第三章 龍見 (四)試合
軍格闘は、対峙した相手を無力化するためならば基本的に何でも有りであった。殴る、蹴る、関節を極める、投げる……あるいは小銃や銃剣で刺突し、切り裂き、またはそれらで打撃することも許されている。無論、訓練時において使用する小銃と銃剣は、本物と同じ長さと重さを備えた樹脂製の代物ではあるが。
それであっても、4キログラム近い得物を人間に向けて振り回すのである。当然、その衝撃に耐えうるだけの防具……フェイスガードや胴プロテクター、急所を守るファールカップ等の着用が義務付けられていた。今、私はこれらの防具に全身を包んで始まりの時を待っている。
小銃の整備中に鮫上二等兵と言い争いになった時に、その様子を他班の助教が見かけて……お前ら何を騒いでいる、と私たちの所へやってきた。助教に経緯を説明したところ、その日の夕刻のうちにこの場が設けられてしまった。今この格闘場に居る人間は助教が一人で、その他は訓練班員だった。その内の一人は目の前でフェイスガードを調整しており、後の残りは格闘場の外縁で、事の成り行きを見守っている。
助教曰く、わだかまりを残しては今後の班活動に支障を来すだろう、しかし言葉で通じない時もある……暴力は容認できない……だが、訓練ならば許される、と。正規の場所で、正規の防具を着用してやりなさい、審判は軍格闘指導員の俺が受け持ってやろう……とまで言った。懐が深いというより事態を面白がっている節さえ見られたが、この際どうでも良かったし……むしろ感謝こそしている。これで鮫上を叩きのめすために場の設定を考えなくても良くなったし、全ては訓練だ。これから何が起きても、これは訓練だ。
新兵教育隊において軍格闘の課目はまだ二度ほど受けただけであったが、武道の心得があった私にとって、さほど難しいものとは思えない。小銃と銃剣の扱いにしても教官から筋が良いと褒められていたし、それは徒手の打撃面で言えば尚更であった。それに加えて、私の身体である。8センチメートルほど私の方が背が高いし、筋肉量も優っているように見えた。
鮫上は決して小さくはないが、私とやり合うには小さすぎる。武道をやっていた私は、身体は小さくとも対峙するだけで強い圧力を感じさせる、そういう者たちが居ることも知っているが……目の前の男からは、そういった雰囲気はまるで感じられない。胴プロテクターを装着して顕になったその身体の線は、締まってこそいるが決して分厚くもなく……到底、私の打撃に耐えられるようには見えなかった。
「3本勝負で2本先取した方を勝者とする。時間制限なし、場外なし、禁じ手なし、双方小銃を持って開始、銃剣は腰に差しておく……いいか?」
助教が言った。目が爛々としている。きっと心底、こういうのが好きなのだろう。
「「はい。」」
「怪我する前には止めてやるから、思い切りやれよ……構えて!」
互いに小銃を構えた。私の小銃の切っ先は微動だにせず、喉元へ一直線に向かっている……向けられた鮫上自身、私の圧力と殺意を全身で感じているはずだった。私の身体はもう、縮みきったバネのように解き放たれるのを待っている。妙な小細工は、要らない。始まりの合図と共にきっと、私は一気に鮫上の喉元を突くだろう。
対する鮫上は、構えた小銃がフラフラと揺れていた。切っ先も喉や心臓ではなく、私の腹から鳩尾に向かっている。つい先日習ったばかりの構えさえ満足に出来ていないように見える。困惑というよりも、もはや怒りを覚えた。こんなザマで、よくもあんな事を言ってくれたものだ……せめて、終始圧倒してやろう。圧倒的に勝利を収め、私の正当性を知らしめるのだ……見ている他の班員にも。それからまた、私は私の信じるようにここでやっていく。
「始めッ!」
格闘場の柔らかい床を蹴り、足の指先から手首の関節に至るまでの全てを順序良く、爆発的に加速させる。その暴力的な加速の先端に小銃を乗せて、切っ先を鮫上の喉元へと運んだ――間違いなく、これまで培った武道の経験が活きた、渾身の突きだった。
――ダァン! ……パスッ……
ほんの一瞬で、勝負はついた。しっかりと握っていたはずの私の小銃は、まるで蔓か何かに絡め取られるようにして私の手元を離れて……少し離れた格闘場の床に叩きつけられていた。そうして丸腰になった私の胸に、軽く触れる程度の小銃による突きが入った。あまりに予想外な速さと試合の流れに呆然とする。小銃を握っていた私の両の手は、ビリビリと痺れている。
「一本ッ!」
