫上はいつもの笑みで続ける。
「今回は僕の勝ちだからね……そのお願いは聞けないな。」
全ての恥ずかしさが結集して、遅れて押し寄せて来た。もう私は、慌ててシャワーブースに逃げ込む他なかった。少し間をおいてシンクで洗い物をする音が聞こえて来たが、その気配が完全に消えるまで出られなかった。
◇ ◇ ◇
私はその後、相馬二等兵に持ってきてもらった着替えを着て居室に帰った。帰る前に、私は相馬二等兵にこれまでの行いについて謝罪した……思えば体力面で劣る彼女に対しても、随分と押し付けがましい事をしてしまっていた。謝罪を黙って聞いた彼女は、いいよ、と軽い調子ですんなり受け入れてくれた。続けて言うには、
「龍見さん以外の班員で集まった時に、鮫上君がね……龍見は方向性がちょっとズレてるだけだから責めないでやってくれ、って。僕が語り合って軌道修正するから大丈夫、なんて言ってたのよ……まさか身体で語り合うとは、誰も思わなかったけど。」
心底おかしそうに、相馬は笑っていた。私以外で集まっていた事にモヤモヤしていいのか、ズレてると鮫上に言われていた事にムカムカしていいのか……聞いている内に解らなくなってきたが、いずれにせよ赤面する結末は一緒だった。
「でもね、私ももっと……黙って受け取るだけじゃなくて、龍見さんにその時に思ったことを言っておけば良かったな、って思ったの。そうすれば、ここまでの事にはならなかったかもしれない……だから、私は大丈夫よ。これからはちゃんと、私も言いたい事は龍見さんに言う。だから龍見さんも、何でも言ってね……せっかく同期になれたんだし。」
私は謝罪を通して、初めてちゃんと同期に寄り添えた気がした。これまで私は一方的に手を差し伸べて助けるつもりでいたが……決してそうではなかった。むしろ人の機微に疎かった私こそ、同期との対等な関わりの中で足りなかった人間性を補完させてもらえるのだと解った。私の方がよっぽど、同期に助けられているのだ……同期と支え合い、高め合うという言葉の意味に、ようやく少し触れた気がする。目頭が、熱くなる。
「それでさ、龍見さん。さっきのプロポーズなんだけど……」
「……いっ、いつから見ていたッ!?」
相馬は悪戯な笑みを浮かべている……涙は一瞬で干上がった。その後、帰り着いた大部屋の全員の前で鮫上との事を洗いざらい白状させられたし、これまでの振る舞いに対する謝罪は、驚くほどすんなりと受け入れられた……期せずして、胸襟を開いた結果であった。
次の日には訓練班の男性隊員にも謝罪した。全員がいいよいいよ、と事も無げに私を許し、その上で試合で見せた武道の話について私に聞いてきたりもした……さっぱりとした気風の、懐の深い同期たちだった。彼らにちゃんと応えたいと思った。
それ以降の私は、本心から同期のみんなの事をもっと知りたいと思えたし……その上で手助け出来ることがあれば一緒になって模索した。知恵が足りなければ皆で意見を交わしあった。そういう積み重ねを経てようやく、本当の意味で私は彼らと同期になれたのだと思う。
だが、そんな中でも同期の内で一人だけ……鮫上にだけはまだ何も返せていない。あるいは踏み込めていない、と感じていた。それに、既に打ち明けてしまった私の胸の内の事もある。その事について問い質すには日にちが開き過ぎており、完全に機を逸していた。
待っている間に、次の機会は自然とやってきた……軍格闘の課目である。あの試合以来の、軍格闘……それも試合形式で体格の近い者同士で、となると私の相手は自然と限られていた。今再び、私の目の前に鮫上が、あの日と同じ姿で対峙している。間もなく始まってしまう……胸の高鳴りはもう、抑える術を持たない。始まる前に、鮫上にそっと囁く。
「鮫上、私と勝負してくれ……お願いが、あるんだ。」
「……それって、前のと同じお願い?」
私は頷いて答える。それを受けて、鮫上は呟く。
「いいよ。じゃあ僕が勝ったら……今度は僕のお願いを聞いてもらおうかな……」
鮫上のお願い、という響きに背筋がゾクリとした。自然とあの日の試合を思い出していた……この男になら、もはや何をされても構わない。そうされる事が私自身の望みであるかのようにさえ感じた。きっと私は、この男の望みが何であろうと全てを受け入れるだろう。
「構わない……何でも言う事を聞こう、約束する。」
そうして始まった勝負は、いとも簡単に終わった。私の見せ場は、まるでなく……武装解除され、簡単に転がされ、軽やかに留めを刺された。二度三度とやったものの、鮫上の使う手技こそ変わりはすれど結末は同じだった。転がった私に手を貸しながら、鮫上が言う。
「龍見、すまないが……人生を懸けられたら僕も全力でやるしかないからね。もしそんな場面で手を抜かれたら、龍見も嫌だろう?」
鮫上の言う通りだった。箸にも棒にもかからなかった結果自体には不満だったが、もし鮫上が手を抜くような事があったら……その方がよっぽど許せなかっただろう。そして、その事をちゃんと解っている鮫上はやはり私の好いた男だと思った。
「あとな、龍見……龍見も女の子なんだから、何でも言う事を聞くなんて言っちゃ駄目だぞ。お願いはこの後、自販機でジュースでも買ってくれたらいいから。」
そう言って鮫上は私を起こすと、格闘場の端へと引っ込んで行った……次に試合する組が入ってくるが、私の目は未だに鮫上を追い続けている。なんという鈍感さなのか……あるいは、解っていてそうしているのか。いずれにせよ、これでハッキリした……私は、鮫上に勝たねばならない。その上でなければ、きっとこの想いが受け入れられる事はないのだろう。
「……諦めないぞ……」
これまでは、欲しい物や成果が手に入らない事を知らない人生だと思っていた。今では明確に間違いだと解る……思い返せばどれもこれも、そこそこ欲しいものでしかなかった。そして今、私が心底欲しているものは、今の私には到底届かない事をも理解した。
私は誓った。必ずや鮫上との勝負に勝ち、鮫上との未来を手に入れる。助教に注意されて、遅れて格闘場の端へと戻る……座って人の試合を見ている内にようやく、女の子なんだから、という鮫上の言葉が脳に認識され……何度もその言葉を反芻しては悶々とした。
真夏の入道雲のような男だった。澄んだ青空に浮かぶ、コントラストの強い白。印影は強い立体感を放ち、容易に掴めそうにすら見えるが、その実、決して掴ませてはくれない。なのに向こうは私を飲み込まんばかりに大きく広がり、私の心を掴んでは揺さぶってくる始末だ。
私の心は鮫上に囚われていた。初めての執着だった。




