第三章 龍見 (五)同期
揺れている。そこは誰かの肩の上だった。霞がかった世界の中で、私は担がれていて、その誰かは歩いている……しっかりと地面を捉えた足取り。私の片足を巻き込みつつ前腕を掴んでいる、その手は大きく感じられる……この手の熱に、覚えがあった。先程まで、互いに交わしあった情熱の熱さだった。
徐々に思考が明瞭になっていく……鮫上に運ばれている。そして私は、完膚無きまでに鮫上に負けた……記憶の細部を手繰り寄せるよりも先に、自身の身に起きている異変を認識した。思わず身体を捩って、力の入らない身体で抵抗する。しかし、鮫上は動じなかった。
「暴れるな龍見……大丈夫だ、解ってる。だから今、連れて行ってるんじゃないか。」
「自分で……あ、歩ける……」
戦闘服、下着、ファールカップ、靴下の全てが水分を多分に含み、這い回るナメクジのように不愉快に下肢に纏わりついている……失禁していた。鮫上はもう着くから、と言って歩みを止めない……私は羞恥ですっかり、頭も顔も茹で上がったようになっていた。
あれだけの大口を叩いておきながら負け……得意な打撃に付き合って貰ってもなお負けた。その上、失禁した私は相手に担がれてどこかへ運ばれている。私が児童ならまだ良かったし、相手が年上の熟練者ならまだ解った。しかし私は22歳だし、相手は5つも年下の男だった。そうなるともはや、悔しさよりも羞恥が遥かに優った。
「着いたぞ、龍見……ゆっくり下ろすからな……」
そうして連れてこられたのは、格闘場にほど近い屋外のシャワーブース前だった。しかし、用意も無しに浴びてどうすればいいのか……と戸惑っていると、
「大丈夫だ、相馬が着替えを取りに行ってくれてるから……先に浴びておくといい。」
同じ訓練班の女性隊員だった。あんなにも偉そうな口を叩いていた私のために、彼女が公然で失禁した私の着替えを取りに走っているのかと思うと、いよいよ消えてしまいたい程に肩身が狭くなった。
「それから、防具は今から洗うから外すぞ。」
「じっ、自分で洗うッ……!」
私の抵抗を聴きもせず鮫上は縛着した紐を解き、私から胴プロテクターとファールカップを剥がし、シャワーブース横のシンクに持っていった。
「いいからいいから、どうせ僕のも……あー、汗で汚れたからな……早くシャワー浴びなよ、身体が冷えるぞ……相馬が来たら、僕は入れ替わりで出ていくからさ……」
言うが早いか、鮫上は戦闘服のジャケットを脱いで、シンクで二人分の防具を洗い始めた。私よりも狭い背中、小さな上背で……不満の一つも言わず気遣いまで見せ、黙々と私の不始末を処理している。その背中を見ていると、たまらなく自分が情けなく感じられた。
高慢ちきな女め、お前は雑魚だ、思い上がりめ……そう言われた方が、まだ心のやりようがあったかもしれない。そういった言葉なら、すんなりと受け入れられたかもしれない。しかし鮫上はどこまでも優しく、私をそのようには見ていないようにも思えた……そうなるともう、本人に確認せずには居られなかった。
「鮫上、やはり私は……間違っていて、増上慢だったのだろうか……?」
ああそうだ、と言ってくれて構わないと思った……鮫上の手が止まる。蛇口の水を止めて、こちらを向く。目は開かれていたが、あの強く鋭いものではなく、むしろ慈愛に満ちた眼差しにさえ見えた。声の調子もそれに相応しく、穏やかだった。
「全くの間違いでもないと、僕は思うよ……早すぎただけじゃないかな。」
「……早すぎた?」
鮫上は私の目を見て頷く。言葉が後に続く。
「国を想う気持ちとか、世界情勢だとか、国防とは何ぞや、ってのは兵隊にもあった方が良いとは思う……理想を言えばね。でもそれが必須なのは職業軍人からじゃないかな。兵隊はほら、契約社員みたいなものだし。」