助教が宣言し、鮫上は後ろへ下がり、班員たちはどよめいている……私だけが身動きが取れなかった。いったい何をされたのか解らなかった……ただただ解るのは、鮫上が私よりも遥かに軍格闘に精通していたらしい事と、私の知らない術理により武装解除された事だけだった。次第に顔が真っ赤になっていくのを感じる……得意であろう軍格闘の勝負に誘導されたこと、渾身の突きが赤子のようにあしらわれたこと、気迫のない軽い突きで留めを刺されたこと……あらゆる事実に対して頭に血が上って、つい子供のような言いがかりが口を衝いて出た。
「……ひっ、卑怯だぞ鮫上! 明らかに初心者じゃない、経験者ではないか!」
鮫上はいつもの笑い顔で、涼しげに応える。
「龍見……いつも君が言っている敵っていうのは……こっちの都合を考えてくれるのか?」
それは班員に幾度となく向けた、私の言葉だった。それが今や、自分に向けられている……顔の赤さの理由に羞恥が入り込みだしたその時に、助教が間に割って入った。
「鮫上! 煽り行為でペナルティだ……二本目は、鮫上のみ徒手とする!」
突如、助教から一方的に下された裁定……それは、あくまで対等な条件で勝負をしたかった私にとっては不本意なものであったので、思わず口にした。
「助教、それでは対等な勝負では……」
異議を唱えようとしたが、無駄だった。
「どうした龍見二等兵、審判に反抗するか? 異論があるならお前を失格にして、鮫上二等兵の勝利で終わっても俺はいいぞ? ……いいか二人とも、2本目の鮫上二等兵は徒手のみだ。これは決定で覆らない。わかったか?」
「「はい!」」
格闘場において、軍格闘指導員の審判は絶対であった。私は、鮫上に強制的にハンデをつけられてしまった事も不本意であったが、それよりも……もし私が、小銃を持った私が、徒手の相手に負けることがあったとしたら……そんな恐怖が、頭の中にチラつきだしていた。それを追い払うように掌でフェイスガードを叩く。絶対に、負けられない。
後が無くなってしまったが、悪い事ばかりでもない。鮫上が経験者だと判明したが、これによって私は1本目よりも慎重に動けるだろう。それに不本意ではあるが、2本目の鮫上は徒手に限られており、対する私は小銃を使用できる。元来の体格差に加えて、こちらにだけリーチの長い得物がある、というのは明確な利点であった。
それらを踏まえると、私はこの利点を最大限に活かして2本目に望むべきだろう。まず鮫上の出方を見て……隙があればこちらから掛かっていくし、あちらが攻めてきたところをリーチの差で始末するのも良いだろう。ともあれ、次の一本だけは取らなければ……勝負に負ける。それだけは絶対に、避けなければならない。
鮫上の方を見ると……小銃と銃剣を外縁に置いて、開始位置に戻ってきたところであった。相変わらず雰囲気に闘志は感じられないが、もう騙されないぞ……持てる集中力、身体能力、判断力を全て使って、2本目は必ず獲る。
「構えて!」
私は小銃を、鮫上は両の拳を構える……冷静さと集中力が戻ってきているのを感じた。合図と同時に瞬発力を爆発させられるように、私は脚を溜めている。もういつでも飛び出せるし、そうしないことも出来る。これからの鮫上のあらゆる動きに対応してみせるつもりだ。
「始めッ!」
合図があって一瞬、格闘場にシン……と静寂が広がった。双方ともに見合って様子を見たためである。鮫上は両の拳を顔の高さまで上げ、拳の間からこちらをジッと見つめていた。あの強く、鋭い眼差しであった。その視線が絡んで、どれだけの時間が経っただろうか……実際には三秒と経っていないはずだが、私には長い時間そうしていたかのように思われた。
異変は突然であった。鮫上は両の拳を下ろし、僅かに落としていた腰さえも戻した。まるでそれは、戦う意志を放棄したかのように私の目に映った……格闘場の真ん中で今まさに試合をしている人間とは思えないその振る舞いが、空間との不協和音を産んで私を困惑させている。意図が読めない。私はまだ動けない。
すると鮫上は、まるで街中で出会った知人に歩み寄るかのような自然さで、私の元へと歩き始めた。敵意、害意、企みを感じさせない、どこまでも滑らかな自然さ。その自然さが、この格闘場にはあまりに不釣り合いな自然さが、私の反応を一瞬だけ遅らせた。不味い。だが……まだ、間に合う距離のはずだ。
私は溜めていた足を解き放ち、突きを繰り出す……速度も乗り、腰の入った刺突であった……しかし、これを読んでいたと言わんばかりに鮫上は突き出した腕の側に回り込んで避ける。その次の瞬間、私は手首を極められて投げ飛ばされていた。
――ズドンッ!
かろうじて受け身は取れたが、視界が揺れた……手放して床に落ちた小銃は、鮫上によって場外へと排除される。そして鮫上は、開始位置に後退りで戻っていく。目の前の流れに、私は強い違和感を感じていた……なぜ鮫上は、小銃の排除よりも先に留めを刺さなかったのか? 呆然と考えていると助教が、
「龍見ィ、さっさと立て! 鮫上二等兵がお前を待っているのに、もう降参か!?」
ようやく理解した。そのときになって、本当に鮫上は気持ちのいい男なのだと解った。双方が小銃の状況も、片方が小銃の状況も、どちらも私の本域ではないから……2本目の勝負を、私の領分でやらせてくれるという事なのだろう……不思議と、馬鹿にされたとか、侮られたというような気分にはならなかった。澄んだ青空のような爽快さだった。
実際、鮫上は留めを刺せたのだ……誰の目にも私は既に負けているし、私自身も口にこそしていないが、内心でそう認めている。
約束通り、私は今後、同期への接し方を改めるだろう――だが、今だけは。
この試合が終わるその時まで、そんな事は考えられない。
もう本当に、どうでもいい。
私の身体に、頭に、心に火が付いている。
この火を鎮めるには、もはや目の前の男と、どんな睦言や性交よりも濃厚な試合を交わすしかなかった。
立ち上がる、ダメージはない。腰に刺した銃剣を抜き、場外へと捨てる。これでようやく、私と鮫上は対等だ、裸同士だ……何も隠すものもなく、後は死力を尽くすだけ。2本目はまだ終わってないのだから、合図は要らなかった……私は鮫上に掛かっていく。
そこからの私は……持てる技量と体力の限りに、鮫島の顔を、胸を、腹を、脚を、殴った、殴った、殴ったし、蹴った……蹴りに蹴った。鮫上はこれを捌き、時には打ち返し、苦し紛れに出してしまった甘い蹴りを掴んでは軸足を刈り、私を転倒させたりもした。それでも鮫上は追撃する訳でもなく、私が起き上がるのをただ待っていた……本当に、いい男だと思った。
私の打撃も幾らか、鮫上にまともに入っていた。防具を着けているとはいえ、平気であるはずもない……それでも、鮫上は倒れずに立ってくれている。私だけのために、身体中の痛みに耐えて立っている。なんて健気で、愛おしいのだろう。どうか、このまま倒れないでくれ……ずっと私とこうしていよう、と願っていたが……無情にも終わりの時はやってきた。
私の持久力が、先に限界を迎えていた。動きに精彩さを欠いてきているのは、私自身も自覚していたし、きっと周りから見ても明らかだったろう……それでも意地で続けたかった。この試合を終わらせたくなかった。不意に、鮫上が小声で尋ねてくる。
「もう、いいんじゃないか?」
私はもはや、声も出せなかった。ただただ、子供のように首を横に振って嫌がった。それを見た鮫上は、いつもより柔らかい笑顔で小さく笑う。
「また、今度な」
小声でそう囁いてから間もなく、鮫上は私の意識を刈り取った。
私と鮫上の、初めての試合が終わった。