「……しかし、兵に求められる役割も、近年では大きくなって……」
「それでも兵隊は兵隊だよ。命令を守り任務を遂行するために身体と技術を磨くのが全てさ。それ以上を求めたら、下士官との違いって何だ、ってならないか? 身分保障から何から違うのに、兵隊に下士官みたいな役割を期待するのは駄目じゃないかな……使う側からしたら便利かもしれないけどね。」
そう言われてみれば、そうかもしれない。階級制度がある以上は、それぞれの領分は明確にされるべきだろう。私の沈黙を待って、鮫上は続ける。
「下士官や士官になろうって人は、何年か兵隊勤めてからとか、幼年学校や大学から行くだろ? それは覚悟も出来てるだろうし、そういう教育の素養もあると思う……でも、新兵教育は民間人を兵隊にするところだ。年齢や前職や生活や、何から何まで違うところからいきなりみんな一緒の集団生活だから……慣れるだけでも大変だと思う。」
きっとそうだろう。消灯した部屋の中ですすり泣く誰かの声を、私も幾度も聞いた。
「そういう新しい事や習慣が始まったばかりの時は、多くの人にとって一番苦しい……そこでさっき言ったような教育をしても、知らない国の話ぐらい頭に入らないよ。だから、早すぎたんじゃないかなって思うんだ……どちらかと言うと、必要なのは同期の手助けじゃないかな。」
「私も……補習やメニューを……」
「それを提案する前にちゃんと相手と話はしたかい? 憶測で悪いけど、龍見はいきなり提案したんじゃないかな……ただでさえやる事が多い日々だからこそ、まず話してみないと。案外話してみたら、勉強法とかコツを教えるだけで大丈夫だったかもしれないし、体力練成だって運動に付き合ってやるくらいで良かったかもしれない……そういう話し合いをすっ飛ばして、これがやるべき事だ、って押し付けられると……同期としてはキツいと思うな。」
見透かされていた。確信があって言ったわけではないと思うが、鮫上の言った通りだった。私は、対話を欠いて……これが必要な事だと断じて、彼らと向き合わずに身勝手な押し付けをしていた。いよいよ恥ずかしさも頂点である。こんなにも思い上がった人間が……本物の高慢ちきが、私だった。そう結論付くと、もう涙は止められなかった。
「私は、私は……」
既に恥をかき尽くしたが、それでも泣き顔を見せたくはなかった……首を折り、顔を両の手で覆って泣く。そこに鮫上が近づく気配を感じるや、正面から抱きとめられた。片手は背中を優しく叩き、片手は頭を撫でている……その仕草は至って自然で、私は幼児のようにあやされていた。私はまだ汚れた服を着ていたが、不思議と抵抗する気すら起きなかった。
「全くの間違いでもないって言ったろう? 龍見の真っ直ぐなところ、僕は凄く良いと思う。ちゃんと相手の話を聞いたり、アプローチをちょっと変えたり……多分それだけでお互いに、もっと上手くやれるはずさ。大丈夫だよ。」
ゆっくりと慈しむように、優しく私の背中を叩くその掌から……試合の時とはまた違う熱を私は感じていた。
「初めて手合わせしたけど、龍見の手技はどれも綺麗だった……きっと相当、なんかの武道に打ち込んでたんだろう? 性格と一緒でさ、真っ直ぐで迷いがなかった。龍見の良いところだから、伸ばした方がいいな……」
いや、掌の熱ではなかった。触れられた場所が、熱を帯びているのだ。
背中も、頭も、その中身も……私は、熱に浮かされている。
「そろそろ相馬も来るかな……龍見、そろそろシャワー」
言葉を遮って、鮫上を強く抱きしめた。
「頼む、鮫上……私と、結婚してくれ……!」
顔を埋めた鮫上の肩口から、微かに私の粗相の存在を感じた。酷いプロポーズだった。




